籠の中の鳥
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「おい、起きろウィーリ」
ウィーリが目を覚ますと少し年上のモーリスが慌ただしく食事をしていた。その表情は明らかに何かに怯えているようであった。顎の周りの汚れを拭く様子もなく、ただ定まらない一点を凝視しながら忙しく顎を動かし続ける。地響きを伴った鐘の音が鳴り響いた。土の壁から細かい土埃が落ち、照明が僅かに点滅する。ドアの外が急に騒がしくなり、その騒音はウィーリにとって一日の始まりを猥雑に心づかせる物であった。軋む身体に鞭を打ち立ち上がる。モーリスが巣穴の電気を消し、ドアを開けると既に多くの働き蟻が行列をなして地上へと続く狭い通路に並んでいた。少しすると広い空間があり、そこにある掲示板に今日の役割が分隊毎に割り当てられていた。
「モーリスは今日何の役を貰っているんだい?」
掲示板を少し見てから踵を返し出口へ向かうモーリスの背中にウィーリは尋ねた。
「俺は昨日仕留めた蟷螂を運ぶんだ、この巣は入り口が入り組んでいるからどうしても獲物の脚や頭が引っ掛かっちまう。だから小さく刻んでから運ぶんだ、それがどうも俺には向かねぇみたいで嫌になる」
苦虫を噛み潰したような表情で先を急ぐ彼にはこの巣からそう遠くないルリコロニーに誘拐されたトニーと言う仲間がいた。それが4日前、人間が巣穴に熱湯を注ぎ込んだ事により、巣にいた女王蟻を含む数千匹の蟻は全滅した。死体が穴に詰まり生存者を探すのは困難を極めた。トニーは結局見つからずに、昨晩の重役会議でその巣穴は埋められる事に決まった。重役達が事件の後始末を買って出たのはルリコロニーの領地を一任される為である。
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モーリスとトニーはとても仲が良かった、ウィーリにとってもトニーは数少ない家族の一員であり、日々の過酷な労働の苦労を分かち合える仲であった。もっとも、モーリスが最近塞ぎ込んでいるのはこの一連の事件に由来する。この小さなコロニーの中は行き過ぎた規律と虐待が働き蟻たちを苦しめ、多くの蟻が心に闇を抱えていたのである。その中で明るいトニーの存在はとても大きかったのである。
幼少の頃から同じ老婆に育てられた縁で三人はとても気の合う仲であった。数年前、この巣の女王蟻エドナは心の美しさと美貌で皆から慕われていた。モーリスは昔女王の部屋を掃除する役を与えられ、彼の熱心な姿勢をエドナにひどく気に入られ、後に小さな部屋を与えられる。この巣の中で部屋を持つ働き蟻は少ない、多くのものは広間や通路で休息していた。更にはトニーとウィーリを同居させると言う要望も難なく通ったのである。今では悪しき幹部の連中からの影響ですっかり悪に染まってしまった。美しかった顔は悪魔のように衰え、眉間に切り刻まれた皺は悪の象徴ともとれた。エドナに仕える下女達は彼女のストレスのはけ口にされ、鞭で叩かれずに一日を過ごす者は居なかった。
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地上に出たウィーリは仲間の残したフェロモンを辿りながらルリコロニーの領地の手前で足を止めた。ルリコロニーの領地にはまだ獲物の死骸や年老いた働き蟻達が無残に放置されたままであった。皮肉にも天気は良く、遠くの空まで晴れ渡り小鳥のさえずりが優雅にウィーリの背後にある森の中で反響していた。風を感じなかったが草木が揺れる音だけが絶え間なく様々な場所から聞こえてきた。
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ウィーリはこのトビーロシアコロニーの国境の防衛に従事していた。毎日繰り返されるこの気が滅入るような役割は如何なるコロニーにとっても非常に重要な任務であり過酷である。他のコロニーに攻められた場合に殆どの確率で命を落とす事になる上に、仲間に情報が伝わるまでは持ちこたえなければならないのである。
眼下に広がる景色、人間が何十年と歳月を重ねて作り上げてきた建造物の集合体を見つめながらウィーリは考えていた、今の女王の為に命を落とす事が出来るだろうか。自ら産んだ子にそそのかされ、自らの子を苦しめるエドナが惨めで情けなかった。それでも自分を産んでくれた感謝の気持ちだけがこれまでのウィーリを突き動かしていた。しかし、当然のように働き、休む暇など貰えずに苦しみに耐え、ゴミのように捨てられる。そんな生になんの意味があるのだろうか。
服従する事を受け入れた者の末路をウィーリは知っていた。昨日は年老いた老婆が死ぬまで鞭で長官に殴られていたのを偶然見てしまった。床には血溜まりが出来ていたが老婆は死ぬまで必死に謝り続けていた。それにも関わらず狂気の男は老婆を殴り続けた。長官は満足げに動かなくなった老婆をただ見下ろすだけであった。こんなにも簡単に生が奪われて良いはずが無かった。ウィーリはその時確信したのだ。
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傷つける必要の無い生を傷つける事に躊躇しなくなった者は、他者を退ける力を選択した者である。
関わりの無い生に尊敬の念を感じ、無償の愛を注ぐ事に躊躇しなくなった者は、真の意味での強さを選択した者である。
前者を選択した者の辿る末路は一概に悲しい物である。後者を選択した者の末路はたといどのような最後であれ、生の終わりに美しさを見出した者であり、それを幸福と呼べるのでは無いだろうか。
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ふと振り返った視線の先の光景にウィーリは戸惑ってしまった。土の一部が盛り上がって僅かに動いていたのである。ウィーリは静かに近づき息を殺す。大丈夫、ほら光が見えた。さあ、もうすぐだ。
間もなく盛り上がった土の中からトニーが現れた、続いて女王蟻、2匹の下女らしき働き蟻がやっとの事で地上に這い出し、穴のすぐ横に腰を下ろした。トニーは呆然と立ち尽くしたウィーリを見るなりやあ、久しぶりだな兄弟と言って笑った。
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ウィーリは何故誘拐され死んだ筈のトニーがルリコロニーの女王とこんな所から這い出してきたのか見当が付かなかった。
不意にトニーの顔から笑顔が消え去った。
「モーリスは心配してたか?すぐに帰れそうになかったからお前たちの事が気掛かりだったんだ」
「モーリスはここ数日酷く落ち込んでいたよ、もうトニーとは会えないんだって」
トニーはそうか、とだけ言った。しかし気まぐれの天気のようにトニーの表情は直ぐに晴れ渡った。
「頭を下げよウィーリ!こちらはルリコロニーの女王マリー様であるぞ」
トニーは気取った口調で女王をウィーリに紹介した。ウィーリは言われた通りに膝を付き、少しだけ頭を下げる。
「こんなに土で汚れていたら威厳もないわね。私がマリーよ、宜しくね。トニーには本当に世話になったの、本当はもっと早くにそちらへお返しするつもりだったのだけれど、巣があんな風になってしまったから」
そこでマリーは話すのを止め、周りに転がる我が子の亡骸を見た。そして静かに目を閉じ、見えない何かと対話するように頭を下げ、少しの間手を合わせた。マリーの手が少しだけ震えていたのをウィーリは見逃さなかった。
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その日は落ち葉の下で肩を寄せ合って眠った。しかしウィーリは目の上の古傷が痛んでなかなか寝付けなかった。無防備な体勢でいびきをかいて寝ているトニーが少しだけ羨ましかった。モーリスは自分達を心配しているだろうかとウィーリは分かりきった答えを何度も自分に問いかけてみる。葉のいい香りがしていた。月の灯で細かい葉脈が太い線から幾つも伸びているのが見える。自分達の生きる道も同じくらいに伸びていても構わないとウィーリは思った。隣で眠るマリーの自分達よりも随分と大きく膨らんだ腹に少しだけ触れてみた。母の温もりが掌を通してウィーリの胸を包み込む、息が苦しかった。次々に溢れ出てくるこの感情を何処へしまえば楽になるのか誰も教えてはくれなかった。ウィーリは悲しくなり音を立てないように静かに涙を流したのである。すると細く艷やかな腕がウィーリの頭を撫でた。ウィーリは驚き、何かを言いかけた時、初めて聴く美しい音の羅列が耳の奥のもっと深い所で弾けた。マリーの声が美しい夕焼けの空や水鳥の白、揺らめく木の葉の緑に次々と絶え間なく変化していく。ウィーリの心は震わされ、行き場のなかった思いがどうでも良くなってしまった。
辺りが静寂を取り戻した頃、ウィーリの心には既に迷いは無くなっていた。
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ウィーリが目を覚ました時、既に太陽は真上にあった。今頃トビーロシアコロニーでは作業が一段落ついて、皆は短い休憩時間で額に流れた汗を拭っている頃である。ウィーリは少し罪悪感を感じたが、行く宛のないトニー達を放っては置けなかった。
「起きたか兄弟、気分はどうだ?そこに蜂蜜があるからさっさと食べて仕事を手伝ってくれよ。あとその蜂蜜は今朝近くを散策してたら偶然養蜂場を見つけて少し分けて貰ったんだ。旨いぞ」
体の汗を拭きながら戻って来たトニーがウィーリの横に腰を下ろした。
「ありがとう、でも仕事って何をするんだい?」
「決まってるだろ、巣を作るんだ。とびっきりでかいやつをな、でないと女王様が気の毒だ。それに俺はマリーが気に入った」
澄んだ目の奥に佇む瞳がウィーリを鋭く見据えていた。トニーは既に生きる道を選んでいたのであった。
「ねぇトニー、誘拐されてから何があったんだい?どうしてそんなにすぐに決断してしまうんだよ。二度とモーリスに会えなくても良いのかい?」
少し間をあけてからウィーリは言った。苦しみ悩みながら考え出した思いをあっさりとトニーが決断してしまった事と、その答えがウィーリとモーリスを見限ったように聞こえて腹が立ってしまった。ウィーリは知りたかったのである。昔からトニーは皆と違う考えを持っていて、良く笑っていた。ウィーリが苦しい時に幾度となくトニーの笑顔に救われたのであった。働き蟻の中でも、彼は苦しさのあまり気が狂ったのだとよく噂されたのであった。しかし本当は皆トニーが酷く羨ましかったのである。何故あんなにも辛い毎日の中で笑えるのか。妬みや嫉みの目がいつもトニーを睨んでいた。
「ウィーリ、あの日俺は狩りの為にこのルリコロニーの国境付近まで数匹の仲間と来ていたのさ。そうしたらルリコロニーの働き蟻達が石の上で騒いでたのを見たんだ、楽しそうに小枝で石を叩きながら。一人の男が力強い声で歌ってた。そのうち歌ってた男がこっちに気が付いて手を振ってきた。俺らはみんな呆れて声も出なかった。そしたら一緒に来てた仲間の一人が、あの間抜けな国の連中なら簡単に倒せるんじゃないかって言い出したんだ。他の国を攻める時って誰かが先に相手の戦力を調べる為に潜入するだろ?それで俺はその任務を引き受けて、残りの仲間は上の奴らに知らせる為に一旦巣に戻ることになった」
トニーは一度咳払いをして真剣な眼差しで話し続けた。
「まずは敵意が無い事を示す為に、その輪に入ってみる事にしたんだ。ルリコロニーの連中は皆活気があって直ぐに打ち解ける事ができた。一緒になって小枝で石を叩きながら少し覚えた歌を皆に合わせて歌ってみたんだ。その歌は日々の生活の中での苦しさや自分の弱さを言葉にしていた物だった。俺はいつの間にか夢中になって歌っていたんだ、リズムに合わせてそれらを吐き出す事で生きる糧を得たような気分になっていた。何が楽しいのか分からなくなるくらいに胸が熱くなったさ。歌が終わって感じたんだ。こんな風に生きたいとな。だからこれまでの生き方にはもう戻れないんだ。本当は俺、負けず嫌いだったからいつも笑ってたんだぜウィーリ、あいつらは俺達を支配してきたが、心までは支配出来ないんだ。自分の好きなように生きれば良い。いつか逃げ出してやろうと思っていたし、ここで生きることにしたのは音楽に出会って踏ん切りが付いただけの話なんだ。そして運良く生き残れた。そしてマリーに惚れたからって言うのも理由の一つなんだけどな」
トニーはそう言っていつものように笑っていた、その目には以前よりも輝きが増していたのであった。
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トニーは歌を歌っていたイーサンと言う大柄な男に部屋を案内され夜まで騒いだ。彼は大きな釜から酒を汲み出してトニーに振る舞ってくれた。トニーは木で出来たお猪口を珍しそうに眺めてから初めて見る酒に興奮していた。
「俺はこの国で生まれて本当に良かったと思っている。女王は肉体労働で疲れた俺達をいつも励ましてくれるし、俺達にはどんな時でも歌がある。疲れた時や悲しい時は大きな声で歌うんだ。まぁ何も無くても歌っているんだがな。この国にはある程度の働き蟻が揃っているから四日毎に休みを貰えて皆自由に暮らせるんだ。そうだ、野暮な事は聞かねぇが最初にお前を見た時、無理して笑っているような気がしたんだ。だからかも知れねぇがお前の歌は最高にシビれたぜ。さぁ飲めよ相棒、今日は腰抜けスパイの歓迎会だからな。だが俺は気に入ったやつにしか大切な酒を振る舞ったりしないんだぜ?今のお前の目は昼よりも輝いてる。ここで生きたきゃそうすればいいさ」
彼は最初からトニーの事を知りながら仲間のように接してくれたのだ。トニーは彼の気遣いに心の中で感謝した。
「イーサンにはなんでもお見通しなのか、これは参ったな。だけど俺は最初に君達が石の上で歌っていたのを見た時からスパイなんてするつもりなんて無かったのさ、単に羨ましかっただけなんだぜ」
イーサンはそうだったか、と言って豪快に笑ってから器の酒を飲み干した。それにつられてトニーも酒を少し嘗めてみた。葡萄の香りが鼻を抜け、甘みが頬を刺激する。そして後から爽やかな酸味を舌の上で感じた。これは旨い、トニーは笑顔でそう言ってイーサンを見ると彼も同じ様にそうだろ、と言って頷いた。
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あれから何時間経ったのだろうか。顎が痺れるような感覚がして、視線の先で蝋燭の火が揺れる。心臓の音が耳元で聞こえていた。胃の中には行き場のない気体が満ちていて、深呼吸を繰り返したが、直ぐには消えそうになかった。今にも瞼が視界を閉ざしてしまいそうである。トニーはそう大きくない部屋の端で毛布の上で横になっていた。ここはどこだろうか。女王蟻の背後にいた下女の二人は忙しく女王の身の回りの世話をしていたが、時々トニーを見ては怪訝そうな顔をした。女王蟻は静かに目を閉じ、新たな生を産んだ余韻に浸っていた。トニーも目を閉じてみる。少し透明がかった白い球体の中で鼓動する心臓の音が弱々しく、しかし着実に生の存在を揺るぎないものにしているような気がした。トニーは目を開く、女王のこめかみを流れた汗が顎の先端で雫となり地面に染み込んだ。不意にトニーは、女王蟻の役目が想像も付かない程の苦労である事を察したのである、そして自分がこの世に存在している事に現実味を失ってしまった。自分もこの様にしてあの醜くなってしまったエドナが腹を痛めて自分はこの世に生を授けられたのだろうか。トニーの目に映る神秘の光景は、夢の中で無数に聳える砂上の楼閣の一部であり、酔いから覚める頃には泡沫となり消えて行くのでは無いかと思ったのである。




