第六話
夕食の後は自室に戻り、寝る準備を整える。
夕食の間に寝乱れたシーツなどは綺麗に整えられていたのでいつでもベッドに入れるのだが、先ほどまで眠っていたので眠気がなかなかやってこない。
仕方がないので夜着の上に肩掛けを羽織り、ソファの上で子爵が私にと買ってきたお伽噺を集めた本に目を通す。
挿絵もふんだんに描かれ、装丁も美しい手元の本は一目で高価だと分かる。
印刷技術がなかった頃のように本が一冊一冊すべて手書きで、裕福な人間以外おいそれと手を出せない、という時代はとうに過ぎ去ったが、現在でも廉価本でさえ庶民が気軽に何冊も買えるほど安くはない。
装丁にまで凝った本製本の物は当然に高価な上、挿絵付きともなると普通の本よりも手間がかかる分だけ割高となる。
それが、異国の言葉で書かれた本ならなおのこと。
有名どころの話ばかりを集めた本なので、何度も読み返しているうちに挿絵の助けもあり異国の言葉で書かれていてもほぼ完ぺきに読み解けるまでになった。
「イザベル様はそちらの本がお好きですね」
「高尚な詩集よりはね」
側に控えていた女中頭の言葉に、最近読んだ詩集のことを思い出しながら答える。
高尚なのか、婉曲が過ぎるのか、それとも私が詩の才能に乏しいのか。
愛の詩を集めたものらしいが、あまり心惹かれる内容ではなかった。
理解できないことがモヤモヤと気持ち悪くて仕方なく読み返そうと思っていたのに、どこに片づけられたのか探しても出てこない。
「あの詩集のことはお忘れください。イザベル様がお読みになるには少々早すぎます」
「詩は何度も読むことでしか、その素晴らしさを味わうことはできないって、先生がおっしゃっていたけど」
「お忘れください。イザベル様がお読みになるには早いのです」
女中頭がここまで私に言い含めるとは、相当のことだ。
あの詩集には本当に何が書かれていたのだろう。
互いの肌を味わうとかなんとか、さっぱりと分からない詩の意味を近くに侍女に聞けば、侍女は顔を真っ赤にしていたことを思い出す。
分からないことを恥じたのかと思って、すぐに何でもない、と言ってまた一人で読み進めていたのだが、いつものように気配無くやって来た執事が妙に慌てた様子で、詩集を子爵が求めているから自分に預けてほしいと恭しく言ってきたので、読み途中の詩集を渡した。
それからしばらくして、詩集が何処にあるのかと執事に聞いてもどこかに片づけてしまったの一点張り。
あの卒のない有能な執事が読み途中の詩集を勝手に片づけたり、あまつさえ片付けた場所を忘れるなど変だと思っているのだが、見当たらないものは見当たらない。
頭をひねって考えるが、その時、急に襲ってきた眩暈に体が傾いだ。
ソファに倒れこむ前に眩暈は治まったが、次には体の芯から冷えていくような感覚に気持ち悪さがこみ上げる。
「イザベル様? そろそろベッドで休まれますか?」
急に傾いだ体に、眠気が襲ってきたのだろうと解釈した女中頭がそう勧めてくる。
それに答える前に深呼吸をすれば、血の気が戻ってきた。
「ええ」
声は震えなかった。本を置いて立ち上がる時にはふらついたが、女中頭が即座に体を支えてくれる。
「お支えしますね」
そう言ってベッドまで手を引いてくれるのがありがたかった。
覚束ない足取りのまま、ベッドにたどり着くと、どうにか自力で中に潜り込む。
「おやすみなさいませ」
私がベッドに入るまでを見届けた女中頭はそう言うと部屋の明かりを消して、そっと部屋から出ていった。
ベッドに入れば治まるだろうと思っていた気分の悪さが再びやってくる。
けれど、耐えられないほどではない。
誰かを呼ぶものでもないない。
(たぶん、ちょっと疲れただけ)
明日にはきっと、何ともなくなっている。
夜の闇の中で、私はそう考えて目を閉じた。
暗闇の中で鈍く痛み始めた頭は永遠に痛み続けるかとまで思ったが、いつの間にか私の意識は夢の中へと旅立っていた。
暗雲が立ち込める空からは静かに雨が降っている。
深更、夜番以外の家人はすでに寝静まったケインズ子爵家の町屋敷に、1つだけランプで煌々と照らされる部屋があった。
『朝の十時、アーサー様が三日ぶりにこちらのお屋敷へお帰りになった。イザベル様と会われた後、身を清められると執務室で領地から送られてきた書類を処理。一三時を過ぎて遅い昼食をお召し上がりになる。その後、一四時に夜会のお支度をする時間まで仮眠を取られる。ただし、仮眠を取られたのはお昼寝をされていたイザベル様と同じベッド』
几帳面な執事の文字が、今日の出来事を日誌に列記していく。
『十七時、イザベル様がお目覚めになられたと同時にアーサー様もお目覚めになる。イザベル様はお疲れだったのかそれまでアーサー様に気付かず、ぐっすりとお休みになっていた。女中頭や侍女達からも本日はイザベル様がぼんやりとされることが多かったとの報告が上がる。しばらくイザベル様のご体調を考えて授業などの予定を決める必要あり』
イザベル様に対する子爵の振る舞いに苦言を呈したくなる時はないでもないが、あの強情な方が改めるはずもない。
幼い頃から世話をしてきたが、大抵のことは柔軟に受け入れるものの、子爵にとってとても重要なことについてはどれだけ反対されようとご自分の意見を押し通すところは大人になっても変わらない。
『十八時、サリエリー辺境伯家の夜会にご出席されるため身支度を整えられたアーサー様をイザベル様と共に見送る。イザベル様がお見送りにおいでになる前に、アーサー様からイザベル様の体調に留意するようにとのお言葉を掛けられる。アーサー様をお見送りした後、イザベル様が夕食をお召し上がりになったものの、あまり食が進まない様子。普段であれば問題なくお召し上がりになるショコラのムースを重たく感じたとのこと』
女中頭によると熱はなかったようだが風邪の引き始めかもしれない、と書き添えて医者と薬を手配できるように文をしたためておく。
そうしてようやくペンを置いた執事は明日の予定を確認する。
(アーサー様はまた数日留守にされるでしょうし、イザベル様の授業は座学を中心にするよう私の方で指示を……)
その時、かすかに馬のいななきが聞こえた。
もしや、と思い部屋を出て夜番の者が控えている部屋に行き、すぐに湯を用意ができるように準備をしておくことを命じる。
リネン室でタオルをいくつか見繕って玄関に向かっていると、予想の通り夜間は鍵のかかっている玄関をノックする音が玄関ホールに重く響いた。
手持ちランプをランプ台に置き、扉の向こうに誰何すると子爵の従者として夜会へお供した者の声が返って来た。
すぐに扉を開けて中へ入れてやる。
開けてすぐに入って来た人物を見て、一瞬目を見張ったもののそれ以上の動揺を表に出すことなく恭しく頭を下げる。
「お召し物を」
外は雨が降っている。
濡れた服を早く脱がせなければ風邪をひいてしまうだろう。
無言で預けられた帽子と杖を一時的に近くのスタンドと物置台に置く。
従者の手を借りて手際よく脱いだインバネスコートはそのまま玄関わきのクロークに掛けられる。
用意していたタオルを差し出すと、濡れた髪や肌の滴を自身で拭っていく。
「お湯のご用意ができておりませんので、少々お待ちください。お身体が冷えるようでしたら暖炉に火をお入れいたします」
「火はいい。それより、あの子は寝ている?」
「はい。すでにお休みになっていらっしゃいます」
「……顔を見てくる」
タオルでは拭いきれない滴をぽたぽたと床に落としながら、子爵は歩き出す。
掃除のことを考えながら、執事は子爵の後に続いた。
※廉価本
安価な紙を使い、表紙に装丁がされていない本。日本でいう文庫本のカバーを取っ払ったもの。本製本よりも安価。
※本製本
硬いカバーの表紙で覆われた本。皮や厚紙を使ったり、紙の質にこだわったり、表紙に宝石や金箔を使ったりするものもある。装丁に意匠を凝らしたものほど高価。
※スタンド
文中での意味は傘立ならぬ、杖立。
※クローク
文中での意味は、コートをひっかけるハンガーラック。