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第五話

 女中頭の選んだ夜用礼装(イブニングドレス)を身に纏い、髪は侍女が顔の横に少し垂らす分を残しつつシニョンに結い上げた。

 このドレスにも髪留めにも靴にも見覚えがないということは、子爵はまた知らないうちに私のクローゼットの中身を増やしたのだろうか。

 

(散財が過ぎるわ。どうして誰も子爵に文句を言わないのかしら)


 雇い主に文句を言えような使用人がそうそう居ないことは分かっているが、私なんかにこれだけお金をかけるくらいなら給料を上げてくれと主張する者が居てもおかしくない。


 そもそも誰の目にも留まらないように生活しているのに、着飾ることにお金をかける意味が分からないのは私だけだろうか。


 先導する女中頭のあとを、普段よりも動きにくいドレス姿でついていくことには慣れた。けれど、今日は少し急ぎ気味だろうか。


 不思議に思いながらも、淑やかに、つまりは黙って料理人が腕を振るった夕食にありつくためについていく。


 体調が悪いなど理由がない限り夕食だけは食堂でとることになっているのだ。正直に言えば部屋に運んでもらう方が楽なのだが、決まりなら仕方ない。

 

 マナーとはそう言うものだ。

 なにかしら理由があるのだろうが、決まりならしかたない、と大抵は受入れるしかない。


 一日に何度もドレスを着替えるのも、扉は誰かが開けてくれるまで待つのも、面倒だけど受入れる。

 それに、ここまできっちりと作法を守るのは夕食の時だけだし、わざわざドレスを替えることも普段なら決まった日にしかしない。

 今日はその日ではないが夕食前に眠ったので、そのついでにドレスも替えただけだ。


「お嬢様、間に合いましたよ」


 先を行く女中頭にそう言われて、何のことかと視線を巡らせる。

 そうして視界に飛び込んできたのは、正装をした子爵の姿だった。


 普段よりもクラシカルで落ち着いたイブニングコートを身に纏った子爵は、その上にインバネスコートを重ねて着ている。

 今にも出かけるといった出で立ちの子爵が使うらしいステッキ帽子ハットを持った執事に何か話しかけていた。


「アーサー様をお見送りいたしましょう」


 子爵はもう出かけたものとばかり思っていたため、驚きに目を見張る私に女中頭が言葉を掛けた。

 急いでいると思ったら、女中頭の目的はこれだったらしい。

 私に言わなかったのは子爵の見送りに間に合わなくて私をがっかりさせないためだろうか。

 

 食堂は一階にあるため階下で執事と話をしている所へは自然と近付いていくことになる。

 足音に気づいた子爵が階段を降りる私に目を向ける。

 執事も子爵の視線に気づき、そっと私に場所を譲ってくれた。


 遠目には飾り気が無いように見えた子爵のイブニングコートは、近付いてみると生地の色と同じ色の糸で精緻な刺繍が施されていた。

 一目でセンスの良さと値段が窺い知れる意匠を凝らしながら、それをサラリと着こなす所が高貴な育ちを知らしめる。


 他と比較対象するのが難しいが、子爵の容姿もあいまって良く似合っていた。

 女性に人気があるのも頷けるし、女性が子爵に惑わされるのも仕方ないことだ。


 子爵の向かいに立った私が何かを言う前に子爵が口を開いた。


「いつもはスミレのように可憐だけれど、今は百合のように凛とした美しさがあるね」

「花にたとえられるのは、好きではありません」


 私のつっけんどんな返しに、子爵は楽しげに笑う。


「スミレや百合を見るたびに君のことを思い出すから、僕は君を花にたとえるのが好きだよ」


 そう言って、ごく自然にひざまづいて目線を合わせて私の横髪をすくいとり、唇を落とす。

 いつもならば、そのまま流れるように立ち上がり胡散臭い笑みを浮かべるはずなのだが、今日は少し違った。


 じっ、と至近距離のまま見つめられる。

 常に浮かべている笑みは消え、サファイアのような透き通った瞳が真剣に私だけを見つめている。

 射抜くような子爵の視線を身じろぎもせず受け止めていたが、こうも見つめられ続けるとどうして良いか分からない。


 ずっとこのままでいるわけにもいかず、私はようやく声を出すことを思い出した。 


「なん、ですか?」


 困惑が滲む私の声に、子爵は動揺した様子もなくニコッと例の胡散臭い笑みを浮かべて立ち上がると、いつもの調子で話し始めた。


「そういえば、笑ってお見送りしてくれるんだよね? マイ・レディ」

 

「お見送りはいたしますが、面白くもないのに笑いません」

「おや、僕のレディは僕が出かけてしまうのが寂しいのかな」


 言葉を良いようにとられて思わず反論しようとしたが、子爵の人差し指が私の唇に当てられる。

 

「心配しなくても、すぐに戻ってくるよ。僕が帰る場所は君の隣だ」


 何も言えないでいるうちに子爵はそう宣言すると私の唇に当てていた指を離し、執事からステッキと帽子を受け取って俳優じみた仕草をしながら、


「いってくる」


 と私に背を向けた。

 振り返らない背中に向かって、


「いってらっしゃいませ、子爵。どうか、お気をつけて」


 ドレスをつまみながら足と腰を折り、私は完璧な見送りの礼をした。

 先程の言葉通り、笑うことなく。


 執事の手によって開けられ、そして閉じられた玄関の扉の向こうからほどなく馬車の出る音がした。

 その音が遠ざかるまでぼんやりその場に立ちつくしていた私は、執事の「食堂へ参りましょう」の言葉を聞いて、ようやく足を動かした。


 使用人を労う会を開くとき以外は子爵と私の二人しか使わない、真っ白なテーブルクロスがかけられた長いテーブルの上に私一人分のセッティング。

 特別な日はコックが腕を振るったフルコースを堪能するが、普段はそんなに大袈裟な料理は出てこない。


 今日は魚介のスープにクルミを練り込んだパン、白身魚の蒸し煮にショコラのムース。

 甘ったるくはないが口に残る濃厚なショコラの余韻を紅茶で流す。


「今日も美味しかったわ。でも、最後はショコラよりゼリーとかすっきりしたもののほうがいいわね。ムースも美味しかったけど、あれだけ濃厚すぎたの」

「コックに伝えておきます」

「でも、私が小食の上に味が濃かったり油の多い料理が苦手だから、メニュー構成で手間をかけさせているのはわかっているわ」

「メニューに頭を悩ませるのもコックの仕事でございます」


 毎日の気温や天気、体調や好みを考えて美味しい料理を作り上げてくれるコックの腕に十分に応えられない胃袋が情けない。

 子爵は細身でありながら健啖家なのでコックも腕の振るい甲斐があるのだが、王都に滞在中の子爵はこの家にいないことのほうが多いので、私相手にちんまりした量を作るだけなのだ。

 家から出ない生活のせいか、体を動かしてお腹が空いたという経験にも乏しい。


 物心ついた頃にはひもじさと無縁だった。

 それはきっと、とても幸運なことなのだろう。


 私は子爵に感謝しなければならない。

 本来なら、私は道端に打ち捨てられてもおかしくない人間なのだ。


 子爵にだって、本当はあんな生意気な口を叩くのもおこがましい。


(でも、子爵が悪いんだもの)


 内心のそんな反論さえ子爵が受け入れてくれるからこそ許されているのだと、頭のどこかでは分かっていた。


夜用礼装イブニングドレス/(イブニングコート)

イブニングドレスは女性が夜に着る正装。イブニングコートは男性が夜に着る正装。夜に客人を招いたり夜会や晩餐会に出席する時は必ずドレスコード通りに着用する。礼儀作法マナーに厳格な家では普段でも夕食の前に必ず着替えるが、寛容な家では普段の日は朝から着たきりスズメというのも珍しくない。


帽子ハットステッキ

紳士が外出する際の必需品。


※インバネスコート

男性用の外套コートの一種。裾が二重にあり、袖のないものもある。マントとケープを合体させたような造り。アーサー・コナン・ドイルの小説『シャーロック・ホームズ』の主人公、シャーロック・ホームズが着ていることで有名。

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