芥川龍之介について考える
現代でも、
「芥川の描いた『羅生門』は、今の時代だ」
と、コメンテーターが大真面目に言う時がある。
偏差値の高い大学を出て、言うことがそれかい。
それほど、ズレてる感じはします。
芥川というのは、
『明治と昭和の境目』
という時代にいた作家だと思います。
芥川の作品は、初期と後期で全く違うと紋切り型の評価を下せますが、どうでしょう。
単純に、時代の変化に気づいた。
私は、そう思っています。
それを踏まえて、芥川の作品は読むべきかどうか。
私個人の意見としては、読む必要が無い、になります。
しかし、芥川の視点や不安は持つ必要がある。
なんともまぁ、我ながら情けない意見か。
芥川の存在は、
『日本文学に思想を持ち込んだ』
という、ものです。
文学というのは、その作品を読んでの感動、心の衝動であります。
思想というのは、どういう風に考えるのか、どうあるべきなのか。そういう漠然としたもので、それ自体で結晶化は出来ないものです。思想が分かるのは、それを体現した現象や事物に出会うときです。
芥川は、『思想』を日本文学に持ち込めることは出来た。しかし、鑑賞に値するような結晶化はできなかったんじゃないか。それを、本人が一番理解していた。
なぜなら、『思想を結晶化』させ、それが真に迫るものであれば、人間は生きるのだろうか。この不安を腫物のように宿していた。
今昔物語や宇治拾遺物語に着想を得て、作品を作った。
この評価は、違う気がします。
『人間とは何か』という思想を日本文学に持ち込むために、伝統的な古典作品という容器が必要であった。
明治という時代人は、全ての衣をはぎ取られて、住む場所を無くしても、『サムライ精神』は残った。
しかし、次の時代人、昭和は、全てを無くすと、『けだもの』というものになる。
芥川には、そういう不安があったんじゃないか。
『人間とは何か』
という問いは、いつの世でも通じる命題でありましょう。
芥川の存在は、日本文学の成長を意味します。
近代国家樹立のために生まれた『日本文学』という赤子が少年になった。
少年になり、『人間とは何だろう』と考えるようになったんですね。
しかし、歴史は、もっと大きな節目を迎えました。
日米間の戦争であります。
これにより、『日本文学における思想』は権威的なもの、権力者の道具になったんじゃないか。
ひょっとすると、それを論ずるにはまだ時間が早いかもしれません。
芥川の思想は、ある作家が凄まじい作品をもって結晶化させました。
太宰治、『人間失格』であります。
『人間味』とも言うような現象を徹底的に解剖したような作品です。メスで内蔵を切り取り、一つ一つ取り上げてゆくような、冷静とも狂気とも思える、『人間たり得る』現象の暴露。
見事に、『人間とは何か』を答えている。
話を振り出しに戻す。
「現代が『羅生門』の時代」
という発言の馬鹿馬鹿しさを説明します。
人間とは何か、ということを考えたのだから、
「どの時代にも通用しない方が問題である」
ということです。
芥川は、未来で読んでこその作家ではないか。
私は現代的価値観を持っておりません。言ってしまえば、昭和的な価値観の持ち主です。
平成や未来的価値観をもって生きる若い世代の方が、芥川を楽しめるのではないか。
そうだとすると、非常に羨ましいですねぇ。
余談ですが、太宰治は芥川賞を取らなかったと記憶しております。最も芥川の思想に応えた作家は、その賞をとらなかった。実に不思議なものです。