堕ちた悪魔と堕ちる天使
「や、やめろよてめぇ! 離せ!」
「やーだね。離しちゃったら君、すぐ逃げるでしょ?」
「当たり前だボケ!」
「じゃ、ダメ」
昔と変わらぬ優しい笑みの奥側に、あの頃は伺い知れ無かった鬼畜な影をちらつかせてそいつは笑った。
「ふざけんなこら! お前天使だろ! こんなことしていいと思ってんのかよ!」
「悪魔だって元は天使でしょ。さながら今は堕天使か。君は昔俺と仲良くしてたじゃん」
「何百年前の話だよ!」
「まだたった三百年しか経ってない」
大袈裟に言うんだからと再び天使は笑った。ふざけんな。神に逆らい堕ちた俺をお前は探してくれなかったじゃないか。天界を追放され、地上すらも突き破り、更に墜落してしまった俺をお前は笑っていたんだろ。
「いいから離せよ! 三百年だろうが三千年だろうが関係あるか! 俺はもうお前の知ってる俺じゃねぇ!」
見ろよ、この暗色の羽を。悪魔にまで成り下がってしまった俺は、もう昔の俺じゃない。
そう訴えて、未だに上で自分を抑えつけてくる天使の大腿を蹴った。
「……そして悪魔は人間に忌み嫌われる。知ってるかい? 神は人間界に悪魔がどういうものかを広めていったんだ」
さっきまでとはうって変わった真剣な表情を向ける天使。
知ってるさ。悪魔は人間に酷く恐れられている。それは神に反逆した俺たちを許せない神その方が、己の力をもって人間界に広げた一つの世界。
「皮肉じゃないか。人間のために人間の自由意志を叫んだ君が……その人間に嫌われる存在になるなんて」
「……なめんな……同情なんていらねんだよ。俺は後悔してない。笑いたきゃ笑え。そんで天界に戻れ。二度と来るな」
「断る」
「な……っ!」
何度も言わせるな! そう叫ぼうとしたのに、肝心の場所を塞がれてしまった。
「……ぅ、っ……ん……! …っ、てめ、何考えてんだよ!」
久しぶりすぎるキスは酷く甘くて、真っ赤な顔を隠すことを忘れたまま声を張り上げた。
「君が居ない天界なんて、つまらない」
「はあ? 何だよいきなり」
「君が居ないと、俺は何も楽しくない」
「……なに……言ってんだよ……」
だったらどうして、追放された俺を探してくれなかったんだ。つまらないなんて思うなら、三百年前のあの日、消えてしまった俺を探してくれていればよかったじゃないか。
わかってる。酷く身勝手な言い分だ。どれだけ好きでも、想っていても、自分の身を犠牲にしてまで誰かのために動くことは、そう容易いことじゃない。だから、俺は諦めた。こいつが俺を探してくれることも、もう一度こいつに会うことも、全部諦めていた。
「……今更……ふざけんなよ……」
「……」
「俺は、ずっと……くそっ」
「ずっと、なに?」
「何でもねーよ!」
ああ、その勝ち誇ったような強気な笑みが憎らしい。
「言ってごらんよ。じゃないと、昔みたいに優しくしてやらないよ?」
「な……何の話……っ……!」
鬼畜な笑みを絶やさない天使は俺の衣服を捲ら、悔しくも熱くなったその身体に直に触れる。
「てめ……っ! 何すんだ!」
「何って、決まってるよね」
「やめろ……!」
そう言っても聞かないのがこいつという奴だ。俺の言葉も虚しく、手は更にいやらしく身体を這った。そういえば、昔は優しかったけどこんな風に強引な所もあったっけ。
懐かしい記憶を辿りながら、それでも俺はやめろ、と叫び続けた。あの頃は、こんな強引な求められ方でも本気の抵抗はしなかった。しかし今は決定的に状況が違う。
こいつは天使で、俺は悪魔だ。
「やめろ……やめろってば! お前、冗談じゃ済まないんだぞ!」
「冗談じゃないからいいんだよ」
「ふざけんな! お前いいのかよ! 悪魔に堕ちても!」
「いいからやってる」
「よくねぇ! やめろ!」
片手で手を拘束されているせいで上手く自由がきかない。それでも俺は、なんとかそいつを突き放すべく脚で蹴飛ばしたり、身体を捩ったりと何度も抵抗を繰り返した。
「ふざけんなよ! 俺なんかどうでもいいくせに……探してくれなかったくせに……! 今更何なんだよ! どうせ身体目当てなら、こんな悪魔じゃなくて他の天使にしろよ!」
「……っ……」
叫んだ途端、天使は身体に這わせていた手をスルリと抜き取った。
「……?」
「わかってないね、君……」
「え? ……!?」
聞こえた声に俺は小さく首を傾げた。瞬間、天使にグッと乱暴に顎を持ち上げられた。
「俺がこの三百年、どんな気持ちで居たと思ってんの?」
「……な……なに……」
「どうでもいい? どうでもいい奴のために俺はこんな下界まで来ない」
「……は、なせ……」
「どれだけ探したかわかってんの? 追放されたと知る前は天界のあらゆる場所を探しまくった。追放されたと知ってからは、何度この下界に足を運んだか、君はわかってんの?」
「! ……な……こ、これが……初めてじゃ……」
「違うね」
瞬間、グッと唇を押し付けられた。
嘘、嘘、嘘だ。全部嘘。ただの気紛れだ。今日、俺の元に来たのだって気紛れ。昔の遊び相手が急に懐かしくなって、なんとなく探してみただけなんだろ?
唇が解放されると、自分で気がつかないうちに、俺は酷く頼りない表情を目の前の天使に向けていたらしい。そいつは今までとは違う、優しい笑顔を浮かべて俺の頬を撫でた。
「俺は、身体だけの相手に、ここまで執着しない」
「……あ……」
優しい声が、身体中に響いた。
天使自らの羽をプツンと一枚取り、俺の眼前に突きつけた。
「俺は、もう一度君と居られるなら、この羽が黒く染まったって構わない」
そう言った時の表情は、あの頃のままで。
ああ、どうしよう。心も、身体も、何もかも、コントロールできない。
嘘、嘘だろ? 心が叫ぶ。だけど身体は、目の前の天使にぎゅっとすがりついていて。
「……あ……ぅ……」
「……ねぇ、ずっと、なに?」
ぶるぶると身を震わせて顔を埋める俺の頭を撫でながら、天使は先程の言葉の続きを求めた。
「……っ、ふぅ……」
「言って、聞きたい、すごく」
「……ず、と……」
「うん」
言ってもいいのか? どちらにせよ、俺はもう二度と天界には戻れない。ずっと下界に居れば、こいつだっていつ神に見つかり、悪魔にされるかわからない。身体を交えるなんて以ての外。それなのに、言ってもいいのか?
「……ずっと……」
だけど、止まらない。
「ずっと、待ってた……」
止められない。
「……涙で、せっかくの綺麗な顔がぐちゃぐちゃだよ?」
言いながら目元に優しく触れた手は、酷く暖かかった。
「……俺の、せいで……お前……」
「それ以上、続けないで。君のせいじゃない。そして俺は、それを嫌だなんて思ってない」
そもそも悪魔って、何が不便なの?天使は笑ってそう言った。
「……馬鹿だな……お前……」
「人間のために悪魔になった君に比べればましだよ」
「……馬鹿だよ……俺なんかのために……」
「違うね。俺のためだ。君の側に居たいがため、だからね」
「……っ……うん……」
「可愛い顔して、泣かないで。まだ天使なのに、理性が利かなくなる」
「……うん……」
赤くなった頬を伝う涙を拭い、俺を優しく抱きしめる天使。全てを終えると、その純白の羽は黒く染まってしまっているのだろう。だけど、それでも、
「この三百年で、今が一番幸せだ」
そう言った天使の表情は、最高に幸せそうな笑顔だった。