kiss 6
何だか妙にやつれた男が、介護の仕方の本を借りて返っていったのが、今日の最後のお客様だった。私が戸締りをしていると、若い司書が、お先です、と元気に声をかけていた。
「ああ、気をつけて」
司書室に鍵をかけて、私はふと、ここで女の子にキスされたこともあったな、と思って、思わず小さく微笑んだ。あの子は最近来てくれないが、元気でやっているだろうか。
来るもの拒まず、去るもの追わず、図書館はそういうところだ。日々、次々と色んな人が来る。人間観察を続けていたらきりがない。最初こそ人の顔色を伺うのを楽しみにしていたが、それももう昔の話だ。
「あなた、お帰りなさい」
「ただいま」
恐らく、私が最も異質な人間だからだ。
妻とは二度目の結婚だった。一人目の妻は、戦争で亡くしてしまった。とても美しい人で、今も死に顔を鮮明に覚えている。そして今の妻もまた美しい人だが、さすがに年を取った。しかしお互い様だ、もう子供どころか、孫までいるのだから。
「明日は、どこか出かけましょうか」
「そうだねぇ」
もう子供たちも皆出て行き、たまに孫たちが遊びに来てくれるだけの、二人だけの、寂しい家。しかし妻は優しく、律儀に毎日料理を作り、優しい時間を私に提供し続けてくれた。このままおだやかに日々が過ぎていけばいいと、私は毎晩願っていることなど、妻は想像さえしていないだろう。
私は、口が裂けても他人に言えない日課がある。毎晩眠る妻を確認し、そっと首をしめて、眠りにつくのだ。当然、強い力も入れない。触れるだけのようなもの。
それで妻が亡くなることを鮮明に想像して、そして、眠るのだ。そうしないと、眠れなくなってしまった。
別に妻に不満があるわけでもない。私が悪いのだ。私だけが、悪いのだ。
思えば私には、強い嫉妬心が昔からあった。母親が父親と話してるだけでいちいち邪魔をしに行ったし、友達が別の友達と話しているだけで、泣き叫んだ。それでも成人して、妻をもらい、さすがにそんな幼稚な部分を悟られたくなくて、妻が少し遅くなったくらいでは、心配していない夫を演じていた。心の中は、どれだけ、心配と、妄想の末の嫉妬で煮えくり返っていたとしても。
その癖に私は、あの、前妻の美しい死に顔が忘れられないでいた。葬式の時、あの顔を見て、もう動かない妻を見て、世界に私と彼女だけのような錯覚に落ちた。もうこれで誰のものにもならない、私だけの妻だと、強く感じ、別れ際に口づけた。
今の妻とは、もう空気のようなものだ。愛しいと思う。大事にしたいと思う。でも、だからこそ、私だけのものにならないかと、強く思ってしまう。
何とか自制心が勝っているが、それでも、私は、妻の首を振れずにはいられないのだ。
休日、久しぶりに妻と出かけた。とは言ってもお互い年だ、近所の河原を散歩する。愛想よく、道行く人に挨拶をし、そして時折花を愛でる。年の割りには綺麗にし、優しく、自慢の妻だ。
だから。
気がつくと、私は妻を突き落とそうとしていた。河原から転がり落ち、川へ落ちる妻を一瞬で想像し、身震いがした。これで妻は私のものにー
「私、昔、競泳の選手だったんですよ」
ふと妻が唐突にそんなことを言い出し、私は慌てて手を引っ込めた。一気にかいた汗が、一気に引いていった。
「泳ぎが得意なんです。こんな川じゃ溺れません」
私は子供だから、泣けない。
「あなたが溺れたら、助けてあげますからね」
私は大人だ。妻を愛する、真面目でいい夫だ。だから言い訳もしない、泣きもしない、ただ、懸命に詫びるしかない。
「すまない」
「何がですか?そうだ、ケーキでも買って帰りましょう」
よく考えたら、毎晩首をしめようとしている夫に、気づかない方が不思議だ。彼女はとうに私の狂気に気づいていたのだろう。それでも何事もないように、毎日、毎日、一緒に暮らしていたのだ。妻でいてくれたのだ。
「あなた、苺、食べないなら下さいな」
今日から、妻の首をしめない夫でいるよう努めよう。それくらいは出来るようになろう。
「あなた、苺、酸っぱかったですか?」
それは出来る、出来なくてはならないが、泣き虫の夫でなくなるのは、少し、時間がかかりそうだ。
なんでもないよ、と何とか笑って顔を上げた。随分久しぶりに妻の顔を見たような気がした。首ではなく、妻の顔を。また皺が増えた気がする。
私が思わず、老けたな、と笑うと、彼女は少女のように頬を膨らませ、私は今度こそ本当に笑った。




