kiss 3
今日は駅が随分騒がしいが、僕は大した興味もなく、さっさと電車に乗り込んだ。珍しく空いている車内だったが、座るのも面倒で、僕は窓際にもたれかかり、音楽を聴いていた。隣の老婆がいかにも嫌そうな目で睨んできたが、僕は電源を切らなかった。音がないと落ち着かないのだ、音を漏らすようなヘマはしないからこっちを見るな。
心の中では強気になれるが、耐えられなくなり、何気なく周りを見渡すふりをして視線から逃げると、こちらを見ている別の視線に気づいた。
思わず小さく、あ、と呟いてしまった。同じクラスの男だった。
彼は、ちょっとした有名人だった。そのへんの俳優よりよほど顔が整っていて、背も高く、女子たちがやかましく騒いでいる。確かに綺麗な顔立ちはしているが、綺麗すぎて女のようで、僕はもちろん、他の男子もあまり彼を好きでなかった。そんな僕たちの様子を見て、もてない男のひがみだろうと女子から言われるから、余計に、僕たちは彼から遠ざかった。
おまけに彼には、少し妙な噂があった。体を売っているらしい、おまけに男に。そんな馬鹿な、僕たちは鼻で笑っていたが、彼の家族は父だけで、ろくに働いておらず、家計が苦しいことは事実のようだった。
艶めいた髪と顔立ちが、そういうことをして稼いでいるのかもしれない、と想像させるには十分だった。髪も顔も特徴的だったが、それよりも何よりも、僕が気になっているのは、彼の声だった。
いつも出席を取る時に返事するときの彼の声を、僕は毎日毎日、なぜか、聞き逃しまいと必死だった。誰にも言えない、なぜそうしてるのか理由も分からない、それでも止められない、我ながら妙な日課だ。
随分長く見ていたらしく、彼も同じく僕を見ていた。早い話が、随分見つめ合っていたのだ。僕が慌てて顔を逸らすと、彼はなぜか近づいてきて、隣にもたれかかっていた。肩がつきそうなほど近くに。僕は心臓が跳ね上がるかと思った。落ち着かない。どうかなりそうだ。早く離れたかったが、体は石のように動かなかった。
「今、帰り?」
「-っ、あ、うん」
こんなに近くでこの声を聞いたのは初めてだった。僕は顔が赤くなっていくのが分かった。
まさか、いや、そんな、違う。自身に言い聞かせる度に、鼓動が早くなっていく。嫌だ、そんなわけはない、僕は泣いてしまいそうだった。
早く降りろ、そう叫んでしまいたかった。視界が正常ならばもう二駅ほど過ぎたが、彼は降りなかった。
黙っているのも妙な話だ、何か必死で話題を探そうとしたが、何も出てこない。長距離を走り終えた直後のように、喉が渇ききり、息しか出てこない。いつもクラスで、他の男子とどんな話しているのか、思い出せなくなった。
助かった、というのも妙な表現だが、彼の方から色々な話をしてくれた。級友のこと、先生のこと、この前告白してきた女子の口臭がとんでもなかったこと。
いつしか僕は大笑いしていて、いくつか緊張も取れた。少し余裕が出来たのか、彼の顔をまともに見れるようになってきた。綺麗な顔立ち、美しい鎖骨、体の線まで整っている。なぜか彼の裸を想像してしまい、慌てて首を横に振った。
「俺の噂、聞いてる?」
ふとこんなことを言いだし、今度は一瞬で彼が他の男に無理やり抱かれている様子が、まるで見てきたように鮮やかに脳裏に焼きついた。僕はまた泣きそうになり、笑ってごまかした。
「体売ってるって、話だろ。馬鹿ばっかだな。気にすんなよ」
僕は精一杯、いい級友のふりをした。笑わなければ、優しくしなければ、今にも泣いてしまいそうだった。
「本当だよ」
僕は。
「一回三万。オヤジがひどいギャンブル好きでさ、それでも追いつかないくらいなんだ」
僕は、いつから、彼をこんな風に見ていたんだろう。
どれくらい時間が経ったのだろう、中年男性が乗ってきた。男性はこちらに気づくなり、僕たちの方をじろじろ見て、彼を見て、いやらしく笑っていた。まさか、と僕が軽く震えると、彼が僕の肩を軽く叩いてきた。
「いいカモになりそうだ」
「 」
声が出なかった。
どうしてそんなに堂々としているんだ。慣れたのか。何回目なんだ。何回その美しい声を、あんな汚いオヤジたちに聞かせたんだー
気がつけば、僕は、彼の服を握り締めていた。何も言葉が出てこない。でも、離せない。
ふと彼にもう一度肩を叩かれ、彼の鼻先が近づいてきた。キスをされている、と気づくまで随分時間が要った。彼はありがとうな、と呟いていたような気がした。
彼の肩を、汚い腕が抱いて、電車を下りる。肩だけではない、もう数時間もしないうちに、全身汚く触られるのだろう。
動けなかった。やはり声が出なかった。
だって僕に何が出来る。馬鹿みたいにCDばかり買いあさって、毎月小遣いだけじゃ苦しくて、親にノート代を高めに請求して、何とかやりくりして。
行くなと言えない。そんな資格も金もない。好きだから、なんて、もっと言えない。言ったところで、彼も、僕も、救われない。どうしたって、彼は僕のものにならない。
そうか、独占したいほど、好いていたんだ。
僕は泣きながら、笑っていた。そっと音楽再生機の電源を切り、カバンの奥底にしまいこんだ。
今は、何も聞きたくない。




