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kiss  作者: 大和伊織
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kiss 1

 携帯で小説を読めるこのご時世に、私は足繁く、そこの図書館に通っていた。


 「一冊ですね」

 放課後。

 「返却期限は二週間になります」

 夕焼け。

 「ありがとうございました」

 あなたの声。


 触れてくれた箇所をそっと指先で辿って、宝物のように大事にしまいこみ、私は今日も帰っていく。あなたが触れたかもしれない、本を読む為に。



 きっかけは、感想文提出の為、図書館に行ったことだった。

 台詞が多い漫画でさえ読むのが億劫なのに、本なんてとんでもない。ネットで感想を検索して、適当に文章を繋ぎ直してしまおうか、など思いながら読みもしない本を次から次に開いていると、彼が現れた。

 「何かお探しですか」

 最初に目に入ったのは、枯れた手だった。呼ばれた先に顔を上げると、自分の父親よりずっと年上の男性がそこにいた。皺が目立つ顔、白髪交じりの髪、低く優しい声。自分には祖父はいないが、もしいたとしたらこれくらいの年だろうかと想像してしまうくらいの年上の人。

 「感想文を…書きたくて」

 「そうですか、なら、この本はどうですか?学生さんに人気ありますよ」


 家に帰り、彼が言った通りの本を借り、彼の触れたところを思い出し、そっと口付けた瞬間、顔が燃えるかと思った。

 初恋、といえば聞こえはいいが、とんでもない、彼は60は過ぎているだろう。まだ中学校も卒業していない子供が何を考えているんだろう、攻める姿勢だけは、妙に冷静だった。なのにその夜は、枯れた手の夢を見た。その手で、恥ずかしいことをされる夢を何度も繰り返し見ては、恐怖に飛び起きた。恐がりながらも、どこかで満足していた。快楽を得ることを、始めて知った。

 

 忘れてしまおう、何もなかったことにしよう、そう思うのに、放課後、その図書館に向かわなければ、どうかなってしまいそうだった。休館の日、彼がいない日は、世界はとてもつまらないものだった。

 教室でいやらしい話で盛り上がる男子、くだらないことでいつまでも説教している教師、スカートが数センチ短くなっただけで怒鳴る父親、飲み会に命を賭けている兄、彼以外の男はどこまでもくだらなく見えた。

 気持ちは日ごと強くなっていった。それでも、まさか告白しようなんて思えなかった。相手にされないことは目に見えていた。彼の枯れた手を見るだけで幸せだった。彼の触れた本を読むだけで十分だった。その後は必ず、夢の中で彼に会えるのだから。

 

 なんて。知らず私はずっと我慢していたのだろう。所詮私は、好物が目の前に垂れ下がっていたら、飛びつかずにはいられない子供なのだ。


休館日と彼の非番の日が続き、私はもうどうかなりそうだった。図書館に行き、彼の不在を目で確認すると、軽く絶望した。彼は今日も休みか、なんて、司書の人に聞いたのは初めてだった。

 彼女は、私が彼目当てのことを知っていた定かではないが、笑って手招きして、司書室の奥へ案内してくれた。いいのかな、と思って奥へ行ってみると、心臓が止まるかと思った。


 老眼鏡を握り締めたまま、彼は椅子にもたれて眠ってしまっていた。あの枯れた手は、本の上で、音を刻むように揺れていた。

 駄目だ、と、一度思う度、一歩足が出た。

 少しずつ近づいていき、彼の寝顔が視界いっぱいに飛び込んできた。私は震える唇を、そっと彼に近づけた。



 嬉しさはなく、後悔だけだった。涙が止まらなかった。図書館外の返却BOXを始めて利用し、もう放課後、図書館に行くことはしなくなった。

 とんでもなく悪いことをしてしまった罪悪感が渦巻く中、それでも彼に会いたい気持ちは消えてくれなかった。

 何度も何度も自分に言い聞かせた。会ってどうする、もし彼が起きていたら、変質者扱いされたら、私はどう壊れたらいいのか、見当もつかない。私は自身をまっすぐ家に帰らせ続けた。私は始めてまともに我慢できた気がしたのだ。


 もういい加減流す涙も尽きてきた頃、私は街で彼を見つけた。慌てて隠れると、彼は綺麗な奥さんらしき人と手を繋いで歩いていて、二人の間には、可愛らしい男の子が二人いた。お孫さんだろうか。

 自分でも驚くほど落胆しなかった。むしろ笑えてしまうくらいだった。年の差を目に見えて見せ付けられた気がした。恋心が少しずつなくなっていくのが自分で分かった。

 ありがとう。ごめんなさい。さようなら。

 一人で勝手に収集つけて背中を向けて、帰ろうと思ったその時だった。


 いきなり、膝に軽い衝撃が走り、軽くぐらついたが、なんとか安定を保ち、立ち直すことが出来た。膝を軽く叩かれたらしい。何事かと振り返ると、笑った彼が立っていた。

 「いつかの仕返しです」

 彼は、起きていたんだ。

 「また、図書館に来て下さい」

振り返ることが出来なかった。彼がどこまでも遠くへ歩いていくようだった。このまま別れたら本当にもう二度と会えないと思ったが、もう私は、伸ばす手を上げる事さえ出来なかった。



 それからも定期的に彼の夢を見た。もう枯れた手で触られる夢は見なくなったが、代わりに、彼がテーブル席に座って、何人かと談笑している夢を繰り返し見る。私の席は、いつもない。きっと何年前も、何年先も、私がそこに座ることはないのだろう。


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