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「梶川さんはいい人だよ」
学校の帰り道を歩きながら幸之助は呟いた。
彼の側には人の姿が無かったが、代わりに白と黒の猫が彼の側を付いて歩いていた。
猫が心配そうににゃあと鳴く。
「ひとりぼっちにしないって、約束してくれたんだ」
幸之助が足を止めると、猫たちが周りで飛び跳ねる。にゃあにゃあと鳴く二匹は必至で何かを訴えているように見えた。
「……うん、でも」
幸之助はしゃがむ。
「いいんだ。かつい兄ちゃんのことは、もういいんだ」
猫たちを撫でると猫たちは彼を見上げる。
「……良くないけど、いいんだ。僕はね、忘れていないと笑うことも出来なくなるから」
克依は最後に笑っていた。
笑っていて欲しいと、人を恨んじゃ駄目だって言った。
押しつぶされそうだった。
克依を刺した女のことが憎くてたまらなかった。でも、彼女を憎んで復讐することを克依は望んではいない。復讐することは克依の為ではなく自分のためになってしまう。そんなことで大切な克依を悲しませたくなかった。
恨まない。
恨むことが出来ない。
助けられなかった、もっと真剣に引き留めていれば良かったと自分の事を憎む事すら、克依は悲しむだろう。
「ひどいよね」
涙で猫の顔が揺らいだ。
誰かを憎むことも出来ない。人を恨むことは克依が最も嫌がることだ。だから、恨めない。彼は恨むなら自分を恨めといったのだ。幸之助に克依を恨むなんて事は出来ない。
克依のことを酷いと思った。残酷だと思った。でも、克依を恨むことなんて幸之助には出来ない。
だったら、忘れた振りをするしかなかった。
押しつぶされそうな気持ちを紛らわすように笑っているしかなかった。誰かが自分の事を哀れむように見るのも嫌だった。
自分は消して可哀想な子供じゃない。
克依は最後の最後まで微笑んでいた。
あの瞬間、一瞬でも彼が苦痛の表情を浮かべたら、幸之助は母親と名乗ったあの女を殺してしまっていた。でも、彼は笑顔だったのだ。
それが全ての理由。
「梶川さんね、僕がかつい兄ちゃんのこと覚えていること多分知っているよ。でも、気付かないふりをしてくれた。いい人だよ、だから僕は向こうに行っても大丈夫」
外国へ行くのだと聞いた。
自分の仕事を手伝って欲しいと言われた。嫌なことはやらなくても良いけれど、出来れば自分の仕事を手伝って欲しいと。
猫たちは止めろと言う。
梶川の仕事の内容を知っている訳ではないが、彼が悪い人と言うわけではないが、何か普通ではない匂いがすると言うのだ。
それは幸之助も分かっていた。
「……でも、僕は行くんだ。幸せになりたい……ううん、幸せになるんだ。だから行くよ。一緒にいてくれるって約束してくれたから、多分それだけで僕は進める」
納得できない、と猫が言った。
幸之助を不幸にするかもしれないのに、そんな男と一緒に行かせたくないのだと。でも、だけど、幸之助が本当に行きたいのなら、自分たちには止められないと。
幸之助は笑う。
「ありがとう」
心配してくれたことが嬉しい。
さよならは言わないからな、と猫が格好付けて鳴く。
「うん、じゃあ僕も言わない」
幸之助の手元から離れた二匹は、鈴の音色を奏でながらどこかへと消えていった。
足音が聞こえる。
少し引きずるような足取り。
振り向かなくても分かる。梶川だ。
「……梶川さん!」
笑顔で振り向くと、梶川も微笑む。
「良く私だって分かったね」
「うん、足音ですぐに分かったよ」
梶川の瞳が少し細められた。
幸之助は少し不思議に思う。
前々から思っていたが梶川の瞳の色はどこか不自然だ。猫たちに聞くと「カラーコンタクトレンズ」を入れているのではと言った。
どうしてそこまでして瞳の色を変えているのだろうか。
聞いたら教えてくれるだろうか。
それに、どうして足が悪い振りをしているのか、どうしてそんなに年寄りみたいな外見をしているのか、聞きたかった。
でも、梶川の笑みを見ているとどうでも良いことのように思えてきた。
この人はどこか克依に似ている。
笑っていないと少し怖そうに見えるけれど、微笑み方がどこか克依に似ているのだ。この人の笑顔が好きだ。
ずっと笑っていて欲しい。
克依の役に立てなかった分、この人の役に立ちたい。
指が二本足りない大きい手が、幸之助の髪を撫でる。
優しい手。
お父さんになる人の温かい手。
克依のことは忘れられない。
でも、きっと頑張れる。
幸せになれるから。
「梶川さん、あのね……」
話したいことがいっぱいある。
猫のことは内緒で、克依のことはまだ泣いてしまうから話せないけれど、今までのこと、いっぱい話したいことがあった。
聞いてくれるだろう。
自分を引き取ってくれるこの優しい人は、克依の笑顔に似たその優しい顔で聞いてくれる。
何も出来ないかも知れないけれど、少しでも役に立てるように頑張るから。
(だから)
お父さんと呼んでもいいですか?