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「記憶障害ですか?」

 男が問いかけると園長はどうしようもないと言う風に目を伏せた。

 その目には少し涙がにじんでいる。

「そうです。小早川克依さんの事に関してだけ何も覚えていないんです」

 言うだけ言って園長は堪えるようにハンカチを目頭に押し当てた。

 克依が病院に運び込まれ、そのまま帰らぬ人になった日、病院で幸之助も意識を失った。目が覚めた時、奇妙な程に笑顔な幸之助は克依のことだけすっかり忘れていた。まるで全て抜け落ちてしまったかのように。

 それだけショックな出来事だったのだろう。

 彼が以前、虐待されていた事実を思い出せなかったように、最も辛い記憶として頭の中で封印してしまったのだろう。そうでなければ幼い彼には耐えられないことだったのだ。

 一緒に暮らそうといてくれた大切な人が、目の前で殺されたのだから。

 園長にとって克依が殺された事以上に、克依の記憶まで失ってしまった幸之助がショックで仕方がなかった。

 子供達には克依の事は伏せられた。子供達に良くしてくれた青年だったから、幸之助と同じようにショックを受ける子供もいると思ったからだ。ニュースも出来るだけ流さず、克依は仕事で遠くに行くことになったと伝えた。

 記憶障害を煩って、ひとりぼっちになった彼を引き取りたいと言ってきた男がいた。

 既に六十を超えた皺の多くなった顔だったが、若い頃は相当の美男子だったと想像できる整った顔立ちをした老人だった。右手の薬指と小指が無く、足も歩く時引きずるようにして歩く男だったが背筋が伸びているため、立ち居振る舞いが非常に美しく見える。事故で失ってしまった、若い頃に日舞をやっていたと男は説明をした。

 彼は幸之助に関することを全て聞いた後、それでも引き取る意思があると告げ、後見人である小早川が呼ばれた。

 小早川徹也が現れると男は背筋を伸ばして頭を下げた。

 青みのかかった黒髪が肩から少し流れた。

 括っているために短く見えた髪は長く、腰の近くまで伸ばされていた。

「……この度はご愁傷様です」

「ご丁寧に恐れ入ります。小早川徹也です」

「梶川礼人と申します」

 名乗られて小早川が名前に反応する。

「……礼人?」

「何か?」

「いえ……私の弟も同じ名前でしたので」

「そうですか。……何か縁を感じますね」

 梶川はそう言ったが、小早川の内心は複雑だった。礼人の息子を引き取りたいと言ってきた礼人という男。嫌でも何かが繋がってしまう。むしろ因果めいたものを感じてしまった。

 梶川の年齢を考えて礼人である可能性は低い。目の色も違う。それなのに、その目の鋭さが、どうにも弟のもののように見えて仕方がなかったのだ。どこか面差しも似ている。もしも弟が成長してこの位の年齢になっていたらこんな風になっていたのではと思ってしまう。

「失礼ですが、何故わざわざ幸之助を引き取りたいと?」

「おや、小早川さんは反対ですか」

「いえ……そういう訳では……」

「分かります。義理とはいえ息子さんが最後まで守ろうとした子供です。滅多な人間には渡したくないでしょう。まして私は障害者であるし、年も随分と上だ。幸之助君が大人になるよりも前に私の方が死んでしまうこともあるかもしれない。そうなればあの子は再びひとりぼっちになる。あなたはそれを懸念している」

「………はい」

 小早川は素直に頷いた。

 自分の所で引き取れば不幸になるだろう。克依の過ごしたものが残る場所では何かの拍子に思い出して辛い思いをするかもしれない。そうでなくても、小早川の中では克依は誰のことも分からない子供のせいで死んだと嫌な風に言われている。

 そんな汚い言葉を聞かせることは、克依の意思に反する。あれだけ反対をしておいて今更引き取るなんて話をしたら克依は激怒するのだろう。

 克依が刺されたと聞いた時、彼は幸之助を酷く憎んだ。彼のせいで無いことは分かっていても彼に関わらなければ克依は死ななくて住んだのだと思うと憎まずにいられなかったのだ。

 だが、克依の遺体と出会った時、その考えは消えた。

 微笑んでいたのだ。

 刺されて苦しかったはずの彼が、穏やかな顔でいたのだ。それが何を意味するのか彼には把握出来なかったが、何かメッセージのように思えたのだ。幸之助をよろしくと、幸せになるようにはかってくれと。

「まずはこんな身でも家族を養えるくらいの経済力はあると伝えておきます。考えたくありませんが、私に万一の事があっても、幸之助君は困らないくらいに財産も残せるでしょう。私は家族を失って久しい、だから家族が欲しいというのが一番の理由です」

「……失礼ですが、そではますます彼でなくてもと思いますが」

 他に育てやすい子はいくらでもいる。

 幸之助はいつか爆発してしまうかも知れない爆弾を抱えている。今ならまだいいが、もう少し成長してかれがフラッシュバックで暴れ出したとしたら、梶川の力では抑えきれないだろう。

 指摘すると、確かにと彼は頷いた。

「それでも、私は彼を一目見た時から引き取りたいと強く願いました。幸之助君が語りかけてくる……いえ、あるいは克依さんかもしれません。よろしく頼むと、彼を幸せにして欲しいと願われた気がしたんです」

「………っ」

「だから、どうしても彼を、と。辛いのならば共に分かち合えばいい。私は、そう思ってます」

 その目は意思の強い瞳だった。

 自分と決別してでも幸之助を育てたいと言ってきた克依に似ている。

 不安で無いわけがない。

 ただ信じてみたいとも思った。

「……どうか、彼をよろしくお願いします」

 どちらにしても、自分では幸せにしてあげることは出来ない。小早川には小早川家を守らなければならないという義務がある。

 それは投げ出してしまって良いほど自分にとってどうでもいいものではない。

「私も彼も家族が欲しいんです。全てが上手く行くとは限りませんが、出来うる限り彼を幸せにすると約束します」

 梶川は頭を深く下げた。

 年上の男に頼むのが奇妙な感じもしたが、幸之助自身、梶川に凄く懐いていると聞く。ならば幸せになるだろうと思った。

「……梶川さん」

「何でしょう」

「貴方と同じ名前の弟なんですが、実はあの子の父親なんです」

 梶川は驚いたように眉を上げた。

「そうなんですか」

「酷い子です。昔から自分勝手な子でした」

「苦労、……なされたでしょう」

「いいえ。私は仕事と言うことを盾にして苦労しない道を選んできました。今更あの時ひっぱたいてでも家に連れて帰っていればと思います。そうすれば道が変わって克依はまだ生きていたかも知れない」

 会って間もない男にそんな話をするのは、らしくないと思った。

 でもせずにはいられなかった。

 梶川は諭すように言う。

「或いはもっと早くに亡くなっていたのかも知れませんよ。人生なんて、その時になってみないと分からないものですよ」

「ええ、そうです。……その通りです。あの子がどこかへ行っていなければ克依は私の息子ではなかったし、幸之助も生まれていません。あの時ああしていればと思うことは今の全てを否定することにもなりかねない」

 そう分かっているが、思わずにいられない。

 礼人を真剣に見つめていれば、何か変わっただろうかと。

「……おかしいですよね。こんな年になっても幼い弟の手を引いて夏祭りに行く夢を見るんです。あの子は行きたいとせがんだけれど、私は一度も連れて行ってあげられなかった。それを後悔しているのかもしれません」

「私もそう言う夢を見ます。今の私よりずっと幼い兄が、私を叱っている夢です。……小早川さんにとって、礼人さんはどんな弟だったんですか?」

 小早川は笑う。

 遠い記憶を見つめるような表情で。

「疎ましかった。いつも手を煩わせて、ろくでもないと思っていた。でも……」

「でも?」

「嫌いだと思った事は一度もありませんでした。……梶川さんは、その、叱るお兄さんをどう思っていました?」

 そうですね、と梶川も遠くを見つめるような表情を浮かべる。

「私も……嫌いだと思ったことは一度もなかったように思います。結局、私にとって兄は、父親のような存在でした。越えたくても、越えられない壁で、本当は心のどこかで越えなくてもいいと思っている、そんな存在でした」

 弟も自分のことをそう思ってくれていただろうか。

 自分たち兄弟も父親を早くに亡くしたせいで、自分にとって弟は子供のようだった。弟から見れば兄ではなく父だったのかもしれない。

 嫌いだと思った事はないだろうか。

 無関心を決め込んでいる癖にことある事に説教をしていた自分を。弟が道を間違えたなら、自分にも必ず要因がある。だから、こんな事になったしまったのは彼自身のせいでもある。

 過去の自分を責めても変わらない。弟の息子である克依はきっとそんなことを気にしていないで前を向けと発破を掛けるだろう。

 そう言う子だった。

 真っ直ぐで、曲がったことを知らない優しい子。

(……どちらが父か分からないな)

 今この年になって弟に出会えたなら、少し変われるかも知れない。


 もしもう一度会えたなら、今度は……。


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