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小早川克依という男は小早川家の家長徹也とは甥と叔父の関係にある。克依の父であり、徹也の弟である礼人は榛名財閥の令嬢と結婚して克依が出来たものの元々遊び人の性格がたたってすぐに生活は破綻。別居生活をしている時に行方不明になり、現在もどこにいるのか分からない男だ。
榛名の母親も奔放な性格であり、すぐに克依の育児を放棄し、克依は小学校に上がると同時に徹也の養子となった。
榛名の長男として育てられていた克依はその日から小早川徹也の次男になり、兄と姉が出来た。
そんな複雑な生い立ちからも克依は曲がらずに育ち、品行方正、成績優秀で初等部でも一目を置かれる存在だった。家族から愛され、穏やかに育っていた克依だったが、自分が姉を追いつめていることは知らなかった。
養子である克依よりも優秀でなければならない。
母親は克依以外の兄弟達にそう教えてきたようだ。兄は元々克依より優秀であったため、何の問題も無かったが、姉の都は違った。優秀であり完璧であれと育てられた都は優秀な兄と弟に挟まれ精神的に追いつめられていった。姉は常に穏やかに振る舞っていたため、克依が姉の中にある狂気を知ったのは、彼女が新潟の鷹取家に嫁ぎ、子が出来た後のことだった。
まだ幼い子供に対して虐待ともとれるほどの躾をしていると知った時、克依は愕然とした。
姉はまるで自分をもう一度育て直すかのように自分がされたことと同じ事を息子に対して繰り返しているという。
話を聞いた時に何故を考えるよりもまず、自分が追いつめ、そして出来た子供も追いつめてしまったことを知ったが、克依に何かできるわけではなかった。
鷹取のことは鷹取の問題。
そう姉に突っぱねられれば養子という負い目のある克依には口を出せない問題になっていった。
どこかで贖罪という気持ちがあったのだろう。
市原幸之助という子供のことを知った時、克依はすぐに会いたいと願った。姉へ、姉の子へ返せない分誰かに返したかった。
市原幸之助は克依の父が他の女性に生ませた克依の弟だった。
既に成人を過ぎた克依にとっては弟と言うよりは自分の息子と言っても過言ではない年齢だった。
「……虐待?」
幸之助に関する調査を依頼していた興信所の男は驚くような内容を口にした。
緊急だと朝早くに呼び出されて、男と一緒に車に飛び乗った克依はその言葉とこんな朝早くに呼び出された違和感とで酷く嫌な感覚を味わっていた。
彼は克依に冷静になれとでも言うように出来るだけ優しい声音で言う。
「あくまで近所でそう言う噂があると言うだけです。子供の泣き声は聞こえるけれど、見たことがない、時々尋常ではない鳴き声が聞こえたかと思えばぴたりと止む、そう言う話を近所で良く聞きます」
「その、市原立花という女性は……」
「いわゆるキャバ嬢というやつですね。家にも殆ど帰っていないようなんですが……」
嫌な予感が頭をよぎる。
周囲で異臭の噂などないのか、と問いかけようとして止める。
それを聞いてしまえば嫌な予感が本当になるような気がしたのだ。
「……万が一の時のために、大家には連絡をとっています。我々が付く頃には鍵を持って来てくれているはずです」
「万が一なんて……言わないでくれ」
克依は酷い胸騒ぎを覚えながらも冷静になるようにと言い聞かせた。
そんなことはない。
あるわけがない。
そんな酷いことは起こらない。
呪文のように繰り返すと、だんだんと冷静になっていく。克依は祈るような気持ちで手を握りしめた。
無事であって欲しい。
まだ見ぬ弟のことを強く願った。
アパートの前に付くと既に大家らしき人が待機をしていた。その顔色は若干青ざめており、彼もまた良くない事を連想しているようだった。
大家と挨拶を交わしていると、奇妙な視線を感じて克依は視線を巡らせる。
二階の端の部屋の前に猫がいた。一匹だけではなく克依の位置から三匹くらいが確認できた。猫は何か心配事があるかのようにドアの前を行ったり来たりしながら鳴いている。その周囲には異常な程に烏や鳩といったその辺にいる鳥たちが集まり、どこかの飼い犬たちが盛んに吠えていた。
まるで、ここに何かがあるとでも訴えるように。
「あ、小早川さん!」
反射的に階段を駆け上がった克依を管理人と興信所の男が追いかける。
ドアの前にたむろしていた動物たちが克依の存在を認めると訴えかけるように一斉に鳴きだした。一種異様な光景だったが、せっぱ詰まっている情景とも見える。
猫がしきりにドアをひっかいた。
何度も繰り返していたのだろう。傷だらけになったドアには僅か血のようなものが付いている。猫の前足は爪が少しハゲかけていた。
動物たちの勢いに後押しされるように大家がドアの鍵を開く。
不法侵入を訴えられる覚悟で克依はドアを開く。
驚愕した。
そこは最早人の住むような環境ではなかった。
ドアをひっかいていた猫が慌てて中に入る。それを追うように克依も中に入った。キッチンと四畳半だけの小さな部屋。
その奥の引きっぱなしの布団の上に子供が転がっている。
光景がまるで映画のように映り、それが現実なのか否かも克依には判断できなかった。猫がしきりに子供の頬をなめている。
「………幸之助、くん?」
膝を付いて呼びかけると、微かに子供が動いた。
老人を思わせるような虚ろな瞳の色は灰色をしている。
まるで死を覚悟した狼のようだと思った。
「警察と、救急車を!」
克依は叫ぶ。
そして、少年を抱き上げる。
細い、生きているのが不思議な程の軽さだった。
「大丈夫……もう大丈夫だからね」
その言葉は多分自分に言い聞かせたのだろう。