「もう会わない」と言ったあなたと、まだ恋を終われない私
澄み渡った高い夜空の冬のある日。
王宮で開かれた舞踏会。
レティシア・ルバート侯爵令嬢は、血が止まるほど、手を握り締めていた。
目の前には、家が隣同士で幼馴染であるエドモンド・ベルシュタイン伯爵令息がいた。
きりりとした眉、サラサラの金髪、燃えるような赤い瞳。それは間違いなくエドモンドだった。
レティシアは久しぶりにあった幼馴染。
突然私に別れを告げた男に、何か文句でも言おうと口を開いた。
けれど、久しぶりに会ったせいだろう、なぜか言葉が出なかった。
喉がカラカラだった。まるで言葉で喉が詰まってしまったようだった。
レティシアは自嘲げに笑顔を浮かべた。
(バカね。今更何を言うの?)
やっぱり話しかけるのをやめよう。そう思った時だった。
エドモンドが一人の令嬢と腕を組んだ。
私は、反射的に叫んでいた。
「エドモンド!」
周囲の視線が、レティシアに向く。
エドモンドも、ゆっくりとレティシアの方を向く。
「ルバート侯爵令嬢様。どうされましたか」
冷たい仮面をかぶっているかのような声音で、彼は言った。
「エドモンド……!」
他人行儀な言葉に、すがるような調子でレティシアは、エドモンドの名前を呼ぶ。
けれど、眉ひとつエドモンドは動かさない。
「説明してちょうだい。どうして突然、行ってしまったの……!」
周囲の視線に、好奇の色が混ざる。
(注目されて恥ずかしいわ。けど、構うもんですか)
「教えて、エドモンド。あなた、どうして変わってしまったの?」
「エド、お話しをしてくる?」
エドモンドと腕を組んでいるグラン侯爵家のアリエスが、エドモンドの顔を覗き込みながら言った。
「なんでもありません、アリエス様。彼女とは話すことがありませんので」
「そうなのね」
アリエスはレティシアの方を向いて、にっこりと微笑んだ。
「ルバート侯爵令嬢様。私エドとこれからファーストダンスを踊ろうと思っています。他に話したいことがなければこの辺で良いでしょうか?」
気がつくと、会場に音楽が流れ始めていた。
ファーストダンスは恋人や婚約者と踊る特別な曲。
関係のない他人が邪魔するのはマナー違反だ。
エドモンドの顔を見ると、アリエスの方をじっとエドモンドは見ていた。
(私とは、話したくもないってわけね)
レティシアは、精一杯の笑顔を作った。
「……はい」
満足げにアリエスは微笑んだ。
「行きましょう」
「はい」
アリエスはフロアの中心に進んでいく。
レティシアはそれを見て、唇をかみ下を向いた。
(泣くもんか。悔しくなんてない。エドモンドみたいな男なんて沢山いるわ)
レティシアがベルシュタイン伯爵家の三男、エドモンドと出会ったのは六歳の時だった。
温室の裏口にある石塀の前で、隠れてレティシアは泣いていた。
マナーの先生にこっぴどく怒られたのだ。
「うう……」
母が少し前に亡くなった寂しさもあった。
止めようとしても、なかなか涙が止まらない。
悔しい。立派になるって決めたのに。
何度目かの涙を拭った時だった。
「お、おい、お前誰だよ?」
私は思わずぴたりと泣き止んだ。
「あ、あなた、だあれ? お化け?」
「お化けじゃないやい! ここ、ここ!」
扉をコンコンと叩く音がした。
目の前には、伯爵家の庭園に続く昔ながらの庭師用の扉があった。
扉は錆びてひしゃげて、少し穴が空いていた。
その小さな穴から、一人の男の子がこちらを覗いているのが見えた。
それがエドモンドとの出会いだった。
エドモンドとは、すぐに打ち解けた。
「そうか、そんなことで怒るって、そのマナーの先生が悪いな!」
「でも、お父様もしっかりしなさいって怒るの」
「そのお父様も悪い!」
「お父様は悪くないわ!」
レティシアは顔を真っ赤にして言った。
大好きな父が馬鹿にされるのは許せなかったのだ。
「いーや悪いね。兄貴が言ってたんだ。教えるものは、ちゃんと理解できるように教える必要があるんだって。だからちゃんと教えられないで怒るそいつが悪い! お父様も、それを知らないで怒っているのが悪い!」
まだ六歳のレティシアにとって、エドモンドの言っていることは少し難しかった。
けど、なぜか正しいことを言っている気がした。
「……そうなのかな」
「そうだよ。お前は悪くない!」
慰めてくれていることはわかった。
「そっか……ありがとう」
「おう」
扉で見えないけれど、彼がにっこりと笑顔を向けてくれているのはわかった。
「ゴホゴホ」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。それよりさ」
その日、色々な話をした。
それから、毎日のように話すようになった。
二人の暗号も決めた。
扉を二回叩くのは「ここにいるよ」
扉の下に花を置くのは「会いたい」
そうやって、毎日話した。
レティシアのエドモンドへの気持ちに名前がついたのは、十二歳の時だ。
社交界デビューである、デビュタントの会場。
スーツをキッチリとまとった彼は、会場の誰よりもキラキラしていた。
周囲の令嬢たちも皆、エドモンドの方を見ていた。
「誰かしら」
「ダンスに誘っていただきたいわ」
キョロキョロしていた彼は、レティシアのことを見つけると、レティシアの方に一直線に向かってきた。
「レティ! 良かった探してたんだ!」
周囲の令嬢から敵意のこもった視線で見られる。
けど、嫌じゃない。むしろ勝った気持ちにレティシアはなった。
「ゴホゴホ」
咳き込むエドモンド。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。レティ、今日は本当に素敵だ。君の瞳に、その青いドレスがすごい似合っているよ」
エドモンドに褒められて、レティシアは赤面する。
「あ、あ、エドモンドも悪くないわ」
「もう、エドでいいのに」
膨れっ面をするエドモンド。
(ああ、この顔を誰にも見せたくないな。って、何考えているの私!)
そうして話していると、音楽が流れ始めた。
エドモンドは誰と踊るのだろう?そんなことを思っていると、真剣な目でエドモンドに見つめられた。
「レティ、一緒に踊ってくれませんか」
特別な意味を持つ初めてのダンス。
選んでくれた。そう思った瞬間、なぜか涙が流れた。
それを見て、エドモンドが焦ったように言う。
「い、嫌だったら大丈夫! ごめんね」
レティシアは黙って首を横に振った。
「ううん。嬉しくて。エドモンド、いや。エド。ぜひ踊ってください」
エドモンドの方を見ると、うっすらと涙を浮かべていた。
「エド、どうして泣いてるの?」
慌てて涙を拭うエド。
「ううん、なんでもない。踊ろう!」
そういってエドモンドはレティシアの手を取り、一歩を踏み出した。
♦︎
デビュタントの翌日、レティシアは早朝、いつもの扉の前にいた。
(早く昨日の続きを話したいな)
少しドキドキしながら、二回叩く。
——ここにいるよ。
返事はなかった。
(まだ早かったかな)
レティシアは、ほっとしたような悲しいような感情になった。
それから、一分後にまた叩いた。
返事はない。
(もう少ししたら来るわよね)
胸の鼓動がやけにうるさかった。
扉で隔てられていて良かったと思った。
これなら顔を隠せる。
レティシアは、その五分後にもう一度、扉を叩いた。そして三十分後にもう一度。一時間後にも。二時間後にも。
その日、彼は来なかった。
(きっと忙しいのね)
レティシアは、庭園に植えられていたネリネの花を、扉の下の隙間にそっと入れた。
(また明日、話そう)
けど、エドモンドは来なかった。
次の日も、そしてその次の日も。
残されたネリネの花が、来るたびにゆっくりと枯れていった。
結局、エドモンドと会えたのは、デビュタントの二週間後だった。
「エド! 待ってたのよ!」
「レティシア」
久しぶりに話す彼の声はいつもと違った。それはどこか冬のようだった。
「エド! 心配したんだから! たくさん話したいことがあるの!」
私は扉に向かって、両手を振り回しながら話しかけた。
「あのね! 今、私の庭園ではたくさんの花が咲いているの! 色々な季節が見頃なのだけど、今が最も見頃なの!」
「……」
「だからさ、今度正式に家に来ない? お父様にも話してみる!」
「……」
「お父様はとっても優しいの。きっとエドのことを受け入れてくれるわ」
「……」
「エド?」
私は少し不安になった。
いつも太陽のように反応してくれるのに、今日は月のようだ。
白く、とても冷たい。
「ああ、庭園でお茶会もいいかもしれないわね。きっと、美味しいお茶飲めばエドも元気でるわ」
私は笑顔を浮かべた。見えないけど、きっと伝わる。そう信じていたのだ。
「だから、エド。一緒に私の家に……」
「ごめん」
時間が止まった気がした。何がごめんなのだろう。謝ることなんてないのに。
「レティシア、君とはもう会わない。俺はグラン侯爵家のアリエス様に剣を捧げることに決めた。彼女に悪いから、もうレティシアには会わない」
扉の錆が目に入った。
(あれ、こんなにボロボロだったっけ)
(そうよね、こんなに長い間経つんだもの。ボロボロになるわ)
「彼女こそが仕えるのに相応しい」
扉の横の石塀はコケだらけだ。
きっと長いことこうだったのだろう。
(深い緑が覆い尽くすまでに、どれくらいかかったんだろうな)
「レティシア?」
「好きなの? アリエス様を」
私から出たのは、そんな言葉だった。
エドモンドは一瞬黙った。
私には、それで十分だった。
「わかったわ! これから頑張って。ごめん、私用事があるから行くね。じゃあね」
「お、おい!待てよ!」
レティシアは精一杯明るい声で言った。そして走り出した。
後ろから呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、きっと気のせいだ。
一週間、レティシアは扉に近づかなかった。
けどついにレティシアは我慢できなくなった。
だから早朝にこっそりと扉を見に行った。
一週間ぶりにきたら、扉は新しくなっていた。
向こうが見えた穴は、綺麗に塞がっていた。
サビのないピカピカの扉が、レティシアのことを見つめ返していた。
レティシアは黙ってそれを見た。
何時間も経った気がした。
レティシアは戻ることにした。
その夜、レティシアは父から聞かされた。
「知っているか、隣の家のエドモンド殿だがな、正式にグラン侯爵家のアリエス様の護衛になったそうだ」
食事の手が止まった。
「もう、あの家にはおらず、住み込みで働いているらしい」
スプーンでスープをよそって口に入れた。なぜかざらざらする。
父が何か言っていた。けど、スープの中に全て溶けていった。
その夜、レティシアはこっそりといつもの場所に行った。
二回扉を叩いた。返事は返ってこなかった。
♦︎
それから一年が経った。
レティシアは怒涛のお見合いの間に、政務に携わっていた。
領主たるもの、帳簿も読めないといけない。それが父の教えだった。
読み方を簡単に教わり、過去分をぱらぱらとめくっている時だった。
一件だけ異常に多い項目があった。
支出項目を確認すると、月晶花の雫とあった。
家の書庫で調べてみると、月晶花の雫は、魔力硝子病の治療薬だった。禁足地にしか生えず、目玉が飛び出るほど高い。
魔力硝子病にかかると、肺が侵され、そして基本的には死ぬ。
なぜ我が家が買っているの?
その時、レティシアは顔が青ざめた。
(これが本当なら……!)
すぐさま父の書斎に向かった。
「父上。エドモンド様について、隠していることはありませんか?」
執務室に入ると、父は一瞬顔をあげ、すぐに手元の書類を見た。
「何の話だ。よくわからない」
「月晶花の雫の購入が帳簿に記録されておりました。それを使って、何らかの取引をしたのではないですか?」
「何のことだか」
「エドモンド様は時々咳き込んでいました。魔力硝子病は肺が侵される、特徴的な咳をすると文献に記されていました。エドモンド様は魔力硝子病だったのではないですか?」
「……」
「けれど伯爵家では購入するお金も伝手もない。だから、お父様は治療薬を伯爵家に譲ったのではないですか?」
「……」
「その代わり、その代わり私には近づくなと言って」
「……」
レティシアは、父親の机の前まで歩き、机をバンと叩いた。
「お父様! 違うのですか!?」
レティシアはずっと下を見て書類仕事をしている父親を睨みつけた。
父親が顔を上げると、苦虫を噛み潰したかのような表情をしていた。
「お前には、彼は相応しくない」
「父上……!」
「もう、彼の心はグラン侯爵家のアリエス様にある。忘れろ」
レティシアは口を開いた。
でも、何も出てこなかった。
♦︎
「突然の訪問失礼します。アリエス様」
レティシアは、グラン侯爵家のアリエスを正面から訪ねていた。
グラン侯爵家の応接間は、青と白が基調になった調度品で彩られていた。
白のティーカップがレティシアの前に置かれ、紅茶が注がれた。
目の前には、アリエスが座っている。
「今日はどうしたのですか?」
「護衛にエドモンド殿がいると聞いて。幼馴染なのです」
出されたお茶を飲む。
(美味しい)
「あら、そうでしたわね」
レティシアは深呼吸をした。
「彼と話させてください」
アリエスは黙ってこちらを見た。
レティシアはそれを見つめ返した。
たっぷり数十秒が経っただろうか。アリエスが目線を逸らし、ため息をついた。
「けど二人きりにはできないですわよ?」
「それでもいいです」
レティシアは食い気味に言った。
アリエスが執事に合図をする。
重々しい扉が開く。
「エドモンド!」
「どうされましたか、ルバート侯爵令嬢様」
彼の表情は相変わらず冷たい。舞踏会で最後に会った時と少しも変わらない。
(その仮面を剥がしに、今日は来たの。負けないわ)
レティシアは少し強く息を吸った。
「あなたに真実を聞きにきました」
「真実?」
訝しげな表情をするエドモンド。
レティシアは続ける。
「エドモンド、幼いときに魔力硝子病にかかったでしょう。どうやって治ったのですか」
「なっ」
思わず口を押さえるエドモンド。
その瞳に動揺が走っていた。
「それは親の伝手で治療薬が手に入って」
「病気であったことを認めましたね」
「あっ!」
悔しそうな顔をするエドモンド。
(それが聞きたかったのよ)
「そして、その治療薬は私の父が用意したものでしょう」
エドモンドは首を振ると、元の冷たい仮面を被り直した。
「あなたは治療薬を受け取るため、私に近づかないことを誓った。だからあなたは私を避けるようになった」
「……恩人の名を明かすことはできませんし、あなたの話には何の証拠もない。それだけでしたら、帰ってください」
硬い声音でエドモンドは淡々と言った。
レティシアは息を大きく吸った。
「エドモンド、一つだけ聞いていい?」
「なんでしょうか? ルバート侯爵令嬢様」
「どうして、あなたはそんなに辛そうな顔をしているの?」
エドモンドの目に一瞬、色々な感情が浮かんだ。
けど、それもすぐ消えた。
「おかえりください。私はアリエス様に剣を捧げました。あなたは過去の人だ」
「エドモンド!」
「では」
エドモンドが立ち上がり、周囲の執事に合図をする。
エドモンドを追いかけようと立ちあがろうとすると、遮られた。
「すみませんが、今日はこの辺でお帰りください」
レティシアは拳を握りしめた。何もできない自分に腹が立ったのだ。
でも、できることはない。レティシアは、席を立った。
扉を潜り抜ける時、一度だけ振り向いた。
そこにはエドモンドはいない。
レティシアは振り返ると、グラン侯爵家を後にした。
レティシアが帰った後のグラン侯爵家。
エドモンドはお茶を目の前で飲むアリエスを立ったまま見つめていた。
「あなたはどうしたいの?」
問いかけるアリエス。
エドモンドは下を向いた。
アリエスが、困ったように笑った。
♦︎
グラン侯爵家から帰ったレティシアはベッドに大の字になっていた。
「あなたは過去の人だ」
そんなエドモンドの言葉がリフレインする。
ベッドから出て、昔の癖で壁を二回叩く。
こつ、こつ。
——ここにいるよ。
当然、返事はない。
「……肝心な時にいないじゃない」
笑おうとしたのに、喉が詰まった。
涙が溢れる。
涙は拭っても、拭っても流れ続けた。
「許さない」
涙の後に出たのは、こんな言葉だった。
バタン。執務室の扉が開く。
「お父様」
「なんだ、レティシア」
執務室に入ると、父親はいつも通り手元の書類を見ていた。
「あの方がいいです。誰がなんと言おうと」
ルバート侯爵が、顔を上げた。またその話か。そう顔に書いてあった。
「なんと言おうと、私は諦めません」
ルバート侯爵がため息をついた。
「他にも良い人はいるだろう?」
「ええ、でも私には合いません」
「伯爵家の三男なんかじゃ、結婚して領地経営をうまくやれないぞ」
「私が証明しますわ」
「もう、お前のことを好いていないかも知れないぞ」
「関係ありません」
真っ直ぐに見つめた。
父も真っ直ぐに見つめ返してきた。
目を決して逸らさない。
先に逸らしたのは、父だった。
「では、証明しろ。三年やる。領地経営がお前一人でもできるとな。立派に政務が一人でもこなせると。それができたら考えてやる」
「わかりました」
レティシアは驚いた。父親があっさりと許したからだ。
でも、言質をとった。あとは結果を出すだけだ。
浮かれてスキップし出しそうなレティシアに、ルバート侯爵が冷水を浴びせる。
「それから、このことを彼に伝えることを禁ずる。知られた時点で、この話は無しだ」
「なぜですか!?」
レティシアはつい大きな声を出す。
「すみません」
「気をつけろ。それから、理由だが、お前が一人でも大丈夫だとみるためだ。二人の力ではなくな」
ルバート侯爵はレティシアの方をしっかりと見た。
「嫌ならやめろ」
レティシアは父親のことを見つめ返した。
「……やめません。チャンスをくださり、ありがとうございます」
「では、明後日からだ。明日準備をして、すぐに領地に行って結果を出してきなさい」
「わかりました」
そう言って一礼するレティシア。
バタン。今度は扉が閉じた。
「お前によく似ている。身分違いの恋など苦労するのに。お前がいたら笑ってくれるのだろうか」
ルバート侯爵はため息をついた。
彼がレティシアを愛しているとは限らない。
それに、希望があるから待つのは誰でもできる。
何もわからないまま、それでも離れずにいるなら、それは本物だ。
「さて、どうなるかな」
♦︎
グラン侯爵令嬢の屋敷にいる、エドモンドのもとに実家から手紙が転送されてきたのは、昼頃だった。
「エドモンド、あなたに手紙が来ているわよ。悪いわね、あんなことがあったから先に読ませてもらったわ」
「いえ、構いません」
エドモンドが手紙を開く。
そこには、今日の昼、出立すること。今までお世話になったこと。
そして、別れの言葉が書かれていた。
便箋から、ぽろっと花が落ちた。ネリネの花だった。
——会いたい。
エドモンドはその花を見て、一瞬体が止まった。
手が震える。
その様子を見たアリエスは言った。
「アル、もう一度聞くわ。あなた、どうしたいの?」
「じ、自分はお嬢様に剣を捧げました」
「受け取った記憶はないわ。借りたけどね」
エドモンドが顔をあげ、アリエス様を見る。
「そんな、泣きそうな顔をしちゃダメよ」
アリエスは続けた。
「行きなさい」
「でも」
「さあ、早く」
アリエスはため息をついた。
(なんて意気地無しなの)
「今日は一日家から出ないわ。だからあなたには特別休暇を付与します」
「……」
エドモンドは唇を噛み締めた。
そして、掠れた声で、絞り出した。
「ありがとうございます」
エドモンドは主に馬を借りると、駆け出した。
ルバート侯爵家に行くと、先ほど出たばかりだという。
焦る気持ちを押し殺し、エドモンドは王都の門へ馬を走らせた。
勝手に王都から出るわけには行かない。
それでも、せめて最後に一言、言いたかった。
追いついた時、馬車はちょうど門から出るところだった。
「待ってくれ!」
遠ざかる馬車。
「待ってくれ、レティシア! まだ、何も言えていない!」
声は、遠ざかる車輪の音にかき消されていく。
ダメか。
結局、届かないのか。
「お嬢様、何やら声が聞こえますが、止めますか?」
侍女から声をかけられて、後ろの車窓から覗くと、そこにはエドモンドがいた。
私は首を横に振った。
「承知しました。では、このまま進めさせます」
エドモンドの方を見る。
何か叫んでいる。でも、聞こえない。
さよなら。二度と戻ってくるな。
そう言っているのかもしれない。
最後だし。
それでも、最後だから。
レティシアは震える手で、もう一度だけ小窓の向こうを見た。
エドモンドは馬を止めて、何もない空中を腕で叩いていた。
二回。そしてまた二回。
繰り返し、彼は空中を叩いていた。
「お戻りになりますか」
レティシアはしばらく黙っていた。
「いいえ。このままで大丈夫」
返事をした時、レティシアの頬には涙がそっと伝っていた。
レティシアも馬車の壁を、二回叩く。
届くことはない。
けれど、返した。
こつ、こつ。
ここにいるよ。
二人だけの秘密だった。
たくさんの作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございました。
最後まで読んでいただけたこと、とても嬉しいです。
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