社会性昆虫はこう考える。
小春日和に縁側で昼寝をするのは最高である。
ほどよい日差しが体に差し込み、至福の時を感じさせてくれる。
俺は寝そべりながら横に置いたスナック菓子の袋から一枚を取り出し口に運ぶ。今日は良い天気だ。
春のうららかな季候が心地よく眠気を誘ってくれる。
だから後数分、穏やかな時が流れていれば俺は夢の世界へ旅立っていたように思う。
「ふむ、これはなかなか美味であるな」
こんな声が聞こえていなければ。
「ん?」
耳元でささやくように無機質な声が脳に響いた。俺は上半身を起こし、周りを見回す。誰もいない。
それもそのはずだ。家には普段俺と母さんの二人しかいない。父さんは海外先で働いているのだから家にいるはずもない。
しかもこんな声質を持った人間を俺は他に知らない。だから空耳だと思ったのだ。
「む、これはお前の食物であるか。すまない、少しばかり頂くぞ。まあ許して欲しい。酷く腹が減っているものでな」
続けてその声は聞こえてきた。しかもさっきよりしっかりと聞こえる。俺はその異変に首を振るが周りに人気はまるでない。
俺はさっきまで寝そべっていた縁側の床を見ると一匹の黒いアリが、スナック菓子の袋から微量の菓子を咥えて飛び出している光景を目にした。
1cmに満たないであろうそのアリは俺の方へと頭を向け、その場に止まった。
「この程度の量ならば頂戴しても構わないであろう? 出来ればその巨体で押しつぶしたりしないでくれると有り難い。無益な殺生は良くないぞ。貴様は私を取って食うわけでもあるまいに」
「……」
俺は一瞬寝ぼけているのかと考えた。次にこれは夢を見ているのだと考えた。しかしどうにも意識はクリアである。
要するにこの事態を俺は全力で肯定しなくてはならない、ということなのだろうか。
「しかしこれはちと塩辛いな。香ばしくはあるが私の好みには幾分か遠い。もう少しばかり甘味を所望する」
「うおぉぉぉ!? アリが喋ったぁぁぁ!」
■
「先ほどは失礼した。深く無礼をお詫びする」
「い、いや。それはまぁいいんだけどさ……いきなりアリと話せるなんてビックリどころじゃないっての」
数分後、落ち着いた俺はスナック菓子をつまみ食いしていたアリと和解していた。
「それにしても驚いたな。私はほぼ戯れ言のつもりで語りかけていたが、そなたは私と話すことが出来るというのか。これは興味深い」
アリは関心した顔(多分)で語りかけてきた。俺はと言えばまだ心臓が音を立てて大きく動いているが、この事態をなんとか容認することが出来た。
俺は今、1cmに満たないアリと話すことが出来ている。これはもしかしたらファンタジーの主人公になったのかも知れない。人外と語り合うことが始まりで、世界を救う勇者的な存在になるのだ。そんな漫画を前に読んだことがある。おかげでこの唐突な状況にもいくらか対応出来ている。
「いや、別に私は貴様に使命を与えに来たわけではないが。ただ単に腹の空いたそこらのお茶目なアリだ」
なんか違うらしい。しかもお茶目とか自分で言いやがったコイツ。色々とツッコミたいことはあるがとりあえず今の状況を纏めると、お腹の減った喋れるアリと俺は会話しているだけだ。別段物語が始まった訳ではなかった。
「だから命ばかりは見逃してくれ。私はまだ生きたい」
なんかアリが謝っていた。や、別に俺にはお前を殺す理由は無いし。喋るアリを殺したら化けて出そうだし。昼寝をするはずだった俺の日常はよくわからない方向に進んでいた。
「あのさ、ええと……何話せばいいのか甚だしく疑問だが。と、とにかく、お前は誰だ、何だ」
「だから言ったであろう。ただのアリだ。もう少し詳しく申すならばこの家の近くにある巣に属する働きアリの一匹だ。他に質問は?」
「なんで俺とお前、喋れてるの?」
「それは私にもわからん」
「そうか」
「うむ」
俺の疑問は尽きた。というか他に何を聞いたら良いんだ。ただのアリに。この状況を受け入れることが出来た自分に栄誉賞を与えたい。俺と対峙するコイツはどうみても普通のアリだ。黒いツヤのあるボディに強靱そうな顎。よく見るとなかなか愛嬌のある姿である。
「質疑応答は終了だな。それでは申し訳ないのだが、私は今とても喉が渇いている。良ければ何か飲み物を頂けないだろうか」
「お前要するに飲まず食わずだったんかい」
「そうとも言うな。貴様の善意に期待する」
アリに対して全力でツッコんでしまった自分に一抹の不安を感じる。俺は首を傾げたまま立ち上がると、家の冷蔵庫まで歩き一番下の段を開けた。水道水を汲んで与えれば良かったんじゃないかと頭を過ぎったが、折角なのでよく冷えたリンゴジュースをやることにした。コップに汲むのでは溺れてしまうと思えたので適当な紙皿に数滴ジュースを垂らして差し出してやることにした。
「ほれ、飲め」
「おお、これはかたじけない。……うむ、これはとても美味だな。私の味覚を酷く刺激してくれる。気に入ったぞ」
アリに物凄く感謝された。なんだかあまり嬉しくない。アリにとってみれば人間様の食べ物飲み物は貴重であるに違いない。
「これは礼をせねばなるまい。といっても、私には貴様にあげられるようなモノは持ち合わせておらぬ。先ほど見かけたチョウの死骸で良ければ差し上げられるが、どうか」
「いや、要らんし」
いいからたっぷり飲み食いしろ、と俺は促した。どうせアリ一匹にいくらやっても僅かな物だ。雀の涙ほどの量で済む。
しばらくするとお腹いっぱいになったのか、アリは顔を上げて話しかけてきた。
「貴様は親切だな。良い人間だ。私は貴様に敬意を評するぞ」
どうやらアリは感謝の意を表しているらしい。ただほんのちょっぴりと食べ物を分け与えただけでこれだけ感謝されるのもどうかと思うが、悪い気はしない。俺へのお礼を考えるとか、割と恩義にしっかりした奴のようだ。変な奴だと思って苦笑が漏れた。
「また腹が減ったら来いよ。それぐらいの物だったらいつでもご馳走してやる」
「何、それはまことか。それならばまた世話になる。それではさらばだ」
俺に向けていた体をくるりと翻すと、アリは素早い足並みで去っていった。礼儀の正しいアリだと思いながら俺は右頬を強くつねった。とても痛かった。
「また会ったな」
「お、昨日のアリ」
翌日。昨日のように縁側で昼寝をしているとあの声が聞こえた。俺は声のした方に目を向ける。やはりあのアリだった。
「すまないが、今日も飲食を分け与えて貰えるととても有り難い。巣に溜め込まれている物よりいくらか美味だ」
「しょうがねぇな、ちょっと待ってろ」
今日はカステラと砂糖を水に溶かした物をやることにした。別に昨日と同じのでもいいかとも思えたが、折角訪ねてきているのだから少しくらい喜びそうな物をやりたかった。どちらにしろ大した量にはならんし。差し出してやると夢中になって食べ始めた。
「ていうかお前、それ巣に持ち帰ってやれば? 他の仲間も喜ぶだろうに」
「何を言う、これは私が見つけた物だ。他の奴に分け与えてやる義理などない。というより、面倒くさい」
思いもよらぬ返答だった。お前の名称は確か働きアリではなかったか。働け。
「私は他のアリ達とはどことなく、合わないのだ。あいつらは毎日毎日脇目もふらずに働いておる。そんなに体にムチ打たずとも、のんびり生きれば良いのではないかと私は考えている」
「いや、だって働きアリってそういうものだろ」
なんとも変なタイプのアリだ。……なんとなく親近感が湧いてしまった。中々面白い奴ではあるようだ。
「それでは私は失礼する」
「唐突だなおい。もう行っちゃうのか」
「あまり貴様の時間を頂くのもアレなのでな。また明日来よう。よろしく頼む」
そういってアリは素早く歩いていった。よろしく頼む、ってのはメシのことか。言葉遣いの割に図々しい奴である。変な奴、と思いながら俺は昼寝を再会することにした。
「今日は雨足が強い」
「だな」
次の日もアリはやってきた。今日は昼間に雨が降ると天気予報でやっていたのが的中した。この雨ではアリは来ないだろうと思っていたが、上手く雨宿り出来る場所に身を潜めていたのを見かけた。
「私たちの巣はこのような雨でも水没することはない。例え入り口が土砂で塞がれても中に居る仲間達が元に戻してくれる」
へぇ、と感心しながら俺はアリの横に腰を下ろした。これだけ雨が強いと外でエサも見つからないし歩くのもままならないだろう。
「この様子だと今日はお前やることないな」
「安心しろ。私はいつも何もしていない。外でブラブラして巣に戻るだけだ」
「お前は本当にアリなのかよ」
そういえばコイツは他のアリとどこか合わないだとか言っていたのを思い出す。普通、アリと聞くとせっせと働いているイメージが強いが、こいつはそうではないのだろうか。働きアリとかいう名前が詐欺に等しい。
「適当に外を散歩し、夜になったら巣に戻る。そして他の働きアリが採ってきたおこぼれを貰う。そういう生活を私は続けてきた」
「働けよ」
どうやらコイツはかなり巣にとって役に立たないアリらしい。なんとも怠け者だ。
「お前、ニートなんだな」
「ニート? それは何だ。どういったものだ」
「俺の世界では、そういう風に働かないで他人の蜜をすするだけの存在をニートって呼ぶんだ。ぶっちゃけ社会的評価はかなり悪い。なんせ人の役に立っていない。他人の足を引っ張っているだけだ。だから悪い意味で使われてる」
アリは多分訝しげな顔をしてほうほうと頷いていた。俺の話が興味深かったのだろうか。
「それは確かに私に適切な表現かも知れない。私は出来ることなら働かずに生きていきたいと考えている」
自分で言うか。働きアリのくせに。
「しかし、あんまり働かなかったら巣の仲間がなんか言ってくるだろうに」
「巣にはたくさんのアリがいる。私のことなど気にする奴はいない。故に私が働いていなくても巣は回る。一々仲間の顔を覚えてはおらんしな。一、二回しか顔を合わせていない仲間が大勢いる。無論、巣に戻れずどこかで野垂れ死んだ仲間もいるだろう」
どうやらアリの世界は一匹、二匹が消えたところで大した影響を及ぼさないらしい。……まるで人間社会のようだと思った。自分のやっていることが本当に誰かを助けているのかどうかが実感できず、それでも社会は回り続けていくのだ。要は社会の歯車であるかどうか、そういうことなのだろう。
「だから私はここでそのニートとやらを満喫することにしよう。だからそのためには貴様の手助けが必要不可欠である」
「大丈夫、お前は意識しなくても立派なニートだよ」
とんだアリを抱えたもんだ。そう思いながら今日は本当に雨が強いなぁなんて感じていた。
「俺の世界だと人間関係が重要になってくるな」
「ほほう。それは例えば、どのようにだ?」
今日もアリと縁側で世間話をしていた。それが当たり前になってきているのがなんだか怖い。
「職種にもよると思うが、お前と違って常に同じ人達と仕事をするんだ。だから毎日顔を合わせるし、挨拶とかも重要になってくる。共同作業するためにチームワークが大切だから、嫌な奴とも仕事しなきゃならんし、上司の嫌味にも耐えないといけない」
「それは難儀であるな。逆に私の世界では新たな出会いは意味を持たない。また会うことなどほとんどないからな。会えたとしてもだからどうした、という話だ。働く奴は誰でも良い。故にこうしてニート生活とやらを続けていられる。……うむ、今日も美味である」
アリは満足そうに黒砂糖に齧り付いている。どうやらコイツは頭が良いのかも知れない。コイツは働くことの意味を考えている。しかし大半のアリはきっとそうではないのだろう。自分が働いていることに疑問を抱かない。だからこそ、毎日せっせと巣のために働いていくことができる。効率よく働くという点ではコイツのような感情は逆効果だ。コイツは特殊であるために、自分が働かなくても世は動くという概念を抱いていられる。他の奴はそれに気づかない。すべてのアリがそんなことに気づいてしまったら大変なことになってしまうだろうけれど。
「お前は働かなくて美味いもん食えるから良かったな」
「であるな。それも貴様のおかげだ、感謝する。しかし……よく解らないが、私には罪悪感のようなものが芽生えてきている。私が働かなくとも巣は大丈夫であろうが、なんとなく気分は良くない。やはりたまには働くべきであるな、と私は考える」
「お前変に真面目な奴なのな。まあそのうち、働きたくなったら働けよ」
「それもそうであるな。それまでは貴様の世話になろう」
嫌に人間くさい会話を俺達は楽しんでいた。しばらくして満腹になったアリは今日も元気に素早い動きで巣へと戻っていった。
アリは毎日のように昼間に家を訪ねてきた。そして今日も適当に何かアリにとって美味そうな物を探し、与えてやることにした。
「毎度のことながら美味だな。人間の食物は賞賛に値する」
「そいつはどうも」
すっかりアリと話すことにも慣れ、いつものように適当に会話を交わす。コイツを満足させるのが最近の日課になりつつある。しかしまあ悪くはない。
「ところで、貴様はいつも家にいるのだな」
突然、アリが会話を中断して思いも寄らないことを聞いてきた。
「貴様、昼間は働いていないのか?」
「いや、“昼間”じゃない。“いつも”だ」
「そうか。貴様もニートという奴なのだな」
俺ははっとした。まさかアリに教えたことで反撃されるとは思わなかった。アリの言うとおりだった。俺は働いていない、22歳にもなって。父親の収入で毎日を生きている、要するにスネかじりの人間だ。
「働けば良いのではないか。そうしたら真っ当に生きていけるのではないか」
「簡単に言うな。今は再就職するのも難しいんだ。18で高校卒業してから就職したけど、仕事が辛くて辞めちまった。俺のやってることに意味なんかあるのかなと思ったし、なにより……」
そこまで言いかけて、自分が言い訳ばかりしているんだなと気づいた。要するに俺は、働くことに耐えられなかった。働くことなんて誰でも嫌だとは思うが、俺は根性が足りない部類の人間だったのだろう。給料が低いだとか仕事がつまらないだとか、何かにつけて言い訳を探していた気がする。こんな自分だから、働き続けられないのだろう。
「意味など、無いのではないか」
数秒の間を置いて、アリが口を挟んできた。
「私はこう考える。私の世界でも働くことに恐らく、意味はない。ただ単に生きるために皆で共同作業をするだけだ。それ以上の意味はないし、以下もないと思える。だから私がいなくなっても大して被害は出ないし、他に代わりはいくらでも居るはずだ。……しかし、私が少しでも働くことで、もしかしたら他のアリの食い分が見えないところで増えているかも知れない。誰かの命が救われたかも知れない。それならば私のやったことにも少なからず意味はあるのではないかと感じられる。私は必ずしも必要な駒では無いが、かといっていらない駒という訳でもない。故に……」
「……」
「故に、働く意味を考えるのは無粋であると考える」
俺はアリに説教をされていた。だけどなんだか悪い気はしない。コイツの言うことには妙な説得力があったからだ。同じニート同士、なんとなく考えることのベクトルが近い。だから俺はきっとコイツに大きな親近感を抱いている。……相手は虫なのに。
「かも知んねぇなぁ。働くことって大変だし、辛いし。働く意味なんて、人生と同じで多分見つけにくい物だと思う。……その点、お前は働かなくてもなんも言われなくて良いな。羨ましいよ」
「誰にも指摘されないというのは、それはそれで寂しいところがある。……物は考えようだな」
アリの癖して随分と達観した考え方である。コイツは他のアリと違って働かない。働くことについて意味を求め、考えることが出来るから、働かない。なので他の頑張っているアリ達を遠目で見ながらニート生活をしている。どうやら、それはそれで良いところと悪いところがあるようだ。
「うお、お前なんだそれ、その羽は」
初めて出会った時から一ヶ月ほど経ち、アリに変化が起きていた。アリの背中に透き通った薄い羽が生えていたのだ。
「ああこれか。『結婚飛行』をすることになった。私はこれから新たな巣を作って女王アリにならなくてはいけなくなった。出来ればニート生活を続けていたかったのだが、どうも無理なようだ。私はこれから大勢の子供を産まなくてはならない。働かざるを得なくなった」
「お前ってメスだったんだな。てっきり話し方からオスかと思ってたんだが」
「働きアリは全部がメスだ。要するにメス奴隷というわけだ」
「お前、わざと嫌な響きで言ってるだろ」
今まで俺から食料を貰い続けていたアリだったが、これからはどこか別の場所へ旅立たなくてはいけないらしい。そうなると必然的に俺からのおこぼれを貰う生活は続けられなくなる。
「これからは私の巣までを食物を届けてくれ。期待している」
「待てや」
「冗談だ。今まで世話になった。礼を言う。もうそろそろ巣で羽ばたきの儀式が始まるので私はもう行く、達者でな」
そう言ってアリは飛び立って行ってしまった。……どうやら、アイツは意味を見つけたようだ。これからは自分の家族を大勢作って頑張っていかなくてはいけないのだろう。それはきっと楽な道ではないはずだ。
しかし、何よりも生きた心地がするだろう。少なくとも俺はそう思う。毎日をだらけて過ごすよりはよっぽど充実した世界を生きていけるはず。
俺は、どうだろう。仕事をしていた日々は辛かった。何度もやめてやると思ったし、こんなことをしてて意味があるのかとか余計なことを色々と考えていた気がする。決して面白い生活とは言えない。
かといって、今の暇だらけの生活も……心の底から良いとは言えない。ニート生活を始めた時は一生この生活を続けたいという考えが頭に過ぎっていた。だが、今度は暇を持てあますようになる。放題な時間が押し寄せて、自分が何をしたかったのかすら解らなくなった。
つまり俺は、仕事にまみれながらも、そこに出来た僅かな余裕に楽しさを感じていたんだ。
辛いことを乗り越えないと充実出来ないとは、人間というのは面倒なモノだ。本当に、面倒だ。
「さて……」
俺は何を血迷ったか、就職口募集の分厚い本を広げていた。
とりあえず今は、どうなってもいい考えで行こう。時間はたっぷりあるのだから。少しずつ踏み出せばそれでいいだろう。
パラパラと本を眺めていると、後ろで膝を床に着けた母が泣き崩れていた。 畜生、なんつう大げさな母さんだ。
心配掛けちまって、ごめんよ。