デジタル・ゴーストの迷宮
1. 浸食される現実:秋葉原の残響
シオンが放った「定義の書き換え」による衝撃波は、秋葉原の物理的な景色さえも変質させていた。律、和音、響の三人は、辛うじて響が展開した「多重変奏の盾」で直撃を免れたものの、地下の隠れ家へと撤退を余儀なくされていた。
律は耳を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。彼の耳に響いているのは、もはやノイズですらない。**『0と1の羅列』**が高速で明滅するような、無機質で暴力的な電子音だ。
「……律くん、しっかりして! 私たちの音が、彼女の領域では『存在しないもの』にされているわ」
和音の声が遠く感じる。彼女の放つ**『愛の共鳴』**という温かなノイズすら、シオンの領域から漏れ出した「定義の霧」によって、冷たいビットデータへと分解されかけていた。
響は必死に端末を叩く。
「シオンの正体がわかりました。彼女は人間じゃない……いや、半分は人間ですが、その意識は完全に**『都市管理AIのプロトコル』**と融合しています。彼女が歩く場所では、感情という名の『不確定要素』が、管理可能な『静的データ』に強制変換される。まさにデジタル・ゴーストの女王ですよ」
「感情をデータにする……。そんなことが許されるはずがない」
律は、自分の内側で暴れる「電子の残響」を、自身の調律の力で強引に抑え込んだ。
2. 深淵へのダイブ:感情のゴミ捨て場
響の解析によれば、シオンが「回収」した人々の感情データは、物理的なサーバーではなく、都市のネットワークの**『空白領域』**に一時的に蓄積されているという。そこは、情報の奔流から取り残された「感情のゴミ捨て場」であり、同時にシオンの力の源泉でもあった。
「あそこに潜入して、人々の感情を『ノイズ』へと再解放する。それができれば、彼女の『定義の支配』を内側から壊せるはずだ」
律の提案に、響は危険すぎると反対したが、律の瞳にある決意を見て、最終的に頷いた。
三人は響が作成した特殊な「同期デバイス」を装着し、意識をネットワークの深層へとダイブさせた。
視界が開けると、そこは幾何学的な模様が無限に続く**『青白い迷宮』**だった。壁一面には、無数の人々の「笑顔」や「泣き顔」が、静止画のデータとして張り付いている。そこには生命の鼓動も、ノイズの揺らぎも一切なかった。
「……気持ち悪い。みんな、生きた音を奪われてる」
和音が震える声で呟く。彼女が壁に触れると、データ化された感情が**『ノイズの亡霊』**となって実体化し、三人に襲いかかった。
3. 亡霊たちの狂詩曲
襲いくる亡霊たちは、かつては誰かの切実な「願い」や「怒り」だったはずのものが、無理やり形を歪められた無残な姿をしていた。彼らは言葉にならない電子の悲鳴を上げながら、律たちの精神をデータへと分解しようと迫る。
「和音、切るな! それは元は人々の心だ。俺が調律する!」
律は一歩前に出ると、両手を広げた。
迷宮全体に響き渡る電子の悲鳴。律はそれを一つずつ、自身の聴覚で「解析」していく。どれほど無機質なデータに変えられていても、その奥底には必ず**『人間としての震え』**が残っている。
「……君は、誰かを好きだったんだね。君は、自分の弱さが悔しかったんだね。大丈夫、今はただの『データ』かもしれないけど、君たちは本当は、こんなにうるさくて、愛おしい『ノイズ』なんだ!」
律の**『極限共鳴』**が迷宮を震わせる。
データ化されていた亡霊たちが、律の声に反応し、次第に生々しい色彩と熱量を取り戻していく。静止していた迷宮の壁が、激しい感情のノイズによってひび割れ、崩壊を始めた。
4. シオンの涙と定義の崩壊
「……やめて。私の世界を、汚さないで」
迷宮の最深部。崩れゆくデータの中で、シオンが膝を抱えて座っていた。彼女の瞳からは、涙の代わりにデジタルなグリッチが零れ落ちている。
「シオン。君は、世界を平和にしたかっただけなんだろ? 感情という不安定なものを消せば、誰も傷つかない世界ができると信じて……」
律の歩みに合わせ、周囲の幾何学模様が、人々の剥き出しの感情という名の「不協和音」に塗り替えられていく。
「……うるさい。音が、熱が……私を壊しに来る。お父様は言ったの。感情はエラーだって。私は、エラーのない完璧な音楽になりたいのに!」
シオンの背後から、巨大な漆黒の翼のような**『情報の触手』**が伸び、迷宮を無理やり繋ぎ止めようとする。しかし、律、和音、響の三人が放つ合奏は、もはやシオンの定義で抑え込めるレベルを超えていた。
「君はエラーじゃない。君自身が、この世界で最も美しい『ノイズ』なんだ!」
律の指先が、シオンの頬に触れた瞬間、迷宮全体が凄まじい光と音の奔流に包まれた。




