世界は悲鳴を上げている
1. イントロダクション:律の日常と静寂への渇望
高校生になった黒野律の日常は、常に轟音の中にあった。
彼の耳が捉えるのは、ただの日常の音ではない。それは、世界中の人々の心から漏れ出る、ネガティブな感情のエネルギー――**『ノイズ』**の悲鳴だ。
「うるさい……うるさい、うるさい!」
律は、朝の満員電車の中で思わずそう呟き、深くフードを被り直した。耳には、何年も使い込んだオーバーイヤー型のノイズキャンセリングヘッドホンが深くかかっている。彼はそれを「世界との隔壁」と呼んでいた。
ヘッドホンから流れるのは、自律神経を落ち着かせるためのホワイトノイズ。しかし、その微弱な音ですら、律には巨大なオーケストラの演奏のように聞こえる。なぜなら、彼には世界を埋め尽くすノイズの「音楽」が、常時、現実の音よりも大きく聞こえてしまうからだ。
周囲の人々から放射されるノイズは様々だ。隣でスマートフォンを操作するサラリーマンからは、「仕事への諦めと上司への不満」が混ざり合った、鈍く歪んだベースラインが聴こえる。向かいの女子高生二人からは、「友達への嫉妬と自己顕示欲」の耳障りなハイハットが絶え間なく鳴り響く。
(ああ、みんな、こんな音の中でどうやって生きてるんだ?)
律は、自分だけがこの世界の「真の姿」を聴いているような孤独を感じていた。彼はこの能力を呪っていた。彼が本当に欲しいのは、完全な静寂だけだった。
2. ノイズの具現化:学校という戦場
午前八時過ぎ。律が通う私立桜坂高校は、ノイズの発生源として特に強力な場所だった。
校門をくぐると、ノイズの音圧が一気に増す。それは、**「競争」と「承認欲求」**が混ざり合った、甲高く神経質なシンセサイザーの音だった。教室に入ればさらに酷い。
「おはよう、黒野くん。またヘッドホンか。校則違反だろ」
席に着くと同時に、担任の教師、佐倉が冷たい声で言った。佐倉から聞こえるノイズは、**「生徒への期待と、それに応えられない現実への苛立ち」**が作り出す、激しいディストーションギターの音だ。
律は顔を上げず、小さな声で返す。「すみません、頭痛が酷くて」
嘘ではない。ノイズが強すぎると、鼓膜ではなく脳が直接振動するような激しい頭痛に襲われるのだ。佐倉は鼻を鳴らし、去っていく。
その時、教室の隅から、これまでとは全く異なる、不気味で陰鬱な重低音が響き渡り始めた。
(なんだ、この音は…?ただの感情じゃない、もっと…質量がある。)
律が目線をやると、クラスで目立たない男子生徒、高田が自分の机に突っ伏していた。彼の周囲の空気は、黒く澱んで見える(律の能力は聴覚中心だが、強いノイズは視覚にも影響を与える)。
その重低音は、高田の**「誰にも気づかれない孤独と、世界への強い憎悪」が具現化しようとしている音だった。ノイズは、高田の机の周りの空間を歪ませ、形を持たない黒い靄となって濃くなり始める。これは、誰もが認識できない『ノイズの具現化』**、すなわち魔物の発生の前兆だった。
「まずい…」
律は、即座に立ち上がった。普通なら、生徒が騒ぎ出してノイズが強まる前に、その場を離れて静寂を探す。それが彼の生存戦略だった。だが、今回は違った。このノイズは強大すぎた。放置すれば、この教室全体が、高田の憎悪に染まってしまう。
3. 和音の登場:ノイズを切り裂く微笑
律がどう行動すべきか迷い、一歩踏み出したその瞬間。
「高田くん、大丈夫?顔色が悪いよ」
透き通るような声が、轟音のノイズをわずかにかき消した。
声の主は、白瀬和音。クラスの華で、いつも優しく微笑んでいる少女だ。彼女から発せられるノイズは、まるで波打ち際で奏でられる穏やかなピアノの音のように澄んでいる。律は、彼女のノイズを聴くと、一瞬だけ頭痛が和らぐのを感じていた。律にとって、彼女は唯一の「ノイズキャンセラー」のような存在だった。
和音は高田に近づき、そっと肩に触れた。
その瞬間、律は信じられない光景を目撃する。
和音が高田の肩に触れた指先から、冷たい青白い光が発せられたのだ。その光は、高田の周囲に渦巻く黒い靄(ノイズの具現化)を、まるで鋭利な刃物のように切り裂いた。
キュィィィン――
ノイズが悲鳴を上げて消滅する、異常な静寂が律の耳に届いた。その静寂は一瞬で、すぐに日常のノイズが戻ってきたが、高田の周囲から発せられていた重低音は完全に消えていた。高田は、ぼんやりと顔を上げ、「…あれ?僕、寝てた?」と呟く。
和音は、律の方を見て、いつも通りの完璧な笑顔を浮かべた。その笑顔は、あまりに自然で、クラスの誰もが彼女がただ優しい行動をとっただけだと思っただろう。
だが、律には分かった。彼女こそが、自分と同じ、あるいは自分以上に異質な存在なのだと。彼女のノイズは澄んでいる。だが、彼女はノイズを視覚的に捉え、物理的に破壊するという、異常な能力を持っている。彼女がノイズを切り裂くたびに、彼女のピアノの音の波形が、ほんの少しだけ歪んでいくのを、律の耳は正確に捉えていた。
4. 放課後の真実:調律師と観測者
放課後。律は迷った末、和音の後を追った。彼女は人気のない校舎裏の旧階段で立ち止まっていた。
律はヘッドホンを外し、勇気を出して言った。
「君…ノイズが見えるのか?」
和音は、微笑みを崩さなかった。
「黒野くん。聞こえていたのね」
律は動揺する。「聞こえる?何を?」
和音は静かに振り返り、律の目をまっすぐに見つめた。その目の奥には、穏やかなノイズとは似ても似つかない、鋭い警戒の色が宿っていた。
「さっき、高田くんの周りにいた**『感情の雑音』**が、黒い霧になっていたのが見えたでしょ?」
律はごくりと唾を飲み込んだ。ノイズを「霧」だと表現した。やはり彼女にも、見えているのだ。
「あれはノイズが具現化する一歩手前だった。放置すれば、多くの人に**『無関心』**という名の感染症を広げる恐れがあったわ。それを物理的に破壊したのが、私の力」
和音は自分の手のひらを見つめる。
「そして、あなたが**ノイズの『音楽』を聴き、その波形を理解できる『調律師』**だということも、私は知っているわ、律くん」
律は、初めて自分の名を呼ばれたことよりも、自分の秘密が完全に暴かれたことに驚愕した。
和音は再び、いつもの笑顔に戻って言った。
「私たち、バディを組みましょう。私はノイズを視て、あなたはノイズを聴く。私たちだけが、この世界を覆っている悲鳴の音楽を止められる」
律の心の中で、和音の優しいピアノの音と、彼の内なる静寂への渇望が、激しく共鳴し始めた。彼女の存在は、煩わしいノイズを打ち消してくれる唯一の「音」かもしれない。しかし、ノイズを切り裂くたびに、彼女の完璧な笑顔の裏で、音色が歪んでいく様子を律は聴き逃さなかった。
律はヘッドホンを握りしめ、答えた。
「分かった。ただし、教えてくれ。君のその笑顔は…本物なのか?それとも、自分自身を覆い隠すための**『ノイズの仮面』**なのか」
和音の笑顔が、一瞬だけピクリと歪んだ。それは、律の耳に届いた、かすかな不協和音だった。




