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第四章:終焉の光とユキの瞳

1. 最後の砦


 雲を被った山脈の凍結地帯。雪と岩に囲まれた、小さな盆地状の空間。濃厚な雲で視界が遮られて全てを見通すことはできない。

 カイは、『断罪の執行者エグゼキューター』を、アリアを隠した岩棚から十分な距離だけ引き離すことに成功した。

(これでいい。この距離なら、アリアは大丈夫だ)

 彼の目の前には、巨大な黒装甲の魔族が、静かに、だが絶対的な殺意を放って立っている。

「おい、魔族! お前を待っていたのは、こっちだ!」

 カイは、虚勢を張り、震える体を叱咤した。右腕の裂傷は既に限界を超え、激しい痛みが絶えず彼の意識を苛む。しかし、恐怖は不思議なほど薄れていた。

(もう、相手の苦痛なんてどうでもいい。僕の目的は、この場で時間を稼ぎ、この魔族を足止めすることだけだ)


 執行者は、感情のない巨大な剛腕を、ゆっくりと振り上げた。

 その一撃を、カイはただ、受け止めるしかない。

「うおおおおおおおおっ!」

 彼は最後の力を振り絞り、再び『感情移入型防御エモーショナル・シールド』を発動させた。

 皮膚は瞬時に黒い角質の装甲に覆われる。防御の代償として、全身の内側から骨がきしむような激痛が走るが、カイは歯を食いしばって耐え抜いた。

 〈ドォン!〉


 執行者の剛腕が、カイの体を直撃した。

 カイは、その場に留まることすらできず、岩肌に勢いよく叩きつけられる。

(ぐ、ああっ……! なんて痛さだっ! 骨が……体が、軋んでる!)

 防御は、一撃では破られない。しかし、その衝撃は、彼の肉体の限界を遥かに超えていた。

 執行者は、一歩も動かず、カイが再び起き上がるのを待っていた。その無機質な佇まいが、彼の絶望を深める。

(一撃が限界だ。二発目を受けたら、防御ごと、全身が粉砕される……)

 しかし、彼は見つけた。

 執行者が立ちはだかっていた、その黒装甲の背後の景色。

 鉛色の雲が、山脈の頂上付近で薄れている。

 そこには、この地獄では誰も見たことのない、鮮烈な光景があった。

 青空だ。

 鮮やかな、真っ青な空。そして、そこから漏れる、金色に輝く朝日の光。

(アリア……! 見えたぞ……!)

 その光景は、カイの心臓を強く打ち鳴らした。聖域『エリュシオンの揺り籠』は、あの光の先、山頂のすぐ向こうにある。

 執行者は、容赦なく二度目の剛腕を振り下ろした。

(時間がない!)



2. 魂の代償


 カイは、死の直感を回避するため、辛うじて体を転がして攻撃を躱した。防御は既に限界に近い。

 その時、執行者が視線をわずかにそらした。

 〈キィン……〉

 霧のような雲が晴れ、山脈の稜線に沿って建つ建造物、巨大な古代の石造りの門が姿がすぐ眼の前に姿を現した。それが、聖域『エリュシオンの揺り籠』の結界門だった。

 彼らを誘うかのように、門の向こう側には、別世界の青い空と、緑豊かな自然が見える。

 執行者は、職務の対象が、その聖域に逃げ込むことを阻止しようと、一瞬、結界門の方へ向きを変えた。

(今だ!)

 カイは、残された最後の力を、右腕の激痛も厭わず、全身のエネルギーとして昇華させた。

 彼は、執行者の足元に転がり込み、硬質化した右腕を、その巨大な足首に巻きつけるようにして抱きついた。

「行け……アリア! 走るんだ!!」


 彼は、近くの岩棚に隠れているアリアに向かって、心の中で叫んだ。

(この防御は、もう少ししたら解除される。だが、解除されるまで……この魔族は、動けない!)

 執行者は、足に張り付いた小さな人間に苛立ち、剛腕を振り上げようとしたが、カイの『感情移入型防御』の力が、彼の足首を岩のように掴んで離さない。


「うぐぅ……あ、ああああああ!」

 激痛が、全身を駆け巡る。防御時の衝撃に加え、魔族の行動原理を強制的に止めたことによる精神的な反動が、カイの体を内側から破壊していく。

 その瞬間、岩棚から、小さな影が駆け出した。アリアだ。

 熱に苦しんでいた彼女だが、兄の絶叫を聞き、必死に岩棚を降りてきたのだ。

 彼女の瞳には、兄の絶望的な状況しか映っていない。

「お兄ちゃん! だめぇ、アリアも、一緒に!」

 アリアは、兄の傍に行こうと、雪の斜面を駆け下りる。

「来るな、アリアッ!!」

 カイの魂を絞り出すような、最後の叫び。

「絶対に振り返るな! ただ、あの光の門を、くぐり抜けろ! それが、お兄ちゃんの、最後の遠足なんだ!」


 門を眼の前にして、アリアは、兄の言葉と、目の前の現実との間で激しく葛藤する。

 しかし、兄の、全身を黒い角質で覆いながらも必死で魔族に食らいつく姿。

(お兄ちゃんの、言うこと……聞く)

 アリアは、強く唇を噛み締め、抱きしめた『ユキ』人形を胸に押しつけた。

 彼女は、ついに兄に背を向け、山頂の稜線に立つ巨大な石の結界門に向かって走り出した。

 一歩。二歩。三歩、踏み出すと、アリアは結界門に向かって全速力で駆け出した。

 おさげ髪を揺らしながら、小さな脚で、緩やかな坂を駆け上がっていく。その足取りは、純粋な愛と、兄への絶対的な信頼から生まれた、力強いものだった。

 執行者は、足元で叫ぶカイを振り払おうともがくが、彼の命を懸けた最後の抵抗は、どんな力も打ち破ることができない。

 小さなアリアは、その体に不釣り合いな巨大な結界門をくぐり抜けた。

 門をくぐった瞬間、門から放たれた光が、アリアの小さな体を包み込む。

 〈ブシュッ……〉

 結界門が、再び静かに閉じる音。

 そして、その音と同時に、カイの『感情移入型防御』が限界を迎え、崩壊した。

 黒い角質が剥がれ落ち、彼の体は、血と泥にまみれた、一人の16歳の少年の姿に戻る。

 執行者は、結界門に背を向け、足元に転がる小さな獲物を見下ろした。

 最後の剛腕が、三度、振り下ろされる。

 その瞬間、カイの苦しそうに歪んだ顔に、ほんの一瞬、安堵と満足の笑みが浮かんだ。

(アリアは、助かった。ありがとう、アリ……)

 最後に、空高く構えた執行者の剛腕が勢いよく振り下ろされると、彼の全身は叩き潰され、鈍い音と共に人の形を失った。


 結界門をくぐり抜けたアリアは、しばらく動けなかった。風が前髪を揺らし、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。だれかが声をかける気配もあったが、三つ編みの少女はただ片手を握りしめたまま立ち尽くしていた。



エピローグ:ユキの瞳


 聖域『エリュシオンの揺り籠』。


 山脈の向こう側に広がるエリュシオンの世界は、まさに伝説の通りだった。空はどこまでも青く澄み渡り、暖かい太陽の光が、あたり一面の豊かな緑と、色とりどりの花々を照らしている。冷たい雨も、鉛色の雲も、聖なる力で守られたこの場所には存在しない。


 白く優雅なゆったりとした衣を着たアリアは、見晴らしの良い石畳の展望台で、一人静かに立っていた。涼しい風が吹き抜け、三つ編みを解いた長く明るい栗色の髪と、彼女の聖なる白い衣がたなびく。眼前には、どこまでも続く山々と森、雲の海が、朝焼けの美しい絵画の様なパノラマを創っていた。

 どことなく大人びた表情をした子どもの彼女の顔には、あの日の熱の苦しみも、逃避行の疲労も、もう見えない。

 遠くを見つめるアリアの大きな瞳。彼女の片手には、手縫いの人形『ユキ』が、固く握られている。

 しばらくして、アリアが優しく『ユキ』を胸に抱いて、そっと目を閉じた時、人形の瞳を縁取っていた小さなビーズに輝く朝日の光が反射し、キラリと静かに光った。

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