第三章:山脈の凍結地帯と巨大な影
1. 聖域を隔てるもの
山脈の麓から、カイとアリアは四日目に入っていた。
山肌から突き出た岩棚の下で、一夜を過ごした彼らは、山の頂上を目指して登り続けた。
高度を上げるにつれて、小雨は、やがて冷たい雪へと変わった。周囲の荒涼とした岩肌は、薄く凍りつき、一歩踏み出すごとに足元が滑る。鉛色の雲は相変わらず空を覆っていたが、その雲の輪郭が、時折、山頂の向こう側から漏れる微かな光によって、銀色に縁取られることがあった。
(あの山頂を越えれば、きっと……)
カイは、背負ったアリアの体が、熱を持っていることに気づいた。
「アリア、大丈夫か? 寒いか?」
「ううん……大丈夫だよ、お兄ちゃん。でも、ユキちゃんがね、ちょっと眠たそうにしてるんだ」
アリアは、兄に心配をかけまいと、懸命に笑顔を作るが、その声はか細く、呼吸も浅い。
(まずい。熱がある。峡谷での冷たい雨と、この凍える寒さだ……)
カイの右腕の裂傷は、冷気で感覚が麻痺し、化膿している兆候が見られた。極限の疲労が、彼の細身の体を蝕んでいく。
夜になり、カイは、凍えた大きな岩の重なりに小さな隙間があるのに気づき、その奥につくられた暖かな空間で休むことにした。
カイは、残りのわずかな食料をアリアに与え、自分の体温で彼女を温めようと抱きしめる。
(僕の腕の傷なんて、どうでもいい。妹さえ、無事にエリュシオンに着ければ)
彼は、アリアの純粋で曇りのない瞳を見るたびに、自らの存在意義が明確になるのを感じた。
「お兄ちゃん……大好き……」
アリアは、そう消え入るように辿々しく言うと、『ユキ』人形を抱きしめて眠りに落ちた。
2. 死神出現
翌朝、五日目。カイは、無理やり体に鞭を打ち、凍りついた急斜面を登り続けていた。
カイが前を見上げると、点々と頂上に向かって、古代の石が雪の地面から顔を覗かせているのが見える。
(確実に近づいている。これを辿れば……)
アリアの熱は今も下がらず、意識も朦朧としていた。
(間に合え。どうか、間に合ってくれ……!)
もはや、逃避行というより、時間のレースだった。
その時、山脈を越えて吹き付ける風に乗って、何か巨大で異質な存在が発する"気配"が、カイの肌を刺した。
それは、『シャドウワーカー』のような斥候ではない。より重く、より冷たい、圧倒的な死の予感。
――山脈の斜面下部。
カイが先ほどまでいた場所の、巨大な岩盤の上。
〈ゴオオオォ……〉
全身が黒い装甲に覆われた巨大な魔族、『断罪の執行者』が立っていた。
(やはり! あの感情の波は、こいつだったのか!) カイは悟る。この執行者は、故郷の要塞を破壊し、そしてゼフ隊長を殺したのだと。そして、執行者は、「崩壊した『鉄の檻』で設定された新たな"職務"」を遂行するため、執拗にカイを追跡してきたのだ。魔族には、空間を移動できる能力を持つものがいる、という噂は本当だった。
執行者の頭部が、カイたちのいる斜面に向かって、ゆっくりと持ち上がる。
その瞬間、カイの全身に、魔族が発する感情の奔流が流れ込んだ。
(憎悪ではない……これは、"職務"。ただ、目の前の対象を排除するという、無機質で、絶対的な殺意……!)
カイの体質が感知するのは、相手の"苦痛"だったが、執行者が発するのは感情そのものではなく、その「行動原理の"絶対性"」だった。その冷徹な絶対性が、カイの心を凍りつかせる。
「うっ……!」
執行者は、一歩、また一歩と、山脈の斜面を登り始めた。その巨大な体躯に反して、その足音はほとんどなく、岩盤を滑るように進んでくる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
背中のアリアが、不安そうに兄に尋ねた。
「……何でもないよ、アリア。ただの、雪崩の音だ。早く行こう」
(雪崩なんかじゃない。あれは、死だ)
カイは、もはや逃げ場がないことを悟った。このまま山頂を目指しても、執行者の方が速い。追いつかれれば、アリア諸共、一瞬で圧し潰されるだろう。
3. 最後の決断
登っていたカイは、視界の先から雪に覆われた地面が急激に消えてゆくのを感じた。尾根は、目と鼻の先だ。
追跡する巨体は、すぐ下まで来ている。
カイは登っていた斜面から、周囲を見渡せる小さな岩棚に身を隠した。
執行者の黒い装甲が、山脈の灰色の岩肌と冷たい雪の中で、異様な存在感を放っていた。
(このままじゃ、二人ともダメになる)
覚悟を決めたカイは、背中のアリアをゆっくりと下ろした。
彼女はぐったりしているが、『ユキ』人形を抱く手は離さない。
「アリア、聞いて。お兄ちゃんの言うことを、よく聞くんだ」
カイは、震える手で、アリアの小さな頬を撫でた。
「これから、お兄ちゃんはあっちの方に、ちょっとだけお出かけする。だからアリアは、この岩陰で、"絶対"動いちゃダメだ。いいかい? お兄ちゃんが帰ってくるまで、絶対に動かないこと」
アリアは、熱に朦朧としながらも、兄の異常な剣幕に気づいた。
「え? お兄ちゃん、どこいくの? アリアも一緒がいい」
「ダメだ。これは、二人で約束した、最後の遠足なんだ。お兄ちゃんの言うこと、聞いてくれるか?」
アリアは、涙を浮かべながら、小さく頷いた。
「……うん。やくそく。お兄ちゃんの言うこと、聞くよ」
カイは、アリアに背を向けた。背中から、アリアがしがみつくような視線を感じた。
(ごめん、アリア。もう、お兄ちゃんは帰れない)
彼は、岩棚から身を躍らせ、執行者が登ってくる斜面の、少し離れた岩陰へと駆け出した。
右腕の傷が激しく痛み、一歩踏み出すごとに全身が軋む。
「おい、こっちだぞ! 魔族!」
彼は、執行者に向かって、声を張り上げた。
その言葉に、執行者は動きを止めた。
〈キィィィィ……〉
巨大な頭部が、ゆっくりとカイの方向に向く。
執行者は、山脈の凍結地帯で、カイという"獲物"を視界に捉えた。
そして、その巨体をねじるようにして、彼に向かってゆっくりと、だが確実に、歩を進め始めた。
(成功だ。これで、アリアは気づかれない)
カイは、アリアの無事を確認できたことに、胸の奥で静かな安堵を覚えた。
彼の目の前には、巨大な黒装甲の執行者が、故郷を滅ぼしゼフ隊長を殺した死神が、雲に覆われた聳える峰を背景に立ちはだかっていた。




