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第二章:隠遁者、嘆きの峡谷と集落の運命

1. 荒野の端の隠遁者


『鉄の檻』を出て最初の日没、カイとアリアは荒野の縁を歩いていた。

 陽の光は届かず焼けることもない厚い雲から冷たい小雨が降り続く中、岩の間にしがみつくようにして建っている、簡素な小屋を見つけた。

 カイは警戒しながらノックするが、応答はない。

 それでも、凍えきったアリアを抱きしめるには限界だった。


 意を決して中に入ると、火鉢の残り火が、一人の老人の姿を薄暗く照らしていた。

「おや、珍しい客じゃ。こんな雨の夜に、しかも子供連れとは」

 老人は、この辺境の荒野に隠遁しているらしい。警戒するカイをよそに、老人は淡々と火鉢を掻き回し、カイとアリアに簡素な干し肉と湯を差し出した。


「どうした。食わんのか」

(毒かもしれない……いや、この男からは、魔族のような憎悪や苦痛の気配はしない)


 カイは迷った末、干し肉を小さく千切り、まずは一つ自分の口に入れる。

(やはり、問題なさそうだ)

 カイは毒見を済ませると、ひとつアリアの口元に運んだ。アリアは、兄の顔を見て、安心したように小さく噛み砕く。カイはその様子を見ながら、今度は老人に出された湯を一口に含むと、すぐに安心したような表情で喉を潤した。

 カイが一夜の宿を借りることを懇願すると、老人は構わぬと頷いた。彼の目は、この鉛色の世界から目を背けていないが、どこか諦観と優しさが混ざっている。

 老人は、カイが集落から逃げてきたことを察したようだった。そして、カイが望む"青い空の見える場所"について、静かに語り始めた。

「『エリュシオンの揺り籠』はな、山脈にある」

(やはり、商人たちの噂は本当だったのか……)


「あれはただの噂ではない。この地の歴史にとても詳しい者ならば、それなりに知っておるじゃろう。しかし、誰も行こうとはすまい」

 老人は、手のひらで円を描く仕草をした。

「聖域は、山脈の、雲よりも高い場所にある巨大な"石の門ゲート"の向こう側じゃ。門をくぐることで、結界の向こう、青い空が広がる『揺り籠』へ行ける」

 カイは、その言葉を聞いて、背筋が震えるのを感じた。

「門……」

 カイの口から思わず声が漏れる。

(そこに行けば、きっとアリアを幸せにできる)

 過酷な荒野を抜けた先に、目指すべき明確な目標が示されたと言って良かった。

「しかし、あの山脈を登るだけで、最低でも数日はかかる」

 老人は、火鉢の近くにある丸い石を興味深げに観察するアリアを見つめた。老人から妹の視線へと追ったカイは、それが結界石だと気づいた。

「そして、凍結地帯に入るのは……自ら死を選ぶようなものじゃ」

「それでも、僕は行きます」

 カイは、アリアをしっかりと抱きしめ、老人に頭を下げた。老人は、何も言わず、ただ静かに火鉢を見つめている。彼の瞳には、絶望を知り尽くした者だけが持つ、微かな光が宿っていた。


 朝、夜が明ける前に、カイはアリアの手を引き、老人に別れを告げた。彼が手渡してくれた、わずかな水と硬いパンを、カイはそっと袋にしまった。

 カイは、鉛色の空の下、雪山へと続く荒野の先をまっすぐ見据えた。

(あの山脈だ。あそこを越えれば、アリアは救われる。僕の命がどうなろうと、必ず)



2. 届かぬ思い


 カイがアリアを連れて集落を出て、二日目の昼。

『鉄の檻』の裏門近くの物資倉庫で、グレンとロットは、休憩がてら雑談をしていた。

「あいつ、またサボりかよ。二日連続で来ないって、舐めてんのか」

 グレンが、持っていた乾パンを苛立たしげに齧る。

「まあまあ、グレン。どうせいつものように、裏の排水溝の影にでも縮こまってんだろ。それか、妹と遊んでるか、どっちかだ」

 ロットは、薄汚れた壁にもたれかかり、嘲笑する。この閉鎖的な村において、カイの臆病さと弱さは、彼らの数少ないガス抜きだった。

「チッ。臆病なクズ野郎の分まで、俺らが魔族の相手をする羽目になるたぁ、やってられねえぜ」


「何をサボっている、貴様ら!」

 地響きのような声が、倉庫の中に響き渡った。ゼフ隊長だ。彼の顔は、この数日間の魔族の襲撃の激化で、苛立ちと疲労の色が濃くなっていた。

「す、すみません、隊長!」

 二人は慌てて立ち上がり、敬礼する。

「貴様ら、カイの姿を見たか?」

 ゼフの問いに、二人は顔を見合わせる。

「いえ、昨日から来ていません。多分、どこかに隠れているかと」グレンが答える。

 ゼフは鋭い眼光で二人を睨みつけ、それ以上何も言わずに倉庫を後にした。


(隠れているだと? あの臆病者が、こんな状況で二日も任務を放棄するはずがない)

 ゼフは足早に、カイの住んでいた粗末な家へと向かった。ノックもせず、力を込めて扉を押し開ける。

 中には誰もいなかった。

 部屋は、人が急いで出ていったような気配はない。粗末な木製のベッド、古びたテーブル。その隅に、丁寧に畳まれた一着の軍服が置かれていた。階級を示す記章が、薄暗い部屋の中で微かに光っている。

(馬鹿な……)

 ゼフは、その軍服を掴み上げ、胸の記章を強く握りしめた。

「貴様……本当に、逃げたのか、カイ」

 それは、彼の臆病さから生まれた"脱出"という名の裏切りだった。この村の誰もが、この窮地で逃げ出すことを許さないだろう。兵士にとって、それは最も卑劣な行為だ。

 しかし、ゼフの脳裏に浮かんだのは、いつも不安げにうつむいていたカイの顔ではなく、彼が抱きしめていた、三つ編みの幼い少女、妹アリアの姿だった。

(この場所は、もう持たない。私の直感がそう告げている)

 ゼフは、カイの軍服を、そっと元の場所に置いた。



3. 嘆きの峡谷


『鉄の檻』を抜け出してから、三日と二晩が経った。


 袋を背負ったカイと人形を手にしたアリアは、荒野を抜け、遠く離れた谷間を歩いていた。ここは通称『嘆きの峡谷』と呼ばれる、かつての古代の防衛線だった場所だ。両側を切り立った岩壁に挟まれ、底は人の背丈ほどもある雑草と、苔むした岩で覆われていた。

 村を出てから、鉛色の空は一度も変わらない。冷たい雨が間断なく降り注ぎ、すべてを重く湿らせている。

「お兄ちゃん、疲れた?」

 アリアが、小さな体を寄せながら上目遣いで尋ねる。三つ編みの少女は、兄が作った手縫いの人形『ユキ』を胸に抱きしめている。

(僕は大丈夫だ。アリアがこんなに頑張っているのに、僕が弱音を吐くわけにはいかない)

 カイはそう思うが、体は正直だった。食料は残り少ない。雨と湿気で体温は奪われ、睡眠もまともにとれていない。何より、常に魔族に怯えている。

(このまま進むしかない。青い空の見える場所へ……)

 〈カチッ……〉


 峡谷の岩壁の上から、乾いた石のぶつかる音が響いた。

 カイが顔を上げた瞬間、全身が総毛だった。

 黒い。全てが黒い。

 岩壁の影、霧、そして小雨の向こうから、十数体の魔族が現れた。『シャドウワーカー』だ。

(ダメだ、動けない。全身が、凍りついたみたいに……!)

 恐怖と、奴らが与えるであろう"苦痛"の感情の奔流に、カイの体が石のように固まる。

『シャドウワーカー』の一体が、鋭い爪を剥き出しにして、アリア目掛けて飛びかかった。

「お兄ちゃん……」

 アリアは恐怖に声を上げることもできず、兄を見上げる。人形の『ユキ』が、雨に濡れながらも、小さな手で強く抱きしめられる。

(妹が、泣きそうになっている! このままでは、アリアが……)

 その瞬間、カイの心の中で、何かが弾け飛んだ。戦いへの恐怖、相手の苦痛、それら全てを、妹の"生命"を守りたいという、純粋で絶対的な感情が、一瞬にして凌駕した。

「ああああああああああああ!」

 彼は絶叫した。

感情移入型防御エモーショナル・シールド』の発動。

 全身の皮膚が、雨粒を弾き、黒く変色し始める。それは、硬質な角質のような、分厚い装甲だった。

 ゴツッ。鈍い音が響き、飛びかかってきた魔族の爪は装甲に阻まれる。

(ぐ、あああっ! 全身が、内側から砕かれるみたいだ!)

「アリア! 走れ! 俺から離れるな!」

 彼は絶叫しながら、アリアを脇に抱え、狂ったように峡谷を走り抜けた。

 腕の激痛に耐えながら、カイは抱きつくアリアを抱きしめ返した。彼の全身は、泥と血と雨で濡れていたが、彼の瞳には、まだ消えていない青い空への希望が宿っていた。



4. 地獄の鐘


 元々弱かった集落の古代結界の力が、突如として消え入るように弱まった。

 ゼフの怒号が、要塞中に響き渡る。魔族の大規模な夜間奇襲だった。

 要塞の壁を乗り越え、無数の下級魔族が侵入する。

 防衛隊員たちが、必死に銃器と魔術で応戦する。

 ゼフは、自ら最前線に立ち、分厚いコートを翻しながら、冷静に指示を飛ばす。

「グレン、ロット! お前たちは後方の防御を固めろ! 奴らを中枢部に入れるな!」

 怒鳴られたグレンとロットは、戦場を逃げ回っていた時のカイとは違う、立派な兵士の顔をしていた。

「いくぞ、ロット! あの腰抜け野郎が逃げた分まで、俺たちが守り抜くんだ!」

「おうよ、グレン!」

 彼らは必死に銃を撃ち、下級魔族を薙ぎ払う。戦況は絶望的だったが、兵士たちは互いに命を預け、必死に食いしばっていた。

 〈ドォン!〉


 要塞の東壁が、地響きとともに崩壊した。

 そこに立っていたのは、巨大な黒い装甲を身に纏った魔族。『断罪の執行者エグゼキューター』だ。

 それは、砦の陥落を確実にするためだけに送り込まれる、規格外の強敵だった。

「執行者か……!」

 ゼフは愕然としながらも、部下を庇うように一歩前に出る。彼は最後の魔力弾を執行者に放つが、その防御を破るには至らない。

 執行者は、ゼフを一瞥すると、何の感情もない動きで、巨大な片腕をゆっくりと振り下ろした。

 〈バリッ、メキッ〉

 ゼフの体が、とある瓦礫の山に叩きつけられる。そこはカイの家のあった場所だ。うつ伏せに倒れていたゼフの眼の前には、記章のついたカイの軍服が瓦礫に埋もれ、挟まっていた。

 セフの肉体は限界を超えていたが、意識はまだ残っていた。

(……カイ。貴様は臆病者だが、アリアという守るべきものがある。ならば、お前の役割は、ここで死ぬことではない。生きろ。貴様の臆病さが、今、生への最大の武器だ。 生きて、逃げ切れ!)

 その時、ゼフの"生への根源的な渇望"と"託すという強い決意"が、極限の感情の波となり、要塞の外へ向かって発せられた。それは、"カイの能力"が感知できるほどの、強力な魂の叫びだった。


 執行者は、ゼフの体を粉砕した後、集落の崩壊を確認した。その時、執行者の無機質なセンサーが、崩壊した結界のわずかな痕跡と、そこから逃亡した特定の個体が持つ特殊能力の微かな匂いを感知した。

 執行者の内部で、新たな"職務ターゲット"が設定される。

 "追跡、そして抹殺"。


 炎上する要塞に背を向け、断罪の執行者は、カイとアリアが向かった山脈の方向へと、ゆっくりとその巨体を向けた。



5. 山脈への前進


 嘆きの峡谷を抜けたカイとアリアは、山脈への最初の峠道を登っていた。

 雨は止んでいたが、空は相変わらず鉛色だ。

 カイは、裂傷を負った右腕を布で強く縛り、アリアを背負っていた。

「お兄ちゃん、痛くない?」

 アリアは、兄の背中にしがみつき、小さな声で尋ねる。

(痛い。正直、激しい痛みで体が割れそうだ。だが、この痛みは、妹が生きている証なんだ)

 カイは、魔族の苦痛ではない、自らの"防御の代償"として負った傷の痛みを、静かに受け入れていた。

「大丈夫だよ、アリア。もうすぐだ。もうすぐ、青い空の見える場所に、着くからね」


 その時、『鉄の檻』の方向から、全身を焼き尽くすような、激しい感情の波が流れ込んできた。

 それは、多くの人々の激しい苦痛の波だったが、その奥には、彼に強く"生きろ"と命じる、厳格で強い魂の叫びが混ざっていた。

(この感情は……まさか、ゼフ隊長!?)

 カイは、故郷で何が起こったのかを知る由もない。だが、その波が、ゼフ隊長の"最後の意思"であることだけは、彼の能力が明確に伝えてきた。

「隊長……」

 カイの決意は、もはや自分の妹への愛だけでなく、故郷で死んでいった人々の最後の願いによっても支えられていた。

 彼の視線の先には、高くそびえる山脈のシルエットがあった。

 二人の逃避行は、故郷の喪失と、託された希望を背負い、静かに前進を続けていた。

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