第一章:鉄の檻(アイアン・ケージ)の日常と決意
1. 鉄の檻
分厚い鉛色の雲が空を覆い尽くし、冷たい小雨が絶え間なく降り注ぐ。
辺境集落『鉄の檻』は、その名の通り、天然の断崖にしがみつくように築かれた古びた石造りの要塞だった。薄暗い中、湿気が常にまとわりつき、生者は皆、底冷えのする陰鬱な空気に苛まれてゆく。
村の中心には古代の結界石があり、魔族を寄せ付けない結界で守られていたが、魔族の襲撃が日に日にその激しさを増してきていた。
昼間でも薄暗い、集落の裏手の石壁に囲まれた路地。
「おい、カイ。テメェ、また任務から逃げ出したのかよ?」
路地の奥で、カイは荒々しい声に肩を掴まれ、壁に叩きつけられた。
(まただ。いつもそうだ。僕は、なんでこんな場所にいるんだろう)
殴りかかってきたのは、先輩兵士のグレンだった。短気で粗暴な、いじめの主犯格。その背後には、取り巻きのロットが口元を歪ませて立っている。彼らの顔には、この閉鎖的な集落のストレスと死の恐怖が張り付いている。彼らは、戦うのが怖い自分たちよりもさらに弱いカイを叩くことで、一瞬の優越感に浸りたがっているのだ。
「お、おい……やめ、やめてくれ、グレン」
カイはか細い声で懇願したが、それは燃料にしかならない。16歳のカイは、華奢で幼い顔立ちをしており、常に視線を合わせるのを嫌がり、うつむきがちだ。その姿は、自信のなさが全身から滲み出ているようで、彼らの格好の餌食だった。
「やめろだと? 聞こえねぇな、この腰抜けが! 斥候補助ごときでビビり散らして、どの面下げて帰ってきた?」
グレンが顔を近づけ、唾を飛ばす。ロットがカイの背中を蹴りつける。
(痛い。体の痛みよりも、この憎悪と、グレンの心の奥底にある怯えが、まるで自分のもののように流れ込んでくる……)
カイには、人であろうと魔族であろうと、相手の"苦痛"を異常なほど強く感じ取ってしまう体質があった。戦闘を極度に嫌悪するのはそのためだ。相手を傷つけるどころか、戦うこと自体が全身をねじ切られるような激しい苦痛を伴う。
グレンの拳が、カイの腹を鈍く抉る。
「う、あ……」
カイが路地の石畳に膝をついた、その時だった。
「そこまでにしろ」
低く、厳格な声が響き渡った。
防衛隊隊長のゼフだった。28歳のゼフは、立派な兵士であり悪い人ではなかった。しかし、この過酷な世界では自他共に厳しくある必要があった。
グレンとロットは、たちまち顔色を変え、慌てて敬礼の体勢を取った。
「ゼフ隊長! いえ、これはその……」
「言い訳は聞かん。いじめをやめろとは言わんが、職務中に私闘に及ぶとは何事だ。今日の訓練は通常の二倍、罰として追加する」
ゼフは一喝すると、すぐに視線を膝をつくカイに移した。その目には、いじめの主犯格に向けた時よりも、厳しい光が宿っていた。
「そして、カイ」
「……はい」
カイは震える声で答える。
「貴様はいつまでそのザマだ。兵士としての職務を果たせない者が、この村で生き残れると思うな。斥候の補助すらまともにこなせないのなら、貴様は我々の食料を無駄に食い潰すだけの、ただのお荷物だ。明日までに覚悟を決めろ。さもなくば、村から追放だ」
ゼフの言葉は容赦なく、カイの胸に突き刺さる。
(分かっている。ゼフ隊長に悪意はない。隊長は、僕を兵士にしようと厳しく指導してくれているだけだ。だが、僕には……僕には戦えない)
ゼフは二人に背を向け、去っていく。
グレンとロットは、ゼフの姿が見えなくなると、カイを一瞥し、憎悪のこもった視線を浴びせてから、足早に立ち去った。
2. アリア
傷ついた体を隠しながら、カイは路地裏を抜けて、集落の中心部へ向かった。店に買い出しの用事があった。
通り過ぎようとした路地裏の片隅、薄暗い物資置き場の影で、二人の商人がひそひそ話をしているのが耳に入った。
「……ったく、こんな村にいつまでもいたら、いつ魔族に食い殺されるかわかったもんじゃねぇ」
「ああまったくだ。そう言えば、最近、古代の結界の力がどんどん弱まってるって話だぞ。聞いたところでは、そう長くは保たないらしい。どこかに安全な場所はないものか……」
カイの足が止まった。
(やはり危ないのか……ここは)
「そいつぁ、やべぇな。早く逃げねぇと……。ある旅人から聞いた話じゃ、なんでも山脈の向こう側に安全な所があるらしいぜ。『エリュシオンの揺り籠』っていうらしい。古代の箱舟だって噂だ」
「ほう、聖域か。だが、そんな秘境、こんな中どうやってたどり着くんだね。なんでも、空間を移動できる魔族もいるという噂だし、そんなのに目をつけられたら、ひとたまりもないぞ」
「まったくだ」
商人はお手上げという様子で肩をすくめた。
「けどよ、その聖域の空は、それはそれは"青く晴れやか"らしいぜ……こんな鉛色の空とは大違いでな」
(青い空……)
それは、この『鉄の檻』では誰も見たことのない伝説のような光景で、カイはその様子を想像するしか無かったが、滅多に入れない村長の屋敷に飾ってあった古の風景画から想像することはできた。
店で買い出しを済ませ、家に帰ると妹のアリアが駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
6歳のアリアは、貧しい生活の中では珍しく、明るい栗色の髪を三つ編みのおさげにし、大きな瞳は常に曇りがなく純粋だ。
アリアは、兄が暴行された傷に気づくと、すぐに薬箱を取り出した。
「大したことないよ、アリア。ちょっと転んだだけだ」
カイが嘘をつくと、アリアは小さく首を傾げる。
「お兄ちゃん、いつも嘘が下手くそ……」
彼女にとって、カイは世界の全てであり、唯一の家族だった。そして、それはカイにとっても。
(アリアの笑顔だけが、この地獄で生きる意味を与えてくれる)
明るい茶色のおさげ髪を揺らしながら、アリアは手慣れた様子でカイの傷口に薬草を貼り、古びた包帯を巻いていく。その小さな手が自分の唯一の光だと思った。
その時、ふと、アリアが『ユキ』と名付けた手縫いの人形を、ぎゅっと抱きしめているのに気づいた。それは、カイが廃材の布と羊毛で、何日もかけて作ってやった人形だった。
「お兄ちゃん、もう戦わないで。アリアは、お兄ちゃんが傷つくの見たくない……」
アリアの懇願は、カイの胸を締め付けた。
(ああ、僕だって闘いたくはない。これ以上、アリアを不幸にする訳にはいかない。しかし……)
しかし、『鉄の檻』で職務を果たせない者は生き残れない。
商人たちの言っていた結界のことが、ふと脳裏をよぎる。
(僕は、この場所で、このまま妹を守り続けることができるのか……)
翌日。
いつものようにグレンらに虐められ、心身共に深く傷つきながら、カイはいつものように家路を急いでいた。
その時、要塞の広場隅で、小さな光景が彼の足を止めさせた。
アリアとよく似た年齢の小さな女の子が、小雨の降るこの鉛色の空の下、民家の軒下で無心になって石ころ遊びをしている。
と、次の瞬間、その少女が遊んでいた石につまずき、顔を歪めて泣き出した。すぐに近くで見守っていた母親が駆け寄り、優しく抱きしめ、集落の暗闇の中に消えていく。
カイは、その光景をただ見つめていた。何かを思い詰めたように。
家に帰ると、アリアがまた健気に自分を手当てしようとしていた。
彼女の瞳が、ふと抱きしめた『ユキ』人形の、小さなビーズの目に重なる。
(妹を、商人たちが噂していた"青空の聖域"へ連れて行こう。この世界から遠く離れた、安全な場所へ……。僕が見守ることのできる場所へ……)
その瞬間、カイの胸に初めて戦いへの恐怖を凌駕する強い決意が熱く宿った。
3. 脱出
次の日の夜、深い闇と結界の古びた石壁に滴る小さな雨音だけが響く中、カイはアリアを起こした。
「アリア、静かに。ちょっとだけ、お兄ちゃんと遠足に行こう」
「えんそく?」
眠そうなアリアは状況を理解できていないが、大好きな兄の言うことだから、と素直に頷いた。彼女の手には、いつものように『ユキ』人形が固く握られている。
カイは、集落の裏側にある、古代の"薄い結界"が張られているだけの岩盤の継ぎ目に目をつけていた。
(ここなら、小規模な魔族の侵入は防げても、僕たちの通過は検知されないはずだ……)
二人は身をかがめ、音を立てないように慎重に、岩の隙間をすり抜けた。
砦の外は、空を覆う分厚い雲と冷たい小雨の霧に全てが灰色に染まっていた。
どこまでも荒れ果てた土地が広がる。
食料や備品の入った袋を背負ったカイは、アリアの小さな手を強く握り、前を見た。
「行こう、アリア……」
彼は、聖域『エリュシオンの揺り籠』がある、遠い山脈の方向を指し示した。
二人の孤独な逃避行が始まった。




