最初で最後の勇気
診察台の上に仰向けにされて、脚は静かに固定された。
天井の白い光が、ぼんやりと目の奥に差し込んでくる。
5つ年上の姉が隣にいて、わたしの手を握ってくれていた。
「麻酔をします。ゆっくり数えてくださいね」と女医が言った。
「……1、2、3、4……」
次に目を覚ましたとき、そこはもうベッドの上だった。
姉が椅子に座って、ずっとわたしの顔を見ていた。
「ふらつきがなければ帰っていいそう。でも、もう少し休もう」
その声は、とてもやさしかった。
しばらくの沈黙のあと、姉がゆっくり口を開いた。
「あいつとは、どうするの?」
わたしは天井を見つめたまま、少しだけ間を置いてから言った。
「話をする。ちゃんと……でも、それだけじゃなくて、
どうしても、しなきゃいけないことがあるの」
そのあと数日は、ほとんど布団の中にいた。
夕方、8時をまわったころ、母が部屋にやってきた。
「電話、来てるよ」
受話器を取った瞬間だった。
「なんで何回もかけたのに出ねぇんだよ!」
怒鳴り声が鼓膜に突き刺さった。
わたしは、具合が悪かったとだけ伝え、会社帰りにいつもの店で会おうと約束した。
そして2日後。
完全ではない体を抱えながら、その店の扉をくぐった。
彼はすでに酒を飲んでいた。
わたしが席につくと、間もなく言った。
「今日は、うちに泊まってけよ」
「……ごめん。おろしたあと、生理が来てて……体調もあんまり良くなくて……今日は帰る」
その瞬間、彼の声が少し荒くなった。
「生理なら、もうできねぇんだからいいだろ」
わたしはアイスティーをひと口だけ飲み、
グラスを置いてから、静かに言った。
「……お坊さんに……お経をあげてもらいたいの。
赤ちゃんのために、ちゃんと……供養をしたいの」
彼はしばらく黙ってから、「……探しとく」とだけ言った。
数日後、彼が段取りをつけてくれて、わたしたちは寺に向かった。
お布施について聞く彼に、お坊さんは「気持ちで」とだけ返した。
個室でお茶をいただいたあと、本堂に入る。
木魚の音が、空気の底から響いた。
読経がはじまると、わたしは涙が止まらなくなっていた。
声をあげて泣いてしまった。
隣を見ると、彼は――
……口元に手をあて、笑っていた。
彼にうちに送ってくれるように頼んだ。
部屋にはいってから、わたしは静かに話しはじめた。
「……別れよう」
「は?」
「……あなたが……怖いの」
「なんだよそれ、他に男でもできたのか?」
「そんなの……あるわけない」
「じゃあなんでだよ」
「お願い……もう、これ以上は無理なの。別れてください」
「ふざけんな。今からうち来いよ」
「……」
そのあとは何を言っても通じなかった。
言葉ではもう、触れられない場所に来てしまっていた。
体が震えていた。小刻みに震えたあと、呼吸が苦しくなった。
「はぁ……あぁ……息が……吸えない……」
彼がしたにいる母を呼びに行き
階下の母が駆け上がってきて、背中をさすってくれた。
「ゆっくり、ゆっくり息を吸って……落ち着いて、大丈夫だから」
少しずつ呼吸が戻り、わたしはようやく声を出した。
「もう……帰って」
母の前で、はっきりとそう言った。
母は何かを察していたのだろう。
「……今日は休ませてあげて。気をつけて帰ってね」
それが、すべての終わりだった。
言葉は小さかったけれど、
わたしの覚悟だった。