逃走1日目
朝、まだ空がうす暗い5時ごろ。
あやが目を覚まし、「いびきかいてなかった?」と小さく尋ねてきた。
俺はというと、追加の眠剤は使わず、眠れないままAmazonの動画を流して朝を待っていた。
そっと水を注いで渡し、「目が覚めたらシャワーでも浴びな」とだけ言った。
本当は、聞きたくてたまらなかった。
——なにがあって、ここに来たんだ?
でも、その問いを飲み込んで、何気ないふりをした。
すると、あやがぽつり、ぽつりと語り出した。
「彼にね、『結婚するぞ』って言われて。『俺の子を産んで家に入れ』って。でも私は、そうだね、でももう少しだけ働きたいって言ったの。そしたら…機嫌が悪くなって、背中をずっと蹴ってきて……」
一拍おいて、「……実は、もう無理かもしれないって思ってた」と続けた。
「この人のDVには、もう耐えられないって。お店も辞めて、どこか遠くへ逃げようって、ずっと考えてたの」
まるで夜逃げ屋本舗じゃんか、と俺が冗談っぽく言うと、
あやはふっと微笑んで「夜逃げ屋本舗・祐支店を利用しました」と、小さな冗談を返してくれた。
その時の笑顔は、底が知れないけれど不思議に惹かれる、あやらしい笑顔だった。
「昔さ、眼帯して店に立ってたな……」と、俺が思い出すように言うと、
あやも笑って「山岡家、行けなかったね」と、ぽつりこぼした。
「準備できたら行こうか」
「服も靴もないよ」
「俺のサンダルがある。でかいけど、ナイキのスエットとダウン羽織ってけばいい」
あやが「足、汚いから洗ってくるね」と言ったとき、俺はあやのために手ぬぐいで温かいおしぼりを即席で作った。
甲から指の間、足の裏まで、そっと拭いていくと、あやは最初こそ照れくさそうにしていたけれど、やがて「ありがとう」と、恥ずかしそうに微笑んだ。
拭き終えた頃、あやはスエットの背をまくり、「どう?……ひどい?」と聞いてきた。
背中一面が、どす黒く変色した大きな痣で覆われていた。
それだけではない。左の脇腹にも、右の腰にも、痛々しい痣がいくつも広がっていた。
俺は何も言えず、あやの隣に腰を下ろし、髪をなでた。
するとあやが、小さな声で言った。
「……いきなり受け止めてとか、そういうのは言わない。ただ……少しだけ、近くに祐がいてくれたらって」
その言葉は、かつて俺が口にしたものだった。
さっきまでの感情とは違う、もっと深い場所で、あやの存在がいとおしくなっていた。
自然と、互いの距離は縮まっていった。
「祐の匂い、好き。……香水?」
「いや、安物のコロンだよ」
ベッドに移ると、あやの服をゆっくりと脱がせた。
顔だけを残して、全身が痣だらけだった。
たぶん、俺が一瞬たじろいだのが伝わったのだろう。
あやは、さっと毛布で体を隠してしまった。
でも、そんな一瞬の躊躇も忘れるくらいに、俺たちは、ただ互いの存在を確かめ合うように、言葉もなく長く口づけを交わしていた。