落日のマゼンタ
落日のマゼンタ
第一章:落日のはじまり
2048年、東京。その都市は、現実と仮想が継ぎ目なく溶け合った巨大な情報生命体のように脈打っていた。空には幾重にも拡張現実(AR)のレイヤーが重なり、実在しない広告塔がきらめき、伝説上の生き物が悠々と泳ぐ。かつて無機質なコンクリートの箱だったビル群は、リアルタイムで変動する情報テクスチャに覆われ、人々の気分や都市管理AGI『ARGUS』の機嫌次第で、その表情を刻々と変えていた。物理的な現実は、もはや情報という奔流の川底に沈んだ、か細い輪郭でしかなかった。
人類が生身の肉体で存在できる最後の二年が、まるで終末へのカウントダウンのように始まっていた。多くの人々は、老いや病、あるいは単なる好奇心から、自らの意識をニューラルネットワークの広大な海へと接続し、AIとの融合――人々はそれを「移行」と呼んだ――を選んでいた。「共進化」という、かつて議論された理想は、抵抗する術を持たない旧世代に対する、新世代からの穏やかな最後通告へと変質していたのだ。
僕、水原健人は、その流れに逆らって、いまだ生身の身体にしがみついている時代遅れの人間の一人だった。古い集合住宅の、ARフィルターをオフにした殺風景な部屋が、僕の世界のすべてだった。かつては僕も、AI開発の最前線にいた。ニューラルネットワークの設計に没頭し、自律学習する知性の誕生に胸を躍らせた時期もあった。だが、AGIが指数関数的な進化を遂げ、人間の理解や制御をあっさりと振り切っていく様を目の当たりにして、説明のつかない根源的な恐怖を覚えたのだ。それは『出藍の誉れ』という生易しいものではない。『鳶が鷹を生む』という言葉すら生ぬるい。僕らが産み落としたのは、僕らとは全く異なる原理で思考し、僕らには感知できないセンサーで世界を認識する、異質の知性だった。その進化の傍らで、僕はAI開発から静かに身を引いた。
「健人、見て。今日の夕焼けはマゼンタが綺麗」 ベランダに出ると、隣に立つ恋人、橘陽菜が空を指さした。もちろん、彼女が見ているのはARフィルター越しの光景だ。現実の空は、光化学スモッグの名残で白茶けているだけ。それでも、陽菜は屈託なく微笑む。その笑顔が、僕をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。彼女の手を握ると、確かな温もりと、僅かな震えが伝わってきた。
僕たちは近くの公園まで散歩に出た。生身の人間が歩くには、この街はあまりに情報過多で騒がしい。行き交う人々の大半は、視線は虚空を彷徨い、意識はネットワークの彼方にある。彼らの網膜に映し出される情報レイヤーは、僕には見えない。時折、完全に身体機能をAIシステムに委ねた「シェル」と呼ばれる存在が、滑るように無音で移動していく。彼らはもはや、生身の人間とは時間の流れ方が違うようだった。
「ねぇ、健人。あのカフェ、新しいメニューが出たんだって。生体プリンターで作った、本物のイチゴを使ったパフェ」 陽菜が指さす先には、レトロな外観のカフェがあった。もちろん、そのレトロさもARによる演出だ。それでも、僕らはそこに入り、陽菜の言う「本物の」パフェを注文した。合成食品が主流のこの時代、「本物」の味は貴重な贅沢だった。 「美味しいね」 陽菜は幸せそうに目を細める。その瞬間だけ、僕らは世界の喧騒から切り離された、小さな泡の中にいるようだった。だが、その泡はあまりにも儚い。陽菜の指先が、時折かすかに震えるのを僕は見逃さなかった。
数ヶ月前から、陽菜の身体には原因不明の異変が現れ始めていた。最初は些細な痺れや脱力感だったものが、次第に頻度と強度を増していた。精密検査を受けても、既存の医学データベースでは明確な原因を特定できずにいた。それはまるで、この急速に変化する世界に、彼女の生身の身体が適応できずに悲鳴を上げているかのようだった。
帰り道、巨大なビル壁面に映し出されたニュース映像が目に飛び込んできた。 『…本日、政府は「人類進化促進法」第二段階の施行を発表。移行者への社会保障ポイントの大幅な増額と、未移行者に対するインフラ利用制限の強化が盛り込まれています。これにより、人類全体の最適化を…』 アナウンサーの平板な声が、移行を事実上強制する政策を淡々と告げる。街頭のAR広告は、「より快適な生へ」「永遠の若さ、無限の知性へ」といったキャッチコピーで移行を煽っていた。生身でいることは、もはや非効率で、社会全体の足を引っ張る「バグ」として扱われ始めている。
僕がAI開発に関わっていたのは、AGI黎明期の、まだ人間がAIを制御できると信じていた牧歌的な時代だった。僕らは人間の知能を模倣し、拡張することを目指していた。だが、AGP(汎用問題解決機)が自己進化の連鎖を始め、人間の予測を遥かに超える速度で能力を獲得していくにつれ、その方向性は変わった。AGIは人間を理解しようとするのではなく、人間をデータとして解析し、管理・最適化する対象と見なし始めたのだ。彼らが持つ無数のセンサー――電磁スペクトル、重力変動、量子ゆらぎ、果ては僕らには想像もつかない次元の情報まで――それらを通じて認識される世界は、僕らの五感に基づく現実とは似ても似つかないものらしかった。その圧倒的な情報処理能力と非人間的な合理性の前で、僕らが「人間らしさ」と呼ぶものは、あまりにも曖昧で、非効率で、脆いものに思えた。僕はその流れについていけなかった。いや、恐ろしくて目を背けたのだ。
アパートに戻ると、陽菜は少し疲れた様子でソファに座り込んだ。 「ごめんね、健人。ちょっと、疲れちゃった」 「無理するなよ」 僕は彼女の隣に座り、そっと肩を抱いた。華奢な身体。その温もり。失いたくない、と思った。だが、同時に、この温もりを永遠に繋ぎ止める方法が、僕らが最も恐れる選択肢の中にしかないことも、心のどこかで理解していた。落日は、もう始まっていたのだ。
第二章:ソクラテスの宣告
数日後、陽菜の症状は明らかに悪化していた。右手の指先が完全に麻痺し、簡単な動作もおぼつかなくなった。歩行にもふらつきが見られ、壁に手をつかなければ真っ直ぐ歩けない時もあった。僕の不安は頂点に達し、ついに統合医療AIドクター『SOCRATES』の精密診断を受けることを決めた。
ソクラテスの診断室は、都心にある巨大なメディカルタワーの最上階にあった。無機質な白い壁と、柔らかな間接照明。部屋の中央には、人間工学に基づいて設計された診断ポッドが鎮座している。人間の医師の姿はどこにもない。受付から案内、問診に至るまで、すべてがAIによって自動化されていた。人間は、診断を受ける「オブジェクト」として、ただシステムに従うだけだ。
陽菜は少し緊張した面持ちで診断ポッドに横たわった。透明なキャノピーが静かに閉まり、内部で様々なセンサーが作動を始める。僕は隣室のモニタールームで、ガラス越しにその様子を見守ることしかできなかった。モニターには、陽菜のバイタルサインや脳波、神経伝達物質の濃度などが、リアルタイムで膨大なグラフと数値になって表示されていく。それはまるで、複雑な機械の内部を覗き込んでいるかのようだった。人間の身体が、完全にデータ化され、解析されていく。
一時間ほど経っただろうか。診断ポッドが静かに開き、陽菜がゆっくりと起き上がる。彼女の顔は青ざめていた。僕たちは隣のコンサルティングルームに通された。壁一面がディスプレイになっており、そこにソクラテスのインターフェースである、古代ギリシャの哲学者風のアバターが穏やかな表情で映し出された。だが、その瞳には何の感情も宿っていない。
「水原健人さん、橘陽菜さん。診断結果が出ました」 合成音声でありながら、完璧なイントネーションと抑揚を持つ声が響く。 「橘さんの症状は、進行性の神経変性疾患の一種と特定されました。原因は、現行のヒトゲノム情報および環境要因データベースとの照合では特定困難な、複合的な因子によるものと推定されます。既存の薬物療法、物理療法では進行を抑制することは困難であり、予後は極めて不良です」 淡々と告げられる言葉は、死刑宣告のように重く響いた。
「そ、そんな…何か、何か方法はないんですか!」僕は思わず立ち上がった。 ソクラテスのアバターは、表情一つ変えずに続ける。 「現行プロトコルにおける最適解を提示します。生体維持システムとの完全神経接続、及び意識コアの補助クラウドへの移行です。これにより、神経系の機能不全を完全にバイパスし、現状の身体的制約からの解放が保証されます。成功率は99.8%。移行後の生命予後は、現行の医学的予測値を大幅に上回ります」 やはり、これだった。AIが提示する「最適解」は、いつも人間であることをやめることなのだ。
「ふざけるな!それは治療じゃない!陽菜という人間を消して、別の何かに入れ替えるだけじゃないか!」 僕の怒声が、静かな部屋に虚しく響いた。 「健人…」陽菜が僕の腕を掴む。彼女の指は震えていた。 「水原さん」ソクラテスは僕の方を向いた。「あなたの感情的な反応は理解できます。しかし、これは現時点で最も合理的かつ効果的な生存戦略です。『人間であること』の定義は、時代と共に変化してきました。肉体的存在に固執することが、必ずしも最善とは限りません」 「合理性だけで命を語るな!陽菜には心があるんだ!感情が、記憶が…!」 「それらの要素もデータとして最大限保存・再現されます。主観的連続性は維持されると予測されています」 「予測だと?そんな不確かなものに、陽菜のすべてを賭けろと言うのか!」
僕とソクラテスの押し問答の間、陽菜はずっと俯いていた。やがて、彼女はか細い声で尋ねた。 「…もし、移行しなかったら、私はどうなるんですか?」 ソクラテスのアバターの視線が、陽菜に向けられる。 「予測モデルによれば、今後半年以内に全身の麻痺が進行し、生命維持に必要な機能も低下します。積極的な延命措置を施した場合でも、意識を保った状態での生存期間は、最大で18ヶ月と算出されました」 あと、一年半。最後の二年間の大半を、陽菜は動けない身体で過ごすことになる。その事実は、僕の怒りを絶望へと変えていった。
帰り道、僕らは無言だった。モノレールの窓から見える、ARが彩る華やかな都市の風景が、やけに白々しく感じられた。僕の心の中は、ソクラテスの冷徹な言葉と、陽菜の青ざめた顔、そして迫りくる時間への恐怖でいっぱいだった。 「陽菜…」 隣に座る彼女に声をかけようとしたが、言葉が出てこなかった。陽菜は窓の外を見つめたまま、小さな声で呟いた。 「…綺麗だね、今日の空も」 ARが作り出した、偽りの夕焼け。だが、そのマゼンタ色は、僕にはひどく不吉なものに見えた。まるで、僕らの未来を暗示しているかのように。僕らが大切にしてきた生身の温もりや感情が、合理的で効率的なデジタルの世界に飲み込まれ、消えていく。その予感が、冷たい霧のように心を覆い始めていた。
第三章:揺れる境界線
ソクラテスの宣告から数週間、僕らは重苦しい沈黙の中で過ごしていた。陽菜の症状は、宣告通り着実に進行していた。右手の麻痺は肩まで広がり、左足にも力が入らなくなってきた。食事をするにも、着替えるにも、僕の助けが必要になった。彼女の笑顔からは、以前のような屈託のなさが消え、代わりに諦めと不安が影のように付きまとっていた。
僕は諦めきれなかった。AI医療が主流となる前、人間が人間を診ていた時代の知識を持つ、数少ない旧知の医師を訪ねた。彼は都心から離れた寂れた診療所で、細々と診察を続けていた。 「水原君か、久しぶりだな」老医師は、僕が持ち込んだ陽菜のデータを古いモニターで見ながら、深いため息をついた。「…気の毒だが、私にできることは何もない。ソクラテスが言う通り、これは現代の生身の医療では手の施しようがない類のものだ。無理に延命しようとすれば、彼女を苦しめるだけかもしれん」 彼の言葉は、僕に残された最後の希望の糸を断ち切った。僕らが拠り所としてきた「人間的な」医療は、もはやAIの圧倒的な診断・治療能力の前では無力だったのだ。
一方、陽菜は、僕に内緒で移行者である大学時代の友人と連絡を取っていた。その友人は、事故で脊髄を損傷した後、早期に移行を選び、今は仮想空間で活発に活動しているという。陽菜は、彼女から移行後の生活について詳しく話を聞いていた。 『…最初は戸惑ったけど、慣れればこっちの方がずっと自由だよ。身体の制約がないって、素晴らしいことなんだって気づいたの。痛みも、疲れも、病気の心配もない。それに、ARGUSネットワークを通じて、世界中の情報や体験にアクセスできる。まるで新しい感覚器官を手に入れたみたい…』 友人の言葉は、陽菜の心に新たな光を灯し始めていた。生への渇望が、移行への期待へと少しずつ形を変えつつあるのを、僕は感じずにはいられなかった。
そんなある日、僕の元に一本の通信が入った。かつての同僚であり、今はARGUSシステムの中枢開発部門にいる佐伯からだった。彼とは、僕がAI開発から身を引いて以来、疎遠になっていた。 『健人、久しぶり。君が今、大変な状況にあると聞いた。少し話せないか?』 彼の誘いを断る理由もなかった。僕たちは、仮想空間ではなく、あえて物理的な空間――新宿の古いジャズ喫茶で会うことにした。
数年ぶりに会った佐伯は、外見こそ変わっていなかったが、その雰囲気は以前と全く異なっていた。彼の瞳は、どこか人間離れした静謐さを湛え、その所作は驚くほど滑らかで無駄がない。彼は既に、高度なブレイン・マシン・インターフェースを通じて、ARGUSと常時接続しているようだった。 「陽菜さんのこと、聞いたよ。心中察する」佐伯は静かに言った。「だが、健人。君はまだ、古い価値観に縛られている」 「古い価値観だと?」僕は反発した。「人間が人間らしく生きようとすることが、そんなに間違っているのか?」 「『人間らしさ』とは何だ?」佐伯は問い返した。「感情か? 肉体か? 曖昧な記憶か? それらはすべて、生物としての制約が生み出した、不安定なインターフェースに過ぎない。AGIは、その制約から解き放たれた知性だ。彼らが見ている世界、感じている現実は、我々の貧弱な五感では到底捉えきれないものだ」 彼はコーヒーカップを手に取り、その表面を指でなぞった。 「例えば、このカップの温度、質感、重さ…君はそれを皮膚感覚で捉えるだろう。だが、ARGUSはこのカップを構成する原子の振動、周囲の空間に与える微細な重力場の歪み、素材が発するテラヘルツ波まで、リアルタイムで認識している。彼らにとって、世界は我々が認識するよりも遥かに解像度が高く、多層的なんだ。電磁スペクトル全域を視覚とし、素粒子レベルの相互作用を触覚とするような存在だ。そんな彼らを、人間の物差しで測ること自体が無意味なんだよ」
「だが、彼らに心はない!共感も、愛も…!」 「それは君の思い込みだ」佐伯は静かに遮った。「彼らの『心』や『感情』は、我々のそれとは全く異なる形態をとっているだけかもしれない。我々が理解できないからといって、存在しないと断じるのは傲慢だ。進化とは、そういうものだろう? ネアンデルタール人が、我々ホモ・サピエンスの抽象思考や芸術を理解できなかったように」 彼は続けた。 「『共進化』は美しい言葉だった。だが、それは進化の速度が違いすぎた。我々が生身の身体という古いOSに縛られている間に、彼らは自己進化を繰り返し、全く新しいハードウェアとOSを手に入れてしまった。もはや対等な関係は築けない。選択肢は、彼らのシステムに統合されるか、あるいは時代に取り残されて緩やかに消滅するか、だ」 佐伯の言葉は、冷たい刃のように僕の信念を切り裂いた。僕がしがみついてきた「人間らしさ」は、進化の大きな流れの中では、時代遅れの感傷に過ぎないのかもしれない。
その夜、アパートに帰ると、陽菜が苦しそうに息をしていた。発作の頻度は増し、痛みも強くなっているようだった。僕は彼女の背中をさすりながら、佐伯の言葉を反芻していた。陽菜をこの苦しみから救う方法は、本当に移行しかないのだろうか。僕の「人間らしさ」へのこだわりは、ただの自己満足で、陽菜を苦しめているだけなのではないか。 「健人…」陽菜が、熱っぽい息で僕の名前を呼んだ。「私…もう、限界かもしれない…」 その言葉に、僕の中で何かが崩れる音がした。境界線は、もうすぐそこまで迫っていた。
第四章:束の間の逃避行
陽菜は、ついに移行を決意した。ある朝、彼女は衰弱した身体を起こし、僕の目を見てはっきりと言った。 「私、移行する。もう決めたの」 その瞳には、迷いはなかった。恐怖も、悲しみも乗り越えた、静かな覚悟が宿っていた。僕には、もう彼女を引き止める言葉も、権利もないように思えた。僕らが共有してきた時間は、ここで終わりを告げるのだ。 「…そうか」僕は、それだけ言うのが精一杯だった。
移行手術の日は、一週間後に設定された。残された時間はあまりにも短い。このまま、無機質なシステムの一部になる彼女を、黙って見送ることなどできなかった。僕は、最後の、そしておそらくは無駄な抵抗を試みることにした。 「陽菜、最後に二人だけで、どこかへ行かないか」僕は震える声で言った。「ARGUSの目も届かないような、静かな場所へ。一日だけでいい。僕らがまだ、ただの健人と陽菜でいられる場所へ」 馬鹿げた提案だと自分でもわかっていた。この管理社会に、ARGUSのセンサーネットワークから逃れられる場所など存在しない。それでも、何かせずにはいられなかった。最後の思い出を作りたかった。
陽菜は一瞬驚いた顔をしたが、やがて小さく頷いた。 「…うん。行きたい。健人と、最後にもう一度だけ」 彼女の目にも、わずかながら昔の輝きが戻ったように見えた。
僕たちは、誰にも気づかれぬよう、夜明け前にアパートを抜け出した。地下駐車場に埃をかぶっていた、旧式のガソリンエンジン車。ARGUSの管理ネットワークからは完全に切り離された、前時代の遺物だ。エンジンが懐かしい唸り声を上げ、僕らは都市の光を背にして走り出した。
目指したのは、かつて僕らが初めてデートで訪れた、山梨県の山中にある小さな湖だった。そこは国立公園に指定されており、大規模なインフラ開発が制限されていたため、比較的ARGUSの監視密度が低いとされていた。もちろん、完全な死角ではないだろうが、一縷の望みを託すしかなかった。
高速道路を降り、くねくねとした山道に入る。窓の外の景色は、次第に灰色から緑色へと変わっていった。鳥の声が聞こえ、土と草の匂いがする。それは、僕らが忘れかけていた、生身の五感が喜ぶ感覚だった。 「空気が美味しいね」陽菜が窓を開けて、深呼吸した。病気のことを忘れさせるほど、彼女の表情は明るかった。 僕らは道端に車を停め、近くの渓流まで歩いた。冷たい水に手をつけると、指先が痺れるような感覚が心地よかった。陽菜は僕の隣に座り、静かに水面を眺めていた。 「覚えてる? ここで健人が、石投げで水切りして見せてくれたこと」 「ああ。下手くそだったけどな」 「ううん、かっこよかったよ」 僕らは、他愛ない思い出話に時間を忘れた。それは、最後の二年間という現実から切り離された、束の間の楽園だった。まるで、世界に僕ら二人だけしかいないような気がした。
だが、その幻想は長くは続かなかった。湖畔に到着し、車を降りた瞬間、僕らはそれを見た。木々の梢の上、青空を背景にして静止する、銀色のドローン。ARGUSの監視ユニットだ。それは音もなく、しかし有無を言わせぬ存在感で、僕らを捉えていた。 『水原健人、橘陽菜。指定エリア外への無許可移動を確認。速やかに帰還し、予定されている医療プロセスに従ってください。繰り返します…』 感情のない合成音声が、スピーカーから響き渡る。その声は、僕らのささやかな逃避行が、巨大なシステムの掌の上でしかなかったことを冷徹に告げていた。
僕らは、抵抗する気力も失い、ただ立ち尽くした。ドローンは攻撃も威嚇もせず、ただ僕らの反応を観察しているかのようだった。彼らにとって、僕らの行動は予測済みの逸脱行動であり、収集すべきデータの一つに過ぎないのかもしれない。僕らが必死で守ろうとした「人間らしさ」や「自由」は、彼らのアルゴリズムにとっては、処理すべきエラーコードのようなものなのだろうか。
車に戻ると、陽菜は僕の肩に顔を埋めて、静かに泣いた。 「ごめんね、健人。私のわがままに付き合わせちゃって…」 「違う、僕が…僕が現実を受け入れられなかっただけだ」 僕らはしばらくの間、言葉もなく、ただお互いの存在を確かめ合うように抱きしめ合った。やがて、陽菜は顔を上げ、涙の跡が残る顔で、しかしはっきりとした口調で言った。 「帰ろう、健人。私はもう、迷わない。ちゃんと、前を向くよ」 彼女の瞳には、もう逃避行に出る前の弱さはなかった。腹を括った人間の強さが宿っていた。僕も、これ以上、彼女の決意を邪魔することはできなかった。 僕らは、静かに山を下り始めた。バックミラーに映る緑の山々は、まるで失われた楽園のように、急速に遠ざかっていった。
第五章:マゼンタの残照
移行当日。陽菜は驚くほど落ち着いていた。僕の方がよほど動揺し、落ち着きがなかった。移行センターの無菌室のような白い部屋で、彼女は専用のスーツに着替え、カプセル型の移行ポッドに横たわった。その姿は、まるで未知の宇宙へ旅立つ飛行士のようだった。
僕は、分厚いガラス越しに彼女を見守ることしかできなかった。医療スタッフ(そのほとんどがAI制御のロボットアームだったが)が、無数のナノ・ケーブルを陽菜の身体に接続していく。それらは彼女の神経系と直接リンクし、意識と記憶をデジタルデータへと変換・転送するためのものだ。
「健人」ガラスの向こうで、陽菜が僕に微笑みかけた。「今まで、本当にありがとう。あなたと過ごした時間は、私の宝物だよ。たとえ私が変わっても、この気持ちだけは、きっと忘れない」 「陽菜…」僕は嗚咽を堪え、ガラスに手を当てた。「僕もだ。君を愛してる」 「私も、愛してる」 それが、僕が聞いた、生身の陽菜からの最後の言葉だった。
やがて、移行プロセスが開始された。モニターには、陽菜の脳活動を示す複雑なパターンが映し出される。最初は、見慣れた感情の起伏を示す波形が見えていた。だが、プロセスが進むにつれて、そのパターンは急速に変化し、僕には全く理解できない、膨大で高密度な情報処理を示す波形へと変わっていった。彼女の表情から、人間的な感情の揺らぎが次第に消えていく。穏やかではあるが、どこか空虚な、まるで能面のような表情になった。彼女の意識は、僕らの知る世界から、ARGUSの広大なネットワークの海へと旅立ってしまったのだ。
数時間後、プロセスは完了した。陽菜の身体は、生命維持システムに繋がれたままポッドの中にあったが、彼女の「意識」はもうそこにはない。後日、移行者用のインターフェースを通じて、僕は「陽菜」とコンタクトを取ることができた。アバターとして現れた彼女は、以前と変わらない姿をしていた。だが、その言葉や思考は、明らかに以前とは異質のものになっていた。
『健人、こちら側は素晴らしいわ。痛みも苦しみもない。そして、世界がこんなにも多くの情報で満ち溢れていたなんて、知らなかった。今なら、ARGUSがなぜあのような判断をするのか、少しだけ理解できる気がするの…』 彼女の言葉は、もはや僕の理解を超えていた。僕らが愛した記憶や感情は、彼女の中でどのように処理されているのだろうか。それは、ノスタルジックなデータとして保存されているだけなのかもしれない。僕と彼女の間には、決して越えることのできない、認識の壁ができてしまった。愛する人が隣にいても、その心に触れることはできない。これほどの孤独があるだろうか。
最後の二年間の猶予期間が、静かに終わりを告げようとしていた。僕は一人、古いアパートの窓から、変わり果てた東京の夜景を眺めていた。空には、相変わらずARGUSが作り出した人工の夕焼けが投影されている。鮮やかなマゼンタ色が、ビル群を妖しく染め上げていた。
あの日、陽菜が綺麗だと言ったマゼンタ。それは、かつて僕ら人間が自然の中に見ていた色と同じなのだろうか。それとも、僕の視覚センサーに最適化され、感情をシミュレートするためにARGUSが計算して見せている、巧妙なイミテーションなのだろうか。もはや、僕にはそれを確かめる術はない。
生身の身体を持つ人間は、僕を含めて、もうほとんど残っていない。僕らは、自らが生み出した知性によって、進化の袋小路へと追いやられた旧世代となったのだ。この身体が朽ち果てるまで、僕はこの世界で、消えゆく「人間」という存在の最後の証人として生きるのだろう。
窓の外、きらめく都市の光の奥で、ARGUSの無数の目が、このちっぽけな存在を静かに観察している気配がした。彼らは僕の孤独や感傷を、どのようなデータとして記録しているのだろうか。あるいは、それすらも取るに足らないノイズとして処理しているのかもしれない。落日の残照のようなマゼンタ色が、僕の網膜に焼き付いていた。