もう一度
王城開放日から一年が経過したこの日、リズは王都と外とをつなぐ門の近くにある時計台へと昇っていた。王都内の中でも最も高い建築物だ。屋上からは王城が大きく見える。
「ここから飛んでいけたら楽なのじゃが……」
今年は王城開放日もなく、一般人が王城に立ち入る機会はない。ギルドでも確認したので間違いないだろう。王城に入るためには、貴族位を持ち出入りする人間に同行させてもらうのが手っ取り早い。それ以外では、王城内に職を持つくらいしかない。ギルドで親しくなった受付嬢に興味本位という形で尋ねてみたら、そう答えが返ってきた。
『リズさんくらいの薬師であれば、推薦を受けて入ることだってできると思いますよ』
王城には専属の薬師、医師が存在する。その職を得るためには、推薦人という後見人が必要であり、加えて専門の試験を受けなければならない。ギルドからでもリズを推薦することは可能だと言われたが、そうして入れてもあと一年はかかってしまう。それでは間に合わない。加えて職を得ても就業区が主な生活圏となり、王族が訪れるか否かはその時々によるのだから、手遅れなのは確実だった。
「この空気、感覚、妾がかつて生きていた時代によく似ておる」
空の色は変わらない。空気も同じ。普通の人間ならばそう感じるだろうが、リズは違う。ここに魔力の素が宿っているのがわかる。かつての時代に戻ったと、リズの身体が認識し始めているのだろう。それはつまり、イオリスの刻限が近いことを意味する。
「イオリス……」
この一年で何度突撃しようと思ったことだろうか。王城に行って、誘拐まがいの形でも攫ってやろうと考えたことも一度や二度ではない。その度に、イオリスの言葉がリズをとどまらせた。
『俺の、最期の……わがままだった、から』
最期を迎えるにあたって、一人を選んだ。そこには巻き込みたくはないという想いがあったからだ。死に逝く己の存在を忘れてもいい。王族としての務めを放棄した自分のことなど、非難し憎んでもいいと。
イオリスは己よりも他者を想う人間だ。リズがなりふり構わずに動いたところで、首を縦に振るとは思えない。むしろ死期を悟っても断ってくる。そんな未来が見えてしまった。だから実行に移すことはできなかった。それがイオリスの死を示していても。
「何故じゃろうな。お主と過ごした日は多くない。助けたい、生きてほしいというのは妾のエゴじゃ。なのに……何もできずにいる今が妾は悔しい」
どこかでリズは驕っていた。時間を戻れば、イオリスに会えれば助けられると。
だがその結果はどうか。一度だけ顔を見ることはできたものの、それ以降は接触することさえ敵わず、近くにいるのに遠い存在となってしまった。王城に、ここから見える場所にいるのにその顔さえ見ることができない。リズには何もできない。それをまざまざと見せつけられたようだ。
「ん……この気配……まさか」
そうしていると、イオリスの気配が王城から動いていることに気づく。今まで王城から出てくることはなかった。そのイオリスが王城を出た。どこにいるのだろうか。声を掛けに行くべきかと、リズは急いで時計台から降りる。
広い王都を駆け回った。気配もなんとなくの位置しかわからないため、実際には足を使って探すしかない。息が乱れ、時折休憩を挟みながらリズは足を動かす。そうして王都の外に出て、近くにある森へと向かった。
「っ⁉」
大きな木の根元、そこでうずくまる鶯色の外套を羽織った人影が見えて、リズは目を見張った。間違いないイオリスだ。苦しそうに呼吸を整えているのがわかる。
「暴れ狂う魔力……あの頃よりも鋭く、そして酷い状態、じゃな」
近づこうとしてリズは足を止めた。この場で近づいて何ができるのか。イオリスからしてみれば、リズは得体のしれない相手だ。過去に一度だけ会ったことがあっても、そうそう記憶に残るものではないだろう。ましてやあの時とリズは同じ姿をしている。成長を止めてしまった姿は異質だ。駆け寄ることもできず、リズは黙ってイオリスを見ていた。落ち着き、再び歩き出したイオリスの背中を追うことはできなかった。
このままたった一人で死地に出向くのだろう。あの時、リズがいたからこそイオリスはまだ生きて居られた。誰かが傍にいなければ、あの時よりも早い死を迎えるはずだ。わかっているからこそ迷う。傍にいてやりたいと思う心と、もう死に逝く姿を見たくないという心がリズの中に渦巻いていた。それでも結果は変わらない。リズが何をしようとも、もう手遅れだ。そう、あの時と同じように……。
リズの瞳からぽつりと涙が零れ落ちた。それでも涙を拭うことなく、リズはイオリスの背中を見つめる。その背が見えなくなるまで、この目に焼き付けておくべきだと思ったからだ。
「っ……」
その姿が見えなくなったところで、リズはその場に座り込む。失敗することだって覚悟していた。魔女であっても万能ではない。それでも見たいとは思わなかった。もう一度死に逝く姿など。
「……もっと前に戻らなくてはならぬ」
イオリスが生まれる前に、それこそサーンス王国の中枢に入り込めるくらいの立場が必要だ。そして今度は知らなければならないだろう。どうしてサーンス王国の王族という者たちを、イオリスが一人で死を選ばなければならなくなった原因を。
「魔女の本気、とくと見せてやろうではないか」
ただできるならばという気持ちだったはずなのに、もはやそれはリズにとって成さねばならぬものだった。生きて、そしてイオリスと生きる。そのために必要なのは想いだけではない。魔女の力だけでも足りない。
「今は聖王歴1192だったか。ならばイオリスが生まれたのは、今から十七年前。聖王歴1175年……跳ぶのは聖王歴1170年ごろにするかの」
遠く離れた過去に跳びすぎてはいけない。それだけ魔力を消費してしまうということは、リズの寿命もそれだけ短くなるということになる。せっかくイオリスを助けられても、リズが先に逝ってしまうことはわかっていても、できるだけ長く共に過ごしてやりたい。となれば、己の記憶をもったまま回帰するしかない。
『リズ、これは禁断の力。それでも、お前がどうしても成さなければならないというのであれば、それを使いなさい。その代わり――』
「これを使えば、時間を移動することは不可能。何度も試すようなことはできぬ」
もう一度時間を跳び、確実な方法を探すこともできる。けれどそれは、失敗した時にもう一度あのような姿を見ることに等しい。リズ以外の世界は一度きりのものだが、リズにとっては違う。人の死など何度も見てきたのに、イオリスのあの姿は見たくない。
「そもそも受け入れてくれるかもわからぬのに、妾も健気よな」
リズは苦笑する。これが無駄になったとしたら、それでも人として生きると彼が望んだならばそれでもいい。今度はその意志を尊重し、最期の姿を看取ろう。
森の奥深くへ移動したリズは周囲を確認する。何者の気配がないことがわかったところで、落ちていた木の枝を手に取り、陣を描いていく。半径1メートル程度のサークルの中に五芒星、更にその中には小さな円と三日月を並べる。月は魔女の、円は時間を意味する太陽だ。その中央に立つと、枝を投げ捨ててリズは目を閉じた。
「我、この魂の御許にその意志を伝えん。時空を越えしその力、我が魂の下へ集え、そして顕現せよ。加護を宿せ」
その詠唱にリズが描いた魔法陣が応じるかのように光る。本来、魔女が扱う力に詠唱は不要だ。だがこれだけは別。時空を移動するものではなく、己の記憶を持ったまま回帰させるのだ。移動させるのは記憶。己の肉体も力も置き去りにしたままで、記憶のみを移動させる。この光が収まる時、それはこの時空のリズの死を意味する。
「っ……なる、ほどの」
リズは身体の内から力が抜けていくのを感じていた。これは今のリズが保有する力のほとんどを使う。魔女は魔力がなくなれば、その身体は朽ちていく。姿も残らずに灰となるのみ。ここで朽ちても、リズの死は誰にも悟られず、誰にその姿を見られることもない。図らずとも、イオリスが願う死と同じ結末を迎えることに、リズは笑った。
「妾を知る者などそもそもおらぬ。魔女とはそういう存在じゃった……だからこそかもしれぬな、師が妾を救ったように、同じような存在を傍に置きたいと願うのは。そのような想いなど、既に消え去ったと思っておったのに……責任くらいとってほしいものじゃ」
身勝手なことを言っている自覚はある。そもそもイオリスに出会ってしまったことが原因だ。あのまま会うことがなければ、リズは一人でただ流されるままに死を迎えていただろう。何かを成し遂げたいと思うこともなく、静かに消えていった。それも悪くないと思っていたが、今の何かを為そうと動く自分も、リズは嫌いではない。
「これが最後の移動じゃ。過去の妾に託すとしよう。どうか……頼――」
スーッと何かが飛んでいった。と同時に、リズは己の身体が崩れ逝くのを感じる。これが終わりなのだと理解しリズは微笑みながら、その目を閉じるのだった。
ご都合主義的にそのままという展開も考えましたが、一度目はこういう形になりました。
次こそ!