歳下の婚約者(政略結婚)は最高のプロポーズを計画してました
海風薫る、「箱庭の国」ラプリツィア。常春の国らしく、開放的な作りの宮殿は朝早くから喧騒に包まれていた。
「王女様。王女様! 朝ですよー! お目覚めにございますか!」
「え、ええ……ロゼリア。起きているわよ……」
正確には今の声で起きた、とも言う。リリアーナは陽気で賑やかな侍女に、いかにもラプリツィアっ子よね、と若干苦笑した。
リリアーナはこの辺では屈指の大国として知られるラドリール王国の第5王女だ。つい一月まえにここ、ラプリツィア公国にやってきたばかりの彼女は、もうすぐこの国の公子、エミリオと結婚することになっていた。
ラプリツィア公国は、真珠とワイン、そして絵になる風景で知られる小さな島国。観光地であると共に、大陸同士を結ぶ船の重要な寄港地でもある。今日はそんなこの国をエミリオに案内してもらうこととなっていた。
「今日はいつもより早いのね?」
「ええ、それはもう! 何と言っても前々より公子様が準備なさっていらしたデートの日にございますから! 張り切ってご準備をいただきたかないと!」
「そ、そう……? まあ……楽しみではあるけど……」
婚約者との初デート(侍女いわく)はもちろんリリアーナも楽しみにしていたが、とはいえ二人は政略結婚。手紙は何度も交わしていたものの、顔を合わすのはつい先月が久しぶり。そんな相手との結婚にリリアーナはまだまだ実感を持てていない。
そして、実を言うと今はそれ以上に気になることがある。
そして、そんな心持ちはやかましくも有能な侍女によってすぐに暴かれることとなった。
「あら、リリアーナ様? もしかしてお加減が優れませんか? 熱はないようですが……体調がよろしくないようでしたら、お出かけは延期に……」
「い、いえ! 大丈夫よ! 私はすこぶる元気だわ」
「本当……ですか?……」
今にも公子の元へ使いをだしそうなロゼリアを見て、リリアーナは慌てて笑みを作る。実際、穏やかで温かな気候のおかげか、リリアーナの体調は絶好調だった。
「ええ! 本当よ。嘘はつかないわ。ーーただその、ちょっと気になることがあって」
元気なのだ、とアピールするも訝しげな侍女に、リリアーナは両手を上げて降参の姿勢をとった。
「大したことではないんだけどね……その……エミリオ様、最近何か悩んでいらっしゃらない?」
「な、悩み事! ……に……ございますか?」
「ええ。最近、なにか考え込んでいるように見えることが多くて……なにか知ってる?」
「まさか。なにもぞんじあげておりません」
リリアーナの言葉にビクンと飛び上がる侍女。そして、その答えはあまりにも不自然だった。
「本当?」
「はい。結婚式も近うございますから、公子様もあれこれと考えていらっしゃるのでしょう。少なくとも王女様に害のあることではありませんからご心配なさらないでくださいまし。さ! では朝食の準備が出来たようですわよ!」
やや強引に話題を変えた侍女。実を言うと公子の悩み事について尋ねるのはすでにロゼリアで5人目だ。そして彼らの答えもまた、見事なまでに一緒。
おそらく、なにか隠しているのだろう。良くも悪くも正直なラプリツィアの人々をちょっぴり恨めしく思いつつ、リリアーナはベッドから体を起こすのだった。
軽めの朝食を取ったら、早速お出かけの準備が始まる。
侍女たちによって磨かれ、公子がこの日のために贈ってくれたというドレスを身につける。そうしてエントランスへ向かうと、そこではすでに軽装のエミリオ公子が待っていた。
「まあ、エミリオ様! お待たせしてしまいましたか?」
母国においては男性、それも目上の男性を待たせるなどあってはならぬと教えられてきたリリアーナ。慌ててエミリオに駆け寄り謝罪をしようとするが、彼によってその行動は止められた。
「私もさっき来たところです、リリアーナ様。それにこの国では、むしろ男は待たせるものがマナーだとされているんですよ」
「そ、そうなのですか?」
そんなマナー聞いたことがない、とリリアーナは目を白黒させるが、周りの使用人達は彼の言葉にうんうんと頷いている。それを見たリリアーナはこれもまた、文化の違いかと納得せざるを得なかった。
「それにしてもそのドレス、着てくださったんですね。とってもお似合いです。まるで妖精のように可愛らしい」
「そんな妖精だなんて……ですが、本当に私がこんなドレスを着てよろしいのですか?」
「ええ、もちろん。もしかして……気に入らなかったですか?」
「まさか!? とっても素敵です。ただ、母国ではこういったドレスはあまり褒められないので……」
そう言ってリリアーナは身につけているドレスを見やる。格子柄でミントグリーンのドレスはとても可愛らしいが、同時にとてもシンプルだ。装飾と言えば腰についたリボンだけ、裾の膨らみもほとんどない。同じ色合いの帽子と日傘を合わせるにしても、公族が着るには少々地味すぎる印象だった。
「ああ、なるほど。それなら全く心配いりません。母上だってお忍びの時はこんなドレスを好んでいます。今日は街を散策するつもりなので、出来るだけ負担のない服装をしてほしいんです」
「公妃殿下がお忍びをなさるのですか!?」
さらりとエミリオが言った言葉に、リリアーナは思わず声を上げ、それから羞恥に顔を真赤にする。そんな彼女をエミリオは可愛くて仕方がない、というような目で見つめた。
「はい、よく暇を見つけては父上と出かけていますよ。もちろん私も、あなたとそんな関係を築ければ、と願っております」
「は、はい……それは私も……」
エミリオの言葉にリリアーナが会話を合わせると、ボッと火が出たように彼の顔が赤くなる。
だがすぐ元の表情に戻り、それから彼はリリアーナに恭しく手を差し出した。
「えっと……コ゚ホン。じゃあリリアーナ様? そろそろ出かけましょうか?」
「はい。エミリオ様。今日はよろしくお願いします」
さっきのはなんだったんだろう? と一瞬疑問がよぎったリリアーナだったが、差し出された手を取らないわけにはいかない。
そうして、エミリオのエスコートで馬車に乗った彼女は、一路ラプリツィアの街を目指すのだった。
馬車に揺られながら、リリアーナは何やらまた考え事をしているらしいエミリオをそっと見やる。大国の王宮育ちで美男慣れしているリリアーナからみても、その姿は絵画のように美しかった。
リリアーナの婚約者、エミリオ公子は彼女より7つ歳下の18歳。4人の姉がいるリリアーナとは逆に、現ラプリツィア大公夫妻の一人息子であった。
大公家の血を色濃く継いだ美しい紫水晶の瞳に、母親譲りだという落ち着いた金色の髪。すでにリリアーナより頭一つ高い体躯は均整が取れており、その微笑みは国中の女性を虜にするとか。その上、聡明かつ温厚。
そんな彼がいるおかげで、ラプリツィアは将来安泰だと言われていた。
彼との出会いは3年前、ラドリール王国で開かれた建国記念式典でのことだ。大公の名代としてラドリールを訪れたものの、まだ社交経験が浅く右往左往としていたエミリオに、リリアーナは助け舟を出す。
酒の入っていない飲み物を見繕ったり、ラドリール社交界の暗黙のルールを耳打ちしたり、港を持つ諸侯に彼を紹介したり……あれこれと世話を焼いているうちに、リリアーナはエミリオに一目惚れされていたらしい。
当時すでに22歳で、嫁ぎ遅れかけていたリリアーナ。そんな彼女に降って湧いた縁談に国王夫妻は大喜び。小国だが裕福なラプリツィア相手なら、持参金も少なくて済むと、役人たちも大喜びした。
そういった訳で、エミリオの成人を待ってラプリツィアにやってきたリリアーナ。だが、やはり眼の前の美青年が、嫁ぎ遅れの自分の婚約者だという実感はなかなか持てないのだった。
「どうかされましたか? リリアーナ様?」
「い、いえ! 申し訳ありません公子殿下。男性を見つめるなど、はしたない……」
エミリオのことを思わずチラリチラリと仰ぎ見ていたのがバレたのだろう。
母国での教えを思い出したリリアーナは、慌てて謝罪をする。
しかし、エミリオはリリアーナを安心させるかのように微笑みながら、ゆっくりと首を振った。
「将来の夫なのですから、はしたなくなどありません。むしろ興味を持っていただけたならこの上ない幸せです」
「そ、そうですか?」
エミリオは大きく頷く。と同時に、馬車がガクンと揺れて動きを止めた。
「到着したようですね」
ふと窓の外を見ると、そこは小さな広場に設けられた馬車止めのようだった。馬車の扉が開かれ、エミリオが軽やかに馬車から飛び降りると、ついでその手がリリアーナに差し出される。
彼の手を借りて、リリアーナは「箱庭の国」ラプリツィアの街に降り立ったのだった。
「噂には聞いておりましたが、賑やかな街ですのね」
ラプリツィアの街は、丘の上に立つ宮殿から港に続く、なだらかな斜面上に造られている。
小さな街には石造りの建物が密集して建てられ、船でこの国に来た人は、色とりどりの屋根がぎっしりと並ぶ様子に感嘆するという。
「箱庭の国」なる二つ名の由来だ。
どこからともなく香る潮の香りが、ここが港町なのだと実感させた。
「ええ。私服の護衛をつけていますが、王女様も決して私の手を離さないで下さいね。では、行きましょう」
ちょうど観光シーズンとあって広場は人でごった返している。この街の特徴の一つである、迷路のような路地に入り込んだら、リリアーナなど一瞬で迷子だろう。
リリアーナが神妙に頷くと、彼はリリアーナの手を引いて、迷うことなく広場から続く一本の小道へといざなった。
「ここは文具店ですか?」
「はい。王女様は手紙を書くのがお好きでしたよね?」
彼のいうとおり、手紙を書くことはリリアーナの大切な趣味だ。婚約期間中には数え切れない程の手紙をエミリオに送ったし、今は反対に、母国の姉達と近況を伝えあっている。
そんな彼女の趣味をしっかりとエミリオが覚えていてくれたことが、リリアーナには嬉しかった。
エミリオがリリアーナを連れてきた文具店は、大きな羽根ペンが描かれた看板が目を引く店だ。
彼に手を引かれて店内に入ると、どこか静謐な香りが漂い、棚にはペンや便箋がところ狭しと並べられている。
ぐるりと店内を見渡したところで、リリアーナは特に目立つ場所に並べられた絵葉書に目を止めた。
「まあ……素敵。港に灯台……これは宮殿から眺めた街かしら」
「さすが王女様! お目が高い。これはラプリツィアを代表する風景画家が書いた絵を使っていてね。観光客に大人気なんですよ!」
「そ、そうなんですね……」
「では、店主さん。この絵葉書を1枚ずつ下さい。あとリリアーナ様? こっちの便箋も素晴らしいですよ。見せていただいても?」
「ええ、もちろん! 公子様もこれまたお目が高い! これは先日仕入れたばかりですが、もう大人気なんですよ」
突然店主に話しかけられ、思わず固まるリリアーナだが、すかさずエミリオが助け舟に入ってくれる。そのまま今度は透かし模様が入った便箋を手に取ることになった。
「これも綺麗……この模様はオレンジの花ですか?」
「はい、王女様。まさにこれから季節ですからね。お国の方にお送りするにはぴったりかと……」
「では、こっちも何枚か買いましょうか? リリアーナ様」
「えぇ、ありがとうございます、エミリオ様」
さらにガラスで出来た美しいペンも選び、会計をする。王子が慣れた様子でコインを店主に渡すのをリリアーナは驚きの眼差しで眺めていた。
「随分慣れていらっしゃるのですね」
「慣れて……買い物のことですか?」
店を出たところで、リリアーナは思わずそうエミリオに問いかけていた。
「はい。私はこれまで街で買い物することなどなく、店の人と話したことも、コインを手にしたこともなかったので……」
買い物は商人を城に呼んでするもの。それに平民と直接会話するなど王族のすることではない、というのがラドリールの常識だった。
「ラプリツィアは小さな国ですからね。民との距離も近いのですよ。それにこうして街を回れば、課題も見えてきます」
「確かに……」
そういえば、さっき会計の時にもエミリオは、店主となにやら世間話をしていたようだった。そういったことから、まつりごとのヒントを得ているのだな、とリリアーナが関心していると、不意にエミリオがクククッと笑った。
「なんてね……実際は城にこもっていたくない、というのが8割ですよ。そんな真面目な顔をしないで下さい」
「……」
「リリアーナ様も徐々にこの国に馴染んでいただければ構いません。ーーあっ、それより見て下さい! 苺の屋台がでてますよ、食べましょう!」
「え、いちご? 屋台? って待って下さいーーエミリオ様!」
真面目に話していたかと思うと、不意に王子が何かを視界に捉え、やや早足に歩き出す。彼の視線の先には、たしかに山積みの苺を売る屋台があった。
これまではずっと、リリアーナに合わせてゆっくり歩いてくれていたエミリオだが……おそらく苺が好物なのだろう。
思わぬところで歳下っぷりを発揮する彼に苦笑しつつ、リリアーナは慌てて足を動かした。
「もう! エミリオ様。急に早足にならないで下さい。転んでしまいます」
「す、すいません、リリアーナ様。どうも苺には目がなく……特に屋台の苺はこの時期だけなので……」
「だからってーーそんな急ぐこともないでしょう?」
さっきまであれ程頼れる感じだったのに、急に弟のようになったエミリオ(実際まだ18の若者なのだが……)にリリアーナは思わず歳上モードになる。
彼女に叱られて、エミリオは子犬のようになっていた。
「ハッハッハ。公子殿下も奥様には弱いようですな」
と、そこで思わぬ合いの手が入る。威勢の良い声の主は苺屋台の店主だった。
「よしてくれよ、店主さん……さて、それで今年の苺はどうだい?」
「ええ、おかげさまで豊作も豊作ですよ。それに甘くて大粒と評判。お二方もいかがです?」
「もちろん。一山いただけるかな?」
「まいどあり、特別に甘いのを選んどきますね」
そう言って店主は慣れた様子で、紙袋にどっさりと苺を入れた。
「お待たせしました、殿下。一袋15リールです」
「ありがとう、じゃあ……リリアーナ様?」
そう言うと、王子はリリアーナが手にしていた日傘をそっと抜き取り、代わりに金色の5リール硬貨を3枚握らせた。
「これは……?」
「せっかくなら、リリアーナ様に払って貰おうとーー何事も体験です」
「わ、分かりましたわ」
リリアーナはゴクンと唾を飲むと、
「で、では……15リール。お願いします」
と店主にコインを手渡した。
「はい確かに。苺の季節は短いです。また来てくださいね」
「あ、ありがとうございます、店主さん」
「ありがとう、また来るよ」
ずっしりと重い紙袋を受け取ったリリアーナは、ややぎこちなく微笑みつつ、なんとか店主に礼を言う。
屋台近くのベンチに並んで座って食べた苺は、みずみずしくて甘酸っぱく、確かにこれは王子が早足になるはずだ、とリリアーナは納得した。
それからもリリアーナはエミリオと共にラプリツィアの街を歩いて回った。
エミリオおすすめの小さなカフェでは、素朴なパンにハムとチーズをたっぷりと挟んだサンドイッチを食べる。
ガラス細工を売る店では、彼と揃いのグラスを買って、リリアーナは1人気恥ずかしい気持ちになったりもした。
観光客に人気だ、という港と別荘地を結ぶ小さな遊覧船からは、美しいラプリツィアの街を一望することが出来た。
そうして、夕暮れ時。エミリオはリリアーナを海沿いのレストランに連れて行く。あらかじめ話が通してあったらしく、突然の公族の訪問にも店員は驚かず、サラリと海が見えるテラスへと案内された。
海の幸をたっぷりと使った料理を楽しんだ二人。デザートを待つ間、リリアーナはもうすぐ夫になる男の美しい横顔と、陽の沈んだ後の群青色の海を交互に眺めていた。
彼女の手には美しい茜色のワインが入ったグラスが握られている。とろりとしたそれは、普通のワインよりも度数が高く、それでいて甘い。ラプリツィアで伝統的に造られる名産の酒を口にして、酒に強いはずのリリアーナも若干酔いを覚えていた。
先程から店では誰かが歌を歌っているらしい。ロマンチックなギターの音色に乗せて聞こえてくるのは、恋の歌だった。
「エミリオ様、今日は本当にありがとうございました」
「……」
「エミリオ様?……エミリオ様!」
「あ、ああ、ごめん、リリアーナ様。少し考え事を……」
フワフワとした心地で、今日一日の礼を言おうとしたリリアーナ。ところが隣で自分と同じようにグラスを傾けていたはずの男は、また何か考え込んでいる。
酔いも手伝って、リリアーナは思わずずっと疑問に思っていたことを口にしていた。
「あの……エミリオ様には何か気がかりなことがあるのですか? 最近よくそうやってぼうっと考え込んでいらっしゃいます。みんなに聞いても心配するなと言われますし」
「ん? リリアーナ?」
「その! わ、私達はもうすぐ夫婦になるんですよ! お力になれるかわかりませんが、悩み事があるならお聞きします。これでもあなたより7年長く生きてますしーー」
「いや、リリアーナ……」
「それとも……まだ私は信用のおけない人間? ですか?」
うって変わって哀愁漂うギターのメロディーのせいか、リリアーナは思わず言葉につまる。
そこでエミリオはハッとしたように立ち上がり、大きく首を振った。
「違うんですリリアーナ様! その……悩んでいたのは……今日のことで……」
「今日のこと?……」
店中の注目を集めていることに気付いたエミリオはゆっくりと席に戻る。
「リリアーナ様とお会い出来て少々舞い上がっていたようです。どうすれば素晴らしいデートに出来るか、どんなプロポーズをすれば一生の思い出になるか、と考えていたら、思い悩んでしまい……」
「プロポーズ!?」
ポツリポツリ、と悩みの中身を話し始めるエミリオ。最初は安堵半分、呆れ半分といった様子で聞いていたリリアーナだが、「プロポーズ」の一言を聞いて大きく目を見開いた。
「……求婚ならして下さったではありませんか? それに私達は政略結婚。断るという選択肢はありませんわよ?」
「それでもです。いや、だからこそ、思い出に残る求婚をしたかったのですが……それでリリアーナ様を不安にさせるとは……私は未熟者ですね」
そう言うと、エミリオはゆっくりと立ち上がり、そしてリリアーナの元に跪く。どこからか取り出した小箱を彼が開くと、そこには美しい真珠の指輪が収められていた。
「リリアーナ様。私と結婚してくださいませんか?」
「エミリオ様……」
結局彼が選んだのはシンプルな言葉だった。
リリアーナは刹那、この3年間を思い出す。建国記念式典以降、実際に彼と会うことはリリアーナがここに来るまでなかった。しかし交わした手紙で、一緒に過ごしたこの一月で、彼がリリアーナのことを大切にしようとしてくれていることは、よく分かっていた。
「私で良ければーー喜んで!」
エミリオの求婚に対して、リリアーナもまたシンプルな答えを選んだ。
「リリアーナ様!」
彼女の名前を感極まったように口にしたエミリオは、そっと彼女の左手をとり、薬指に真珠の指輪を通す。
大公や大公子が婚約の証として渡すのは、ラプリツィアでその年採れた最も美しい真珠の指輪。そんな伝統があることはリリアーナも良く知っていた。
「綺麗……素敵ですわ! エミリオ様。大切にします」
二人は微笑み合い、見つめ合う。いつの間にか音楽は陽気な3拍子のワルツになり、ギターの音色には、人々が床を踏む音が混じりはじめた。
「リリアーナ様? もし良ければ今日の記念に一曲踊っていただけませんか?」
「ダンスですか!? でも……酔ってますし……この国のダンスはまだ……」
「そんなに難しいものじゃありません。きちんとリードしますよ」
聞いたくせに、結局エミリオはリリアーナをちょっぴり強引にダンスの輪に引き込む。
そんなところはやっぱり歳下っぽい、とリリアーナは苦笑した。
でもリリアーナの酔っている、なんてのも言い訳だ。祖国ではもっとたくさんお酒を飲みながら、貴族たちの相手をしていた。
それに気取らない街のダンスは、多少ステップを間違っても笑われないし、陰口も言われないらしい。いつしか楽しくなってきたリリアーナは、2曲、3曲とラプリツィアの宵を楽しんだのだった。
「そういえばエミリオ様?」
「どうされましたか? リリアーナ様?」
目一杯この街を楽しんだ帰り道。「どうぞ私を枕にして下さい」というエミリオの言葉に甘え、リリアーナは少しだけ彼によりかかる。
そうして、馬車に揺られていると、不意にある疑問がリリアーナの中に湧いてきた。
「私……エミリオ様にしてみたいデートの話とかしましたっけ? 今日のデート、まるで私の理想通りなのですが……」
「ああ、それでしたらーー教えてくださいましたよ。お手紙の中で……」
「お手紙!?」
「ええ。婚約したての頃に……私と会うのを心待ちにしてくれているようで、とても嬉しかったです」
ほんわりと笑うエミリオだが、リリアーナは狭い馬車の中だというのに飛び上がりそうになる。ほろ酔い気分もあっという間に吹っ飛んだ。
「そ、そういえば……そんなこと書いたような……」
3年前、エミリオとの縁談が持ち上がった頃。手紙は好きでも、男性との文通経験はなかったリリアーナは少々浮かれていた。
次々に送った手紙の中には、ラプリツィアでこんなことがしてみたい、とかいうことも書いたし、なんならポエムもどきのようなものも書いたことがある気がする。
それらの記憶が一斉に蘇り、リリアーナは顔を真赤に染め上げた。
「どうされましたか? リリアーナ様?」
「ち、ちなみにその手紙は?」
「もちろん、大事に保管してありーー」
「燃やして下さい!」
思わず声をあげるリリアーナだが、エミリオは苦笑いしつつ、ゆっくりと首をふった。
「まさかーー燃やす訳ないじゃありませんか? 孫の代まで大切に伝えていきますよ」
「やめて!? エミリオ!」
「冗談です」
必死な表情のリリアーナに、エミリオは思わずといった風にクックッと笑う。
「リリアーナ様からいただいた大事な恋文です。誰にも読ませません。でも、捨てもしませんよ? とりあえず『理想の結婚式』についてもお聞きしてますからね。ーー楽しみにしていて下さい」
「わ、私!? そんなことまで書いてたんですか?」
いっそ穴を掘って潜ってしまいたい。そんな心地のリリアーナだが、馬車の上ではどうにもならずーー結局彼女は真っ赤な顔を隠すように、エミリオの胸に頭を埋めたのだった。