プロローグⅡ『深淵の出逢い』◆
止まっていた歯車が動き出す。
この出会いが齎すものは、いったい何か——
『さぁ、ここから新たに始めましょうか』
星が瞬く夜空の下——それでも大地は闇に沈んでいた。
本来なら、世界樹は光をもたらす象徴であるはずなのに。
代わりに、異様な進化を遂げた植物が仄かな光を放っていた。
淡く縁取られた光景の中、倒木に腰掛けた青年は、炎を見つめていた。
風が吹き込み、黄金の髪が揺れる。
薄汚れた外套を身に纏い、疲労の色が濃いその表情は、しかし満足気に弛緩している。
——いや、まだ安心するわけにはいかないな……
過酷な旅路の果て、ようやく目的を達成できたことで緩んでしまっていた緊張の糸を張り直す。
周囲に張り巡らせた魔物除けの結界のおかげで一息を付けているが、その守りも完全ではない。
強大な魔物には通じない。
ここでは、気休めに過ぎない。
ここは世界の理から隔絶された場所だ。
油断は死に直結する。
深淵領域。
黒マナが満ち、魔物は凶暴化し、人の心すら蝕む場所。
そんな場所にひと月。
自分の心が、どこまで蝕まれているのか——考えたくもない。
だが、危険を冒してでも果たさなければならない使命があり、それも残りは自分が無事に帰還することで完遂されるのだ。
——体力が戻り次第、合流地点に急がなければ……
深淵領域外にて自分の帰りを待ちわびているであろう仲間に思いを馳せる。
青年は逸る気持ちを抑えて、帰還までの道程を脳内で描き出した。
くべられた焚き木が爆ぜ、熱された空気に乗って火の粉が宙を舞う。瞬間、男が徐に口を開いた。
「何か、ご用ですか?」
姿勢も視線すら動かすことなく、青年は声を投げかける。すると、
「魔物除けの結界が、あるから……まさかとは、思ったが……こんな場所で、誰かに会える……なんて、な……」
息も絶え絶えといった様子の声が漏れ聞こえ、そこで青年はようやく背後へと視線を送った。
自身と似たように襤褸じみた布を羽織り、フードの奥からは無精髭を貯えた、本来であれば鋭く精悍であろう顔付きが憔悴した表情を浮かべていた。
力無く、今にも倒れそうになりながらも身の丈程もある大剣を背負い続けている姿に、ここが如何に危険な場所であるかを思い返させられる。
「すまないが……何か食い物を分けちゃ、くれねぇか?」
どうやら空腹に見舞わられている様子に、青年は懐に忍ばせていた携帯食料を取り出してみせる。
「魔物食は大丈夫ですか? ミノタウロスの干し肉で良ければ」
告げた瞬間、男の表情が歪むのが見えた。
ミノタウロスは牛頭の人型モンスターであるため、如何に牛肉に近しいものを味わうことが出来る。
しかし、元の姿を思えば食すのを躊躇う者の方が殆どである。
男は背に腹はかえられぬといった感じで、渋々だが感謝の言葉を送ってきた。
「……食えるものならなんだってありがてぇ」
男が覚束ない足取りでこちらへと近付いてくるのを、青年はその動きを凝視して待ち構える。
あと数歩でこちらが差し出した干し肉へと手が届きそうなところで、掴んだその手を広げ、それを宙に舞わせた。
直後、
「……要件は?」
静かに、されど相手の行動を咎める気迫を込めた言葉が、周囲の闇へと吸い込まれていく。
黙する男に意識を向けつつ、こちらの首筋近くに抜き放たれた得物へ視線を這わせていく。
——漆黒の刀身、ですか……
推測の域を出ないが、男の正体に当たりを付けた青年は、男が大剣を動かせぬように制止を促すために掲げていた手で刀身を押さえつけながら、
「ギルドの英雄がこんな場所で盗賊まがいなことを?」
と冷ややかな視線を送り付ける。
「物盗りが目的じゃねぇよ……だが」
男の視線が鋭さを増していく。
先程まで感じていた弱々しさは既に霧散し、獲物を狙う猛獣を彷彿とさせる威圧感を放っている。
「てめぇが<組織>の人間なら、その命を盗る必要があるが、な!」
大気を震撼させる気迫と共に、男の蹴りがこちらの腹部を捉えようとした。
しかし、男の脚が肉を打つ感触を得ることはなかった。
こちらが寸前のところで背後に飛び退いたことで、その不意打ちは風を巻き起こし、篝火を揺らすに留めた。
「チッ……流石に、単身で深淵領域の奥地にいるだけはありやがるな」
「ちょっと——待ってください!」
今の一撃を避けられたことに表情を歪める男に、青年は困惑の表情を浮かべて制止を呼び掛ける。
男が口にした組織というものがどういうものかは分からないが、このような場所で魔物ではなく人から襲撃を受ける覚えは、
——なくはないですが……
ギルドをも敵に回すことになるとは。
目的を果たした代償が、これか。
想定はされていたが、男の言動に違和を覚えた青年は、どうか自分の思い違いであれと、目の前で殺気を放ち続ける男を問い質す。
「何か誤解があるようなんですが……貴方の目的は僕が持つこれ、ではないのですか?」
懐から取り出した“それ”を掲げる。
白桃色の渦が、夜闇に浮かび上がった。
男の目的がこれであるならば、更なる危機を招き入れることになるのだが、
「だから物盗りが目的じゃねぇって言ってんだろが……ってなんだそりゃ?」
男はこちらの手元を一瞥し、不思議そうに顔をしかめさせた。
「ソフトクリーム、だと?」
男は視線が鋭く、それを見つめる。
「お前……馬鹿にしてるのか?」
「これを狙っている訳ではないのでしたら、僕に貴方と争う理由はありません。それに、先程仰った組織というのも何のことか存じあげませんし……」
すると、男は張り詰めた空気を解き、遂には脱力しきった様子で頭を振ってみせた。
「んだよ……それならそうとさっさと言えっての」
そちらが問答無用で襲ってきたのでは? と言葉が喉元まで込み上げてくる。
だが、折角下火になった激情に燃料を投下する必要はないと、苦笑いを浮かべるだけにする。
「じゃあなんだ? お前さんはアイツを狙ってこんなとこまで来た訳じゃねぇのか」
「アイツ?」
聞き返した言葉を受けて、男が口を開こうとした瞬間——
「——ッ!?」
全身が総毛立つのを認識した直後に、辺り一帯を震え上がらせるような振動が襲いかかってくる。
「ーーーーーーーーーー!!!」
男の瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
それが叫びだと理解した瞬間、目の前男から再び凄まじい殺気が放たれる。
先程までと違うとすれば、それはこちらではなく、音の発生源にいるであろう何かへと向けられているということだ。
「くそったれ! もう戻ってきやがったか——」
男が音が聞こえてきた方角へと視線を向け、憎しみすら感じさせる声を吐き捨てる。
「お前さんがアイツとは無関係なら悪いことは言わねぇ……今すぐここから離れるんだ」
そう告げた途端、男は手にした大剣を背に担ぐように構える。
すると、先程までそれを収めていたであろう鞘が軟体生物ように解け、刀身を招き入れるように包み込み、元の形状へと戻る。
それを確認した男は、既にこちらの事は意識にないようで、一目散に駆け出していってしまった。
その後ろ姿を見遣り、青年は嘆息を漏らして、
「やれやれ」
呟いた直後には、己の脚もまた大地を蹴り上げて、走り出していた。
男の忠告通り、この場から立ち去っても良かった。
自分には果たさねばならない使命があるのだからと言い聞かせて、男のことなど忘れてしまうことも出来たはずだ。
だが、この深淵領域においてなお、異様な状況を察知してしまった以上、それを見て見ぬ振りは出来なかった。
ここで背を向ければ、自分は自分を許せない。
誉れ高い騎士である以上——背は向けない。
男の姿は既に遠く、辛うじて捉えるのがやっとだが、決して追いつけない速さではない。
ならば、後は己の信ずるままに青年もまた風を切って駆けていく。
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