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黒竜の魔女  作者: 千鳥切
98/104

空の夢 03

 空を見上げていた。


 高く澄んだ、青い空を見上げていた。


 ただ、風が吹いていた。



 ***



「——なるほどな」


 じっと黙り込んでいた少女が瞼を開いた。


「いや、なるほどという言葉を使えるほどに理解したとは言い難いが……ひとまずは、お前がここに居る経緯は分かった」


 寝台に腰を下ろしたワズは、向き合って座る少女の言葉の続きを待つ。


「お前は私と共に旅をしていたが、考え方の違いから決別した。そして、気がついた時にはここに居た。あまりにも支離滅裂としているが、お前にとってそれ以上でもそれ以下でもないなら仕方がない」


 己が座る他に椅子のない部屋をざっと見渡して、彼女は一つ息をついた。


「だが私はお前との旅を経験していないし、お前のことも知らない。お前はそれにどう説明をつける?」

「……分からない」

「そうか。私は一つ仮説を立てている」

「それは、」

「待て、二つ確認しておきたい。まず、お前は遠見というものを知っているか?」


 制止するように開いた手のひらの向こうで、少女が問いかける。身を乗り出していたワズは、座り直しながら目を丸くした。


「過去を視る力のことか?」

「知っているか。お前はこの力を持っているのか?」

「おれは眠らないから分からない」

「………………まあいい。もう一つ、お前の知る暦では今は何年だ?」


 物言いたげな沈黙ののちに投げかけられた問いに、悩む必要もなく彼の口が開く。


「滅亡暦300年。大陸暦だと6128年だ」

「……大陸暦は私にも分かる。が、滅亡暦というのは?」

「フェーデルシアが滅んでから何年経ったかだ。歴史を学ぶのには重要だからデーグが教えてくれた」

「……なるほど。そういう暦が生まれることもあるのか。確かに分かりやすい」


 ひとつ頷いて、口元に手を当てた少女が黙り込む。

 しばらくそうして考え込んでいた彼女は、不意に大きなため息をついて顔を上げた。



「——大陸暦5883年だ」



「え?」

「今は大陸暦5883年。滅亡暦で言うのなら55年。お前は、お前の考える『今』から245年前の時代に居るということになる」

「…………………………」


 言葉を失ったワズの前に、椅子から立ち上がった少女が立つ。目の前に差し出された手を掴もうと、反射的に彼の手が伸ばされた。


「いいや、『居る』という表現は相応しくないだろうな」

「ぁ…………」


 空を切った己の手を、ワズは呆然と見下ろした。

 同じようにすり抜けた手に驚く様子もなく、少女は言葉を続ける。


()()()()()()()()()()。未来から意識のみやって来た亡霊のようなものだ。一体どうしてこんなことになったのか、お前に心当たりはあるか?」

「……」

「ワズ?」


 応えない青年に、彼女が怪訝そうな目を向ける。



「おれは……ユーアにもう触れられない?」



 問い掛けと共に顔を上げたワズは、ひどく見開かれた白銀の瞳に映る己の姿を見た。

 まるで呼吸さえ忘れてしまったかのように、息を詰めて硬直していた少女は、「ユーア?」と声をかければびくりと肩を揺らした。


「どうした?」

「いや……気にするな」


 ゆるゆると首を振った少女は、先程までのことを誤魔化すように軽く咳払いをする。


「お前をここに留めている力は遠見と同質のようだが、実際に起きていることは違う。元の場所に返してやると簡単に言うには、私の知識も能力も足りない。だが、遠見と同じだと考えれば戻ることは不可能ではないはずだ」

「手伝ってくれる?」

「ああ。……どうせ私には、他にやることもない」

「ユーア?」


 ぽつりと付け加えられた言葉にワズは首を傾げるが、少女は答えずに立ち上がった。


「着いてこい。遠見について調べ直す」



 ***



 城の廊下を掃除していたその侍女は、ふと渡り廊下の奥に目を向ける。文官や侍女が多い区画とは反対、殆ど人の立ち入ることのないそちらから何かが聞こえたような気がしたのだ。

 もしや動物でも忍び込んだのだろうか、と耳を澄ましつつじっと廊下の先を見つめる。

 近づいてくるそれが足音だと気づくのと、廊下の角を曲がって現れた人物を視認したのは同時だった。


 ——幽霊姫。


「っ……!」


 悲鳴を上げかけた口を両手で塞ぎ、侍女は同僚から聞いたこの城の禁忌を思い出す。


 曰く、この城には跡継ぎである王子の他にもう一人、隠された姫が居るという。

 噂には好き勝手に尾鰭がついていて、詳細は様々だ。人には見せられないような姿をしているのだと話す者もいれば、狂っていて幽閉されているのだという者もいる。姫はとっくに魔物に成り代わられていると噂する者もいれば、姫ではなく愛人か何かが囲われていると囁く者もいる。


 どれも荒唐無稽な話だが、『隠された人物がいる』という部分を否定する者は一人もいない。城に勤める者は皆、一人分の食事が毎日きっかり三回、決して欠かされることなく渡り廊下の先へと運ばれていくのを知っているからだ。



 こつり、こつりと靴音を鳴らして歩く少女は、精巧な人形のようだった。緩く広がる漆黒の髪と温度のない白銀の瞳は、どちらも侍女が見たことのない神秘的な色合いをしている。人間味を感じないほどに整った顔立ちには、何の表情も浮かんでいない。


 最初に抱いていた恐怖どころか、呼吸さえ忘れて呆然と魅入っていた彼女は、いつの間にか目の前まで来ていた少女が立ち止まったことで我に返った。


「ひっ!? も、申し訳ございません……!」


 王族への礼儀も忘れ、その一挙手一投足を凝視してしまっていたことに今更のように青ざめつつ、その場に膝をついて必死に頭を下げた。床についた自身の両手を見下ろし、冷や汗を滲ませる。幽霊姫がどんな存在であろうと、王族なのであれば不敬だと処断されてもおかしくは無い。


 永遠に感じる沈黙ののち、返されたのは言葉ではなく行動だった。

 僅かな衣擦れの音と共に、視界の中に開かれた手が入ってくる。


「……え?」

「立て」


 傍らから聞こえた涼やかな声に、侍女は怖々と顔を上げる。


「立て。汚れてしまう」


 少女の顔と差し伸べられた手を交互に見て、恐る恐る手を握る。生まれてから一度も陽の光を浴びたことがないようにさえ見える白い手は、見かけよりもずっと力強く彼女を引き上げた。


「あ……ありがとうございます……」


 戸惑い混じりに口にした謝辞に、少女は一つ頷いて手を解く。そのまますたすたと歩き去っていく小柄な背を、侍女はぽかんとしたまま見送った。



 ***



「もう話しかけていいぞ」


 図書館の扉に内から鍵をかけた少女が振り返る。


「どうも、普通の人間はお前を認識できないようだな。隠す手間が省ける。遠見が関わっているからだろう」

「ユーアに見えるのは、ユーアに遠見の力があるからか?」

「恐らくは。お前の知る私は使っていないのか?」

「多分……」

「なんだそれは」


 歯切れの悪い返答に眉をひそめつつ、彼女は部屋の中に目を向けた。

 天井までびっしりと詰め込まれた本を物珍しく見上げるワズとは対照的に、少女は迷いのない足取りで本棚の一角へと向かう。


「遠見に関する記述は、魔術の分野にはほぼない。魔術史や大陸史に稀に出てくる程度だ」

「どうしてだ?」

「魔術法則で説明できないものを魔術の括りには入れられないからだろう」


 運んできた数冊の本を机に広げつつ、少女は言葉を続ける。


「だが、確かにそこに在る。歴史のあちこちに散りばめられている痕跡がそれを証明している。例えば——」



「——竜だ」



 説明を続けようとしていた少女が、言葉を止めて彼を見る。だがワズの視点はただ一箇所、広げられたページの見開きに描かれたその存在に注がれていた。


 降り注ぐ光の下、竜が目を閉じて空を仰いでいる。

 彼の元の姿とは違い、その体は白い鱗に覆われているようだ。


「竜に興味があるのか?」

「竜について知りたい。おれも竜だから」

「……竜? お前が?」


 眉間に皺を寄せ、信じられないというような眼差しで少女はまじまじと青年を見る。


「本当だぞ」

「人間ではない可能性は考慮していたが……いずれにせよ、私の知識ではそれを否定も肯定もできない。お前がそう言うのなら、私も今はそれを受け入れる。俄には信じがたいがな」

「どうしてだ?」

「…………先程も竜について知りたいと言っていたな。お前自身が竜であるというのなら、何故知らない?」


 ただただ不可解だ、という意味でしかない少女の問いかけ。

 答えようと口を開き。


 虚ろに開かれた瞼。

 倒れた小さな身体。

 広がった血溜まり。

 抱き上げる感触。

 何もない。

 失った。

 虚ろ。

 覗き込む白銀の瞳。


「おい、どうした?」


 は、と息が零れて人ならざる青年は我に返った。


 目の前には、見慣れた黒髪の少女が立っている。記憶のそれと寸分違わぬその姿は、さりとて決して触れられないものであることを彼はもう知っている。

 開きかけた手をぐっと握りしめたワズは、同じように強く閉じた瞼を静かに開く。


「おれは……ユーアに教えてもらうまで、おれが何なのか知らなかった。おれはずっと暗い底でひとりだったから、今でもおれが何をできるのかを知らないままだ。だから知りたい。知って、もっと多くのことができるようになりたい」



 そうすれば——そうすればきっと、彼女を守るために何かできることがあるはずだから。



 埃っぽい図書館を静寂が満たす。

 ややあって、それを破ったのは小さなため息だった。


「……私は、お前を元の居場所に帰す手がかりを探すためにここに来たんだが」


 手元にあった本を閉じて机に置きつつ、少女は肩をすくめる。


「まあいい。お前の帰る手立てを探す合間に、私が知っていることくらいは話してやる」

「教えてくれる?」

「その顔を見れば、お前にとってそれが本当に重要であることくらいは分かる。お前の手では本に触れられないだろう。なら、私が教えるしかない」

「……ありがとう」

「大袈裟だ」


 安堵と喜びに顔を綻ばせれば、少女は煩わしげに顔を顰めてそっぽを向いた。

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