空の夢 01
大変お待たせしました。
張られた頬を押さえることもなく、青年はそこに立ち尽くしていた。
「どうしてよ」
真紅の瞳で黒髪の青年を睨みつけ、女は静かに呟く。振り抜いた手が彼の首元へと伸びた。
「お前があの子の傍に居たのは、あの子を守るためじゃなかったの? お前が……一番近くに居たお前がやらないなら、自分を守らないあの子を誰が守るのよ!」
躊躇いなく胸倉を掴んだリュトレンゼが怒りと共に揺さぶれば、青年の姿をした人外は抵抗なくがくがくと揺れる。空虚な表情を見覗き込んで、リュトレンゼは爪が食い込むほど強く手を握りしめた。
「お前が本当に竜だっていうのなら……あの子が死を選ぶ前に問題を解決することだってできたはずなのに」
「——竜」
絞り出した言葉に、ずっと反応しなかった青年が顔を上げた。
「おれ……おれは、竜だ。でもおれは……竜が何なのか知らない。おれはおれのことを知らない。何ができるのか分からない。おれは……おれは、何なんだ?」
何処を見ているのか定かではない、人ならざる漆黒の瞳が揺らいでいる。自身の両手を見下ろして青年は疑問を零す。
口の中に広がる鉄臭さに、苛立ちの余り噛んだ唇が傷ついたのだと気づいた。攻撃術式を組み上げようとし、自分がどこに居るのかを思い出したリュトレンゼは大きな舌打ちをする。
突き飛ばすように胸倉から手を離した彼女は、片手間に組み替えた術式を発動させてその場から消えた。
「騒がしい娘だ」
静寂の中、壁に寄りかかっていた盲目の男はぽつりと呟いた。その目を覆っていた布は依然失われている。薄く開かれた瞼の隙間から、特異な変質を遂げた双眸が覗く。
「……申し訳ございません、イツ様」
同じように壁際に控えていた礼服の男が、目を伏せたまま盲目の男へと深く頭を下げる。その髪に白髪はなく、顔立ちは三十歳前後。だが、赤い髪の女に仕える男が誰かと問う者はここには居ない。
「謝罪を求めた訳ではない。あの娘が騒がしいことは知っている」
淡々と返した男は、尚も変わらず部屋の中心に佇んでいる存在へと機能していない目を向ける。
「此処に居続けるも、何処かへ発つも勝手にしろ。だが此処に居るよりかは、手掛りが無くとも旅をし続ける方が邂逅の可能性は未だ高い。……尤も再会したところで、何かが変わることも無いであろうがな」
一方的に掛けられた言葉に反応は返ってこないが、男にとっては聞いていようがいなかろうがどちらでも良い。小さく嘆息した彼は、抜け殻のような青年を残して部屋を去った。
***
空から落ちてくる白いものの名前が『雪』であることを、ワズは誰に聞くでもなく知っていた。
寒暖の分からない指先で捕まえた雪の粒は、見る見るうちに溶け消える。
透明な水滴に映った己を見つめる瞳は覚束ない。何かを求めるようで何を求めているのか定かではない意識は、その外側の全てを濁らせていた。
「——ったく、言っただろーが」
それを聞き逃さなかったのは、何処かでこれを予測していた為か、それともただの偶然か。
のろのろと顔を上げた青年は、呆れたように己を見下ろす金と青の双眸を見た。
華やかな格好に似合わぬ粗雑な仕草で隣へと腰掛け、ヒューロオッドはどこからともなく取り出した煙草を咥えた。その先端に独りでに火が点き、そして消える。
「あの女に心なんてモンはない。てめぇが何言ったところで、あの頑固頭が考えを変えるかよ」
「……言われてない」
ぼそりと反論したワズに、魔族の男は片眉を上げた。
「あん? そういやそうだったか? 覚えてねぇな。ま、どっちでもいいだろ。どうせ結果は変わらねぇし」
「結果」
意味が分からずに繰り返した青年の顔を覗き込み、ヒューロオッドが皮肉げに笑う。
「てめぇはあの女が死に続けるのを黙って見てることはできねぇ」
「っ……」
——赤い血の中で横たわる、少女の姿。
ほんの少し前に見た光景が思い起こされ、痛みを感じたかのようにその顔が歪んだ。
口を噤んで沈痛そうに俯いた青年を横目に、ヒューロオッドはつまらなそうに肩をすくめて立ち上がった。
「んじゃーな、俺はもう行く。せいぜい達者でやれや」
「おれも行く」
青年の言葉に、男がぴたりと足を止めた。
「お前について行く。お前と居れば——ユーアに、会える」
ややあって振り返った男の表情に驚いた様子は無い。
「それがどういう意味か、本当に理解して言ってんだろーな?」
——彼女にとってこの男が敵ならば、この男と共にいるワズも彼女にとってはきっと敵だろう。
冷ややかな白銀の瞳を思い出し、瞠目する。
再び瞼を上げたワズはただ、一つ頷いた。
「……分かってる。もう、戻れない」
***
そっと肩にかけられた温かい感触に、リュトレンゼは視線を上げた。
「クロフ……」
「身体を冷やされます」
「……ありがとう」
上着の合わせを引き寄せ、彼女は屋根の上に腰を下ろす。強く握りしめたままだった手をそっと開けば、中から飾り紐が出てきた。
その二本の紐がかつてはそっくりの見た目をしていたこと、そしてその両方の持ち主は一人の少女であったことを、贈り主である彼女は知っている。だがほつれ一つない片方に対して、もう片方は半ばから鋭利な刃で断ち切られていた。
新品同様の紐に込められている術式は、持ち主の致命傷を一度だけ肩代わりする結界。
切れた紐に込められていた術式は、ただ持ち主の状態を反映するだけのもの。
使われないままに屋敷に残されていた結界の飾り紐と、戦いがあったという場所に落ちていた紐の残骸を握りしめ、リュトレンゼは奥歯を噛み締める。
「……あの子にとって私は、どれだけ力をつけても子供みたいなものなんでしょうね。分かってるわ。実際、直々に彼女に魔術を教わったにも関わらず、私はその足元にすら及ばないもの。何も教えてくれないし、頼ってもくれない」
ふ、と緩んだその口元が苦々しい笑みを形作った。
「分かってるの、全部ただの八つ当たりだってことは。私が問い詰めるべきはあの子か、そうでないなら自分自身だもの。だって私は、一度だってあの子の事情に踏み込めたことはない。踏み込めばあの子は私から離れていく。それが怖いからってずっと目を逸らして逃げ続けてる……その先に何もないことは、よく分かってたはずなのに」
抱えた膝に顔を埋めて、女は熱くなり始めた瞼を閉じた。鼻の奥のつんとした痛みを感じながら、震えそうな声をどうにか留めて続ける。
「でも、それでも……きっと今度こそ、あの子が傷つかなくてよくなるんじゃないかって、そう思ってたのも本当なの。だって、竜なんだもの。あの子のことを守ってくれるはずって、そう思ってたの。だけど……勝手に期待して、勝手に失望してるなんて、本当に愚かだわ」
空間から切り離された屋敷は、まるで墓所のような静寂に満たされている。
自分の呼吸と心臓の鼓動に耳を澄ませていたリュトレンゼは、隣に腰を下ろす気配を感じ取ってそっと顔を上げた。
「私は、貴方様のお考えを肯定も否定もできません。魔女様のお考えは……私如きに推し量れるようなものではないでしょう。ですが……」
色褪せた庭園を眺めていたクロフは、一度言葉を区切って彼女へと目を向ける。
永い時を共に過ごしてきた男は、彼女の目を真っ直ぐに見つめて顔を綻ばせた。
「たとえ貴方様がどんな選択をしたとしても、私が貴方様のお傍を離れることはありえない。そのことだけは、どうかお忘れにならぬよう願います」
「……馬鹿。本当に、私に甘いんだから」
「性分でございますゆえ」
嘯く男へと体重を預けるように寄りかかり、彼女はくしゃりと笑った。




