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黒竜の魔女  作者: 千鳥切
92/104

背離 08

 広大な空間に、静寂が満ちていた。


「——」


 横たわる魔女の赤く汚れた頬に触れ、人の姿に戻ったワズは深く沈黙する。

 寒暖の感覚がない彼には、その肌が温もりを失いつつあることは分からない。

 ただ茫然と、その体から永遠に失われてしまったものを思う。


「どうするつもりだ」

「…………わか、らない……」


 血まみれの小さな身体を抱えたワズは、かけられた平坦な声に呆然とそう答えた。

 剣を納めた男が、背後で小さく息を吐く。


「……俺は、魔樹に捕らわれていた者の状態を確かめねばならん」


 その言葉も、離れていく足音も、思考の外側を滑り落ちていく。

 まだ顔立ちに幼さの残る少女を、漆黒の双眸でぼんやりと眺める。

 胸を貫いた剣先で切れたのか、床へと垂れた黒い髪もずたずたになっている。何とはなくその髪を結わえる黒い紐に手を伸ばしたところで、ふと思った。


 彼女の髪紐は、黒ではなくその瞳と同じ白銀だったはずだ。





「——っ、ひゅ」





 空気が洩れるような音を聞いて、彼の全ての動きが止まった。


「ユーア……?」


 信じられないような思いで見下ろした腕の中で、黒髪の少女がゆっくりと瞼を上げる。

 その白銀の瞳が、明確な意思をもって彼を映す。


 血の気の引いた唇が言葉を紡ごうと動き——





「——あ、ぁぁぁぁぁあああッッッ!!」





 その喉から出たのは、絶叫。

 血まみれの両手で胸元を握りしめ、苦悶の表情と共にその身を激しく震わせる。


「ユーア!」


 青年の腕の中から転がり落ちた魔女は、自らの血溜まりへとうつ伏せに倒れたまま荒い呼吸を繰り返す。

 思わず伸ばしたワズの手が止まる。


 その背中。

 剣で貫かれて破れた服の中に、貫かれたはずの傷がない。


「何が……」

「はぁっ……はぁっ…………ぁぐ、うぅッ……!」


 両肩を抱き締めるようにして身体を丸め、少女は歯を食いしばって荒い呼吸を繰り返す。


「逆行だ」

「それは何だ?」


 いつの間にか戻ってきた男の言葉に、ワズは振り返って問いかけた。瞠目したまま、男はその眉間に深く皺を寄せた。


「肉体の時間が逆行し、傷のない元の状態に戻ろうとしている。一度死んだその方が再び息を吹き返したのも、逆行に拠るものだ」

「傷が治るってことか? なら、何でユーアは苦しんでる?」

「治癒と逆行は、根本的に違う。治癒は傷を治し癒すことが目的であり、その為に術式が組まれている。が、逆行は本来傷を治す為のものではない。只その身に起きた全てを逆向きになぞり、状態を戻すことを目的とする。当然——その中で受ける痛みへの配慮などない」

「なら……痛みだけでもどうにかできれば」

「逆行は魔術ではない。魔術で干渉することは出来ん」


 未だ苦しみの声が響く中、男は段差に無造作に腰掛けてどこか投げやりに答える。


「それなら、」



「ない」



 斬り捨てるように遮られ、青年は言葉を失った。彼に背を向けたまま、男が淡々と続ける。


「出来ることなど何もない。その方の傍に居続けるのなら、貴様は何度も同じ思いを味わうことになる。お前が共に旅をしてきたのはそういう人間だ」

「………………」


 押し殺したような呻き声はもう止んでいる。

 血溜まりの消えた床の上、魔女は傷一つない体を横たえて目を閉じている。意識を失った身体を再び抱え上げ、まるで微睡んでいるかのような穏やかな顔を覗き込んだ。


「……何で、ユーアはこんなことをした?」

「魔樹に捕らわれていた人間を後遺症なく解放する為だ」

「他に、方法はなかったのか?」

「無い訳では無い。だが、ああいった物への対処は外部からよりも内部からの方が容易で確実だ。そして、懸ける命のない人間にとってはその方法を避ける理由などないに等しい」


「ユーアは…………ユーアは今まで、()()()()()?」


 僅かな沈黙ののち、男が静かに口を開く。

 その答えを聞いたワズは、ただくしゃりと顔を歪めた。



***



 薄らと、目を開ける。


 横倒しになった視界にあるものは、赤い絨毯の引かれた床と、剣。そして、その柄を握っている己の手。

 確かめるように力を込めれば身体は問題なく起き上がる。軽く周囲を見回して状況を理解する。己の剣を納め、そのまま前へと歩を進める。


 男の進む先、広間の奥に膝をつく後ろ姿があった。

 すぐ傍まで近づいても、彼の主が振り返る様子はない。


 主の腕の中には一人の女が居る。

 とうにその身体から命は失われ、されど薄く笑みを浮かべたその顔は、男にはまるで幸せな夢を見ているかのように見えた。


「——イツ」

「は」


 僅かな衣擦れと共に立ち上がった主の呼び掛けに、男は言葉少なに答えた。

 自らの手で葬った女を抱え、振り返った主は静かに口を開く。


「今を以て——俺はもう、お前の主ではない」



***



「——イツ」


 久しく呼ばれていなかった名を呼ばれ、男の意識は浮上する。

 開いたその目に視力はない。だが他の感覚と魔力による感覚があれば、男にとって欠落を補うことはそう難しいことではない。

 床に座ったまま仮眠を取っていた男が顔を上げれば、寝台の上の少女は辺りを見回して口を開いた。


「屋敷か」

「は」

「あれは何処に行った?」

「外へ」

「そうか」


 寝台から足を下ろして腰掛けた少女は、所々が破れた己の服を見下ろして肩を竦める。胸元の一際大きな破れを繕おうと悪戦苦闘している様は、一見すればまるで何の力も持たぬか弱い少女のようだ。無言で立ち上がった男は、椅子にかけてあったローブを差し出す。


「……貴女は変わっておらぬ。何も変わらずに、そうして己を粗雑に扱う」

「死んでも生き返るものを粗雑にして何が悪い?」


 ローブを羽織りながら、少女は男の言葉に片眉を上げる。


「喩え生き返るとも、其の苦痛は偽りではない」

「何一つ代価を払わずに求めるものに手が届くことなど有り得ない。お前もよく知っているはずだが」

「…………貴女の命は、代価として手軽に支払ってよい物ではない」

「私の命は私のものだ。価値も使い方も私が決める」

「貴女は、」


「イツ」


 明確に言葉を遮られ、男は口を噤んだ。

 解けていた髪を結い直した少女が立ち上がり、彼の顔を見上げた。


「私はあの男ではない」

「……」

「今も昔も、私はお前の主ではなく、お前は私の臣下ではない。弁えろ」


 感情の篭っていない声でそれだけを言い放ち、少女は沈黙する男の脇をすり抜けていく。


「——ならば」


 扉に手をかけた少女が、男の言葉に動きを止めた。ぐ、とその手を握り締めながら男は続ける。



「ならば何故——あれを遣わした。あの方の姿をした、あれを」



 今はここに居ない青年の姿が、男の脳裏を過る。


 その面影も声も何もかもが懐かしく、しかしその言動も仕草も何もかもが何一つとして似通っていない。

 ずっと気が狂いそうだった。これほど己の視力が失われていることに感謝したことはなかった。もしもあの青年の姿をした何かを己の目で直視していたのなら、恐らく男はあれを徹底的に破壊し尽くした上で自害していただろう。許容できるはずがない。記憶の中のその姿が土足で踏み荒らされることなど。


 永遠にも感じた静寂ののち、少女は振り返った。

 表情から感情を読み取るように、男は魔力の揺らぎから感情を読み取ろうとし——そこで己の間違いに気付いた。




「悪いが、()()()()()()()()()()()()




 平常と何も変わらないその揺らぎは、心のあり様そのものだ。


「あれをお前のところに置いたのは剣術を学ばせるためだ。そのこととあれの姿がお前の中でどう結び付いたのか、私には分からない。あれの姿に何か意味があると思っているのなら、それは違う。私はただあるものを使っただけだ」


 偽りではない。どこまでもただ事実を言っているのだと、男の経験が告げていた。


「もしあれの姿がお前にとって不愉快なものだったというのなら、それは私の本意ではない。謝罪しておこう」

「…………………………」


 感情の伴わない謝罪にも怒りが沸くことはない。

 乾ききっている。どこまでも。

 怒ることに、感情をぶつけることに意味が見い出せない。


 扉が開き、閉じる。

 独りになった男は、いつまでもただそこに立ち尽くしていた。

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