背離 07
青年が再び拳を叩き込んだ壁が、とうとう崩壊する。
壁の向こうの空間にあったのは、大きな蔦の塊だ。腰ほどの高さにまで育ち、壁や天井にまで伸びたその表面には鋭い棘が生えている。壁によって閉じ込められていた蔦は、その崩壊の振動を感じ取ったのか、動物じみた動きで緩慢に先端を擡げた。
「——」
複雑に絡み合った蔦の中心。まるで枝葉で作られた小鳥の巣のようにぽっかりと空いたそこに、彼の探す少女がいた。
その閉ざされた瞼が上がる様子はない。床へ力なく座り込んだ小柄な体には幾重にも蔦が巻きつき、食い込んだ棘によって流れ出た血が白い服に赤い染みを作っている。その腕に抱え込まれた水盆からは絶えず白い光が溢れ出しており、滴り落ちた血に群がる蔦さえなければ神聖な儀式のようにも見えたかもしれない。
「——」
青年の姿をした人外は、思考するよりも前に蔦に手を伸ばす。
ただ目の前の存在を世界から消すために、その手が無造作に握られ——
「やめろ」
腕が音もなく落ち、影となって消える。
無くなった片腕を一瞥したワズは、蔦の塊と彼の間に割り込むように立つ男を見た。
「邪魔だ。どけ」
「聞こえぬか。やめろと言っている」
「——お前も、ユーアの敵なのか?」
人ならざる青年は、感情の抜け落ちた声で問いかける。
その顔には怒りも憎悪も、何もない。
人間ではありえないほどの完全なる無表情は、見る者に原初の暗闇への本能的な恐怖を抱かせる。
尋常でない威圧を向けられながら、しかし盲目の男は一つため息をついただけだった。
「俺とて、ただ魔物に喰われているだけならば斬っている」
「……」
「よく見ろ。蔦の中だ」
数秒ののち、ワズは目を見開いた。絡み合った蔦の中に複数の人間の反応がある。否、人間の反応は蔦の中だけではない。よく見れば、部屋の隅の方にも何人か倒れている。生死は定かではない。
「どうなってる?」
その声に応えるかのように、蔦の塊の一角が蠢き始める。やがて解けたそこから転がり落ちてきたのは、冒険者らしき装いの女だ。興味を失ったように女から離れていった蔦は、するするとその根元——水盆の方へと戻っていくと、そこに居る少女へと巻きつきその体を締め上げた。
「……どうなってる?」
一度目よりも更に訝しげに青年は疑問を零す。
「知らん。だが、知る者なら居る」
そう返し、男は不快げに眉を寄せながら続ける。
「そうだろう——エドウィン」
「——死人は死人らしくのんびりさせてほしいんだけどなぁ」
間延びした、聞き覚えのある少女の声が響いた。
床に転がっていた冒険者の女がゆらりと身を起こす。ゆっくりと開かれたその双眸は金色に染まっていた。
***
「いい感じに死んであげたと思ったのに」
「魔族の領域で魔族を殺せるなどとは思っておらぬ。説明しろ。でなければ、今度は本物の貴様を斬りに行く」
女の体を借りた魔族は、平坦な表情のまま両手を上げた。
「わー怖怖。言っておくけど、その方法を選んだのは彼女自身だから、わたしが何かしたわけじゃないよ」
「方法?」
「わたしはやめた方がいいって言ったんだけどね。彼女が譲らなかったの」
「何を言ってる?」
質問を重ねるワズに呆れたような目を向け、エドウィンはため息をついて振り返った。そこにある蔦の塊を眺めながら口を開く。丁度また蠢いた蔦が、商人らしき男を手放したところだった。
「迷宮の仕組み、知ってるよね。竜脈から純粋な魔力を引いてきて動力にしてる。その力を他のことに使えないかと思って作ったのが、その魔道具——『死蔵の水鏡』」
「……失敗作ということか」
少女に抱えられた水盆を見つめながら魔族は肩を竦める。その後ろではまた蔦が蠢き、中から衛兵の男が転がり出てきた。
「それ、ただ手当り次第に魔力を蓄えるだけでその魔力を取り出して他に使えないんだ。せっかく魔樹まで使ったのにがっかり」
「魔樹?」
「動物じゃなくて植物が元になった魔物のこと。条件が揃わないと生まれないから貴重なのに」
「貴様の魔道具が何故、貴様の管理を離れて人間を襲っている」
「これが盗んだから」
端的に応えた女の足元には、何か黒いものが転がっている。しばらく観察して、それが辛うじて人の形を残した燃えかすだということに気づいた。
「お前が言ってた魔神信仰がどうのって、この魔術士もどきのことでしょ。遊びにすらならない精神操作しか使えないのに魔術士を名乗ってる身の程知らずの羽虫。身の程知らずだからわたしの迷宮で盗みを働くし、身の程知らずだから魔樹に寄生されて自滅する。燃やされて死ぬなんて、死に様まで羽虫みたいだね」
指の一本さえ残さないほどに徹底的に焼かれた死体を見下ろし、魔族は鼻を鳴らす。また蔦が蠢く。
「ここにいる人間は、魔樹に寄生されたこれの精神操作で連れてこられた。魔術士じゃない人間って精神操作にすごく弱いからね。魔樹は魔力を吸うけど普通の植物みたいに水がないと生きていけないし、魔物だから水より血とかの方が好きなんだ。そうやって人間を糧に大きくなって————」
「どうでもいい」
滔々と語り続けていた女が、不愉快そうに眉をひそめて黙り込んだ。金の瞳でこちらを睥睨する女に目もくれず、その向こうで水盆を抱える少女をじっと見つめたままワズは続ける。
「おれが知りたいのは、どうやったらユーアをあそこから助けられるのかだけだ」
彼の見ている前で、蔦に捕らわれていた最後の一人が解放された。空間に広がっていた全ての蔦が絡みついた魔女は、一瞥しただけでは人であるかも分からないほどの有様だ。
ワズの言葉に、女の体を借りたエドウィンは首を傾げた。
「そんなの——あるわけないでしょ」
「…………………………何を言ってる?」
その口から出てくる言葉が何一つとして理解できない。
出来の悪い子供を見るような眼差しを向けて、魔族は首を振る。
「お前、本当に物を知らないんだね。あの羽虫は一時的に留まる殻として寄生されてただけだけど、今の彼女は魔樹の宿主になってる。一度根を張った植物が動かないように、魔樹は一度宿主を定めたらもう動かない。そして、魔力を吸いつつ宿主を飼い殺しにする」
女の手に組み上がった術式が、一振りの黄金の剣を創り出す。
膨大な魔力の凝縮された片手剣を軽く手の中で弄びながら、その金の瞳が蔦の中にいる少女を見る。
「宿主を見つける前の魔樹は葉っぱ一枚からでも再生するから殺し尽くすのが難しいけど、宿主を得た魔樹を殺すならもっとずっと簡単な方法がある」
一歩。
その足が少女の方へと踏み出したのを見て、ワズは即座に剣を抜いた。
容赦なく振り下ろされる剣にちらりと目をやり、しかし女は避けるような素振りも手に持った剣で受け止めるような素振りも見せない。
ただ気だるげに、その口が開いた。
「『業火斬り』」
「——俺に指図をするな」
振り下ろしたはずの剣が手から弾き飛ばされる。
間に割り込むようにして一息に剣を振りぬいた男は、その視力のない目を伏せたままさらに踏み込む。
剣を失って宙をさ迷う右手を斬り飛ばし、その刃はそのまま青年の首を斬り落とす。
ただ壊すだけではない、明確に術式を狙って破壊した斬撃が青年の体を一撃で砕いた。
「やめろ……」
人間の姿を失い、不定形の暗闇になる前に黒い大狼へと変じたワズの口から言葉が洩れる。
漆黒の視線の先には、魔女を包む蔦の目の前に立つ女がいる。
毛皮に覆われた大きな体が宙を舞い飛び掛かるが、その爪もまた剣に受け流される。
その剣を構える女の動きが、ひどく遅く見える。
「殺せばいいんだよ——宿主を」
「やめろぉぉぉおっ!!」
その金の刃が、水盆ごと蔦の塊の中心を刺し貫く。
金色の魔力が弾け、その余波に撫でられた蔦が急速に枯れ果て朽ちていく。
はらりと解けていく蔦の中心に、少女が居た。
俯いたその口から、ごぽりと血が溢れる。
その胸の中心から刃がゆっくりと引き抜かれれば、小柄な体はぐらりと揺らいで力なく後ろへと倒れていく。
乱れた前髪の下で、薄く開かれた白銀の目から光が消える。呼吸が止まる。
魔女はもう、動かない。
軽く息を吐いた女が手の中の剣を消して振り返った。
「わたしの仕事はこれで終わり。あとは任せるよ」
その目から金色の光が消え、冒険者の女はその場に崩れ落ちた。




