残影の迷宮 05
足元が安定していることを靴底で確かめ、手招きをする。
「大丈夫よ、来て」
後ろの足場で待っていたミリィは穴を飛び越え、こちらの足場へと着地した。ふらり、と後ろに揺らいだ華奢な体を慌てて引き寄せ、レイネは安堵のため息をつく。
本音を言えば一度迷宮を出てこの少女を安全な場所に連れて行きたかったのだが、いくら何でもリードウッドたちを置いていくわけにはいかない。ここの迷宮は人里離れた山奥のため、外も安全とは言えないのだ。結果として、より一層の注意を払って再び奥へと進むことになった。
振り向けば、殿を務めていたワズが危なげない足取りでこちらへと着いたところだった。少女に寄り添うレイネを相変わらず物言いたげな目で見つめてくる青年は、彼女が視線を鋭くすればしょんぼりと肩を落として口を噤む。
ワズはミリィのことをよく思っていないようで、今もその漆黒の瞳が向けば無口な少女は顔を強ばらせて後ろに隠れる。敵意を向けられて怖いのだろう。視線を遮るように動いたレイネは、恐る恐るこちらを見上げる少女に微笑みつつ先へと進んだ。
「魔物がいる」
「大きいわね……多分、下への通路を守るためにいるんだと思う。こういう場所の魔物は大抵、通路に出てこないようにこういう大きな部屋に閉じ込められてるものよ」
鉄扉についた格子から部屋の中を覗き込みつつ、ワズとレイネは言葉を交わす。迷宮内では、こういった扉の中と外は魔術で完全に隔絶されているため、声をひそめる必要はない。
広間のような室内には、山羊らしき角を持つ魔物が二足で立っている。まるで石像のようにぴくりとも動かずに直立しているのは、活動状態ではないからだろう。恐らくは、こちらを感知した瞬間に動き出すはずだ。見上げるほどに大きな魔物は、人では到底持つことのできない巨大な大斧を二本、引きずるようにそれぞれの手に持っている。武器なのだろうが、魔物である以上他に何かしらの攻撃手段を持っていないとは限らない。警戒は必至だ。
「……あなたはあれを倒せる?」
「レイネは一緒に戦わない?」
「任せ切りにしたくないのは山々なんだけど……ミリィを置いていけないわ」
戦いに巻き込まれる可能性のある室内にミリィを連れていくことはできないが、かといってここに一人で置いていくと通路を徘徊する魔物に襲われる可能性がある。役割分担をするのなら、ワズに魔物を任せてレイネがここでミリィを守るというのが最適だろう。
しかし青年は相変わらず困ったような、あるいは不可解そうな顔でレイネを見つめる。煮え切らない態度に彼女が眉をひそめた所で、ぞわりと背筋が粟立った。
「――え?」
格子越しに、握り拳よりも大きな目がこちらを見つめている。
鉄扉が紙のように引き裂かれるのと、レイネを抱えたワズが大きく後ろへ飛び下がるのが同時だった。
「レイネ、無事か?」
「あ、ありがとう……それより、ミリィは!」
服の裾を引かれて振り返れば、そこに少女が立っている。自分でここまで逃げられたようだ。ほっと胸を撫で下ろしつつ、すぐさま前を向く。
魔物はぽっかりと口を開けた出入口からこちらを睨んでいる。大きな体躯もそうだが立派な角が引っかかってしまい、どうしても通路へと入ってくることはできないようだ。
「どうしてこっちに気づいて……ワズ、任せられる!?」
「レイネが危ないから駄目だ」
「何言ってるの? 通路にいる魔物なら私でも相手できるわよ!」
「そうじゃなくて――」
言葉を途切れさせた青年は唐突に鞘ごと片手で剣を抜く。無造作に薙ぎ払ったそれに、何か大きなものがぶつかって弾かれた。ガゴォン、と鈍く重い音と共に落ちたのはひしゃげた鉄扉だ。
怒りに唸り声を上げた魔物が地団駄を踏み、どうにか届かないかと大斧を通路に突っ込んで動かす。今はそれで済んでいるが、そのうち痺れを切らして斧を投げるか、自分の角をへし折ってでも強引にこちらに入ってきそうな勢いだ。
「ワズ!」
焦りと苛立ちの滲んだ声で名前を呼ぶレイネに、青年は目を伏せ無言で首を振る。痺れを切らした彼女が思わず手を上げかけたところで、苦悩の表情を浮かべていたワズがぱっと顔を上げる。
きょとんと目を丸くした青年は、魔物のいる部屋の方を見て口を開く。
「あ、いた」
その瞬間、鈍い音が響いた。
魔物が不思議そうに唸り声を上げる。どうして自分の視界がこんなにも低くなっているのか、と。先程の怒りさえも忘れて目を瞬かせ、そのまま光を失った。
中途半端に屈んだ状態で立ち尽くす魔物の首から下の体が、ゆっくりと傾いでいく。床に倒れ込む前に、その体は激しい炎に包まれる。かなり離れているこちらさえ焼き焦がすような熱気に、レイネは腕で顔を覆って庇った。
迷宮の仕組みより遥かに早く塵となった魔物が消え去り、その後ろに立っていた人物が姿を現す。
「ユーア」
「リードウッド!」
腕を組むローブの少女と、少し離れてその後ろに立つ見慣れた髭の男。ユーアは相変わらず深くフードを被っていて表情が窺えないが、リードウッドは何故か苦い顔でこちらを見ている。
「レイネ、」
一歩前に踏み出して何かを言おうとした男は、少女の一瞥で押し黙る。再び前を向いたその視線がこちらへと向けられたことが感覚で分かった。
「その後ろの子供は何だ?」
「……あ……この子はミリィって言うの。あなたたちと分断されてから保護したのよ」
「そうか。……ワズ」
張り詰めた雰囲気に呑まれかけていたレイネの返答に、ユーアは平坦な声で頷く。相手の意識が隣の青年へと移ったのが分かった彼女は、なぜか爪が食い込むほど握りしめていた手に気づいて緩める。
「ここでのお前の役目は何だ?」
「リードウッドとレイネの護衛をすること」
「そうだな。そちらはお前に任せる。私は、他にやることができた」
「わかった」
事務的でさっぱりとした、しかしどこか胸騒ぎのする会話。
何の話をしているのか、と聞くことがなぜかできない。半ば無意識に息をひそめて様子を窺うレイネに、不安げなミリィがくっ付いてくる。安心させようとその頭に伸ばした手が空を切った。
「――見つけたぞ、ミレヴィナ」
すぐ傍らで、そんな囁きが聞こえた。
真横で爆発が起きたかのような轟音がレイネの耳を叩く。
瞬きの間に目の前に近づいてきた魔術士の少女が、傍らにいた少女を吹き飛ばしたのだと理解するまでしばらくかかった。
「な、にをしてるのよ……っ!」
庇うように前に出ていたワズを押し退けて、レイネは少女に掴みかかった。フードが外れて現れた白銀の瞳に、怒りに歪んだ己の顔が映っている。
「あの子はただの女の子なのよ! それを殺すなんて!」
「……すまんお嬢ちゃん、目を覚ましてやってくれ」
遠くでリードウッドが何かを言っているが耳に入ってこない。青年によって引き剥がされた彼女がさらに怒鳴ろうとしたところで、ぴたりと少女の手が額に触れる。
「触ら……っあ、え……?」
ぱちん、と泡が弾けたような感覚がした。
人里離れた山奥の、魔物が闊歩する危険な迷宮の中だ。
だというのに、どうしてあんな戦う力のない少女が生きていられたのだろう。どうして、その服にはほつれも汚れもなかったのだろう。その体には怪我一つなかったのだろう。
どうしてそれを、ただの一度も疑問に思わなかったのだろう。
「目が覚めたか?」
「あ……私……」
「――ふふ、びっくりした」
まるで砂糖菓子のような、甘い甘い声が響いた。
足音はない。なぜなら、彼女は靴を履いていない。
「ミリィ……」
「どうしたの? どうしてそんな怖いものを見るような顔をしているの? わたくし、何かおかしい?」
警戒心の強い、無口な少女はもういない。
崩れた壁の中から現れたそれを見て、レイネは生理的な嫌悪感に思わず顔を引き攣らせる。きょとんと、なんでもない無邪気な少女のような顔で首を傾げるそれに答えたのは、もう一人の少女だった。
「首が曲がってるぞ」
「あら、ほんと」
ごきり、と明らかに人体から発せられてはいけない音と共に、斜めに傾いだ頭が正しい角度に戻る。
己の頭から手を離したそれは、ユーアを見つめてにっこりと笑う。その笑顔は親しげだというのに、まるで捕食者を相手取るようにひどく危機感を煽る。
「ふしぎ、ふしぎ、ね。どうして分かったのかしら? 前に来た人達はみんな気づかなかったのに」
両指を合わせて楽しげに小首を傾げるそれに、黒髪の少女はその白銀の瞳を細めて鼻を鳴らす。
「簡単な話だ。お前からは死肉の臭いがする」




