閑話・雨夜
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この話は、本編開始時点から約10年前の話です。
雨が降っていた。
暗い窓の向こうに打ち付ける雨粒を、家主である老人はただ眺める。片手に持ったカップに豊かな髭で覆われた口をつけた老人は、いつの間にかそれが空になっていることに気づいて眉をひそめた。
雨音に閉ざされた静寂を破るように、部屋の外からカランと音が鳴る。
来客を告げる鐘の音。
しかし、老人が椅子から立ち上がる素振りはない。一瞬そちらに目を向けたきり、傍らの冷めつつある茶をカップに注いでそれを一口飲んだ。
無遠慮に家へと入ってきた人間の足音が、老人のいる部屋へと近づいてくる。やがて軋む音と共に部屋の扉が開かれ、その人物が口を開いた。
「出迎えくらいしろ。曲がりなりにも店だろう」
「こんな日にわざわざこんな店を訪ねて来る人間なんぞ、お前さんくらいじゃろうが」
後ろ手に扉を閉じつつ、ローブの人物はため息をついてフードを下ろした。
現れたのは、美しい白銀の双眸。思わずはっと息を呑むほどに整った顔立ちの少女は、呆れ混じりに眉をひそめつつ濡れてへばりつく前髪を掻き上げる。
ぽたぽたと雫を滴らせるその姿はいつもの超然とした雰囲気を鈍らせ、代わりに瑞々しい妖艶さを醸し出す。例えるのならそれは、綻ぶ寸前で氷に閉じ込められて時を止めた花のような、未熟であるままに完成された美だ。しかしながら、それに心を動かされる者は当然ここには居ない。
「何で濡れてきたんじゃ。せめて外で水気を飛ばしてこんか。紙が湿気るじゃろうが」
「そういう気分だったんだ。水気をどうにかすればいいんだろう?」
顰め面の彼にそう返し、少女は飾り紐を解きながら黒い髪を手で漉く。その指先から生まれた温かい風が、髪や肌、服を撫でてゆき、見る見るうちに水分を飛ばしていった。水気を含んだ空気はそのまま霧散することなく、水の球になって彼女の周囲を漂う。足元の床を含めて全てを乾かし、残った水の球を無造作に台所の流しに投げ捨てたところで、魔女は一つ伸びをした。
「降られるのは悪くない気分なんだがな。後始末をするのはどうにも面倒で困る」
「降られるのはお前さんの勝手じゃが、わしを巻き込むでないわ」
「分かった分かった。もうしない」
本当に嫌そうな老人に苦笑しつつ、彼女は椅子に腰掛けた。
雨はまだ止まない。しばらくは、雨音と老人が書き物をする音だけが部屋を満たす。
顔を上げないままに、老人が口を開く。
「中央の森が騒がしくなっとったようじゃの。おかげでこの国にも魔物が逃げてきた。まあ、そう大した被害はなかったようじゃが」
「そうか、迷惑をかけたな」
「……」
その返答に一瞬だけ手を止め、しかし何も言うことなく再び動かし始める。黙り込んだ彼を気に留めず、頬杖をついて紙の上に紡がれていく過去を眺める。
「30年前の東部の話か? こちらでは大まかなものしか伝わっていないだろうに、よくもそこまで詳細に書けるものだ」
「騒ぎの中心人物についてよく知っておるからの。噂話とて、ある程度の傾向はある。状況や思想、その他の諸々を組み合わせて限りなく真実に近いものを見出すのが面白いんじゃ」
「その中心人物には直接話を聞かないのか?」
揶揄するような物言いに、老人は髭を揺らして首を振る。
「必要ないわい。お前さんに聞いたら、書いちゃならんもんまでうっかり書きそうじゃろうて」
「また商会に製本と流通を任せるのなら、それもそうか。それにしてもよくあそこを頻繁に使う気になるものだ。まるで覗き見をされているようで不愉快だとは思わないのか?」
「わしは長いことこの国から動いとらん。覗き見されて困るものもなんぞ大してありゃせんわい。僅かな困るもんも、あの小僧から隠す程度造作もない。もっとも、あやつが一番知りたいのはお前さんについてじゃろうがな」
「知れるものなら好きにすればいいが、わざわざ教えてやる気もないな」
鼻を鳴らす魔女が浮かべた愉しげな笑みに、話題の人物へ少しばかりの同情を抱きながら、老人は冷めきった茶を流し込んだ。
***
「――それで、そろそろ本題に入ったらどうなんじゃ。50年も訪ねて来んかったお前さんが、ただ世間話をしにきたこともないじゃろう」
新しく湯を沸かす準備をしつつ、後ろでくつろぐ少女に声をかける。一瞬だけ、その雰囲気が鋭く尖ったのが分かった。
「……ああ。しばらく東の大陸に行くことにした」
「まったく、他大陸にまで逃がすなんぞお前さんらしくもないの」
「そうだな。……今回の件は、完全に私の油断と驕りが招いた失態だ。だからこそ、必ず滅ぼしきる。今回のような方法を取れば、私が大陸を離れてでも徹底的に殺しにくると理解させる。でなければ、あれはまた同じ手をとる」
淡々と、決定事項のように魔女は続ける。否、それは彼女にとって決定事項であり、努力して成し遂げるほどのことではない。可能であり、実際にやる。そう言っている。
ため息をついて、老人は振り返る。
「……全く、一体何年向こうにいるつもりじゃ。東には魔術がない。そこで魔術を、しかもお前さんが使うとすれば、どれだけ影響を与えることになるか」
「後始末も含めて……まあ、10年といったところだろう」
「長いのう」
「急いでどうにかなることでもないだろう。これでもできるだけ早い年数を提示したつもりなんだが?」
「いいや長い。どうやら――わしの終わりはまた遠のくことになりそうじゃの」
不満げだった魔女は、その言葉に大きく目を見開く。呼吸さえ止めてしまったのではないかと思うほどに硬直していた彼女は、ややあって静かに目を伏せた。
「……そう、か」
「書ききったからの。待てばいずれは新たな歴史が紡がれることもあろうが、そこまでして書こうとは思わん」
「……お前らしいな。どこか遠く、乾いているところが特に」
「確かにわしはもう干物みたいなもんじゃが」
「そういう意味ではない」
小さく笑って首を振り、魔女は大きく息を吐いて目を閉じる。
「そうか……居なくなるのか」
「まだじゃがの。お前さんが向こうから戻ってくるくらいまでは、待っとってやるわい」
「すまない」
「いい、いい。お前さんにしおらしくされると落ち着かん」
鬱陶しげに手を振って前へと向き直り、新しい茶の用意を進めた。
***
「ああ、あの娘のところにも顔を出して行くのを忘れんようにな。今頃は準備を済ませて、お前さんが来るのを今か今かと待っておる頃じゃろう」
熱い茶を啜りながらそう口にした老人に、解いていた髪を結い直していた少女は眉を下げる。
「……このまま東へと向かうつもりだったんだが」
「一日くらい遅れようとそう変わらん。お前さんが今回何を取りこぼしたのかは知らんが、あの娘は確かにお前さんに救われた一人でお前さんのことを好いとる。もう少し頻繁に訪ねてやれ。友人というのはそういうものじゃと、お前さんもよく知っておろうが」
「そう言うならお前も来い。あの子はお前にもよく懐いているだろう。顔くらい見せに行ってやれ」
「……仕方ないの」
ため息をついて、老人は身支度を始める。ふ、と笑みを零しながら、彼女は店を閉めるために部屋を出た。
2/15 表記揺れを修正




