西の魔術士たち 17
「――あれ?」
宿屋の娘である少女は、帳簿を整理していた手元が急に暗くなったことを不思議に思って顔を上げる。昼間だったはずの窓の外は暗く、まるで夜のようだ。何か外であったのだろうか。椅子から立ち上がった少女は恐る恐る扉を開き、瞠目した。
「……わ」
初めに目に映ったのは、街中に咲く美しい花だ。彼女の知らないその花は白く光り輝き、驚く人々の顔を照らしている。
足元を埋め尽くす花に目を奪われていた彼女は、視界の隅を通った小さな何かに気づいた。それは宙を泳ぐ魚だ。美しい色合いの小さな魚は、人懐っこい仕草で彼女へと寄ってくる。思わず手を伸ばしたその指がするりとすり抜けたことで、彼女は思い出す。今日は魔女様が人々に魔術を見せてくれる日だ。おとぎ話にしか聞いた事のないものを今自分が体験しているという事実に、彼女の心は幼い子供のように弾む。
魚を指先で遊ばせつつ石段に腰を下ろした少女は、この夢のような光景が終わってしまうまでここに居ることを決めた。
***
「…………お前、この子に何をした?」
白い花畑となった屋上には目もくれず、意識のないアルマを抱えたシゥルドは努めて冷静さを保ってそう問いかけた。
屋上の中心、花に埋もれた机の上に見知らぬ少女が立っている。服装は侍女のものとよく似ているが、シゥルドが知っているものとは所々の意匠が異なる。静かに浮遊するランタンに遮られ、笑みの浮かんだ口元までしか見ることができない。
「――そう怒らないでくださいよぅ、」
その指がランタンのハンドルを掴み、ひょいと横へ退かす。軽く首を傾げて顔を覗かせた少女は、人を食ったような笑みのまま続ける。
「少しばかり魔力を頂いただけです。ワタシには自分で魔力を形成する機構が備わっていないので」
「……魔族か?」
ランタンから洩れる光で鮮やかに輝くその若葉色の髪を見て、シゥルドは呟く。半ば独り言のようなそれに、少女は心外だとばかりに唇を尖らせた。
「むぅ、あんな奴らと同一視されるなんて心外です……間違いとも言い難いのが腹立たしいですけどー……」
「ならお前は何者だ?」
「――人工魔族だ」
前ではなくすぐ後ろから聞こえた答えに、シゥルドは思わず振り返る。剣の柄に手を添えたワズは、その感情の読めない漆黒の瞳でじっと少女を見つめている。
「前に似たものを見た」
「へぇ……?」
口角を上げた少女はシゥルドからワズへと目を向け、不意に眉をひそめた。
「……人間でも魔物でもない……暗闇? 何でこんなものが自我を持って存在してるんです……?」
「?」
「んー、まあ今は後回しでいいです」
何やら自己完結した少女は、おもむろにその場でくるりと回る。途端、ふわりと広がったスカートに呼応したように、足元に咲く花が一斉に舞い上がった。
「っ!?」
視界が真っ白になるほどの勢いに、シゥルドは咄嗟にアルマを体で庇うようにして強く目を閉じた。やがて瞼の向こうで光が収まる。そっと目を開いた彼は、腕の中の主に怪我がないのを確認してから顔を上げる。
そこでは机の前に立つ人外の少女が、スカートを摘んで片膝を曲げ、深く頭を下げていた。チリン、とその左耳についている小さな鐘が鳴る。手本のように洗練された一礼から顔を上げ、少女は薄い微笑みを浮かべた。
「初めまして、ルベーニアの子供たちよ。ワタシの名前はエンべル。あなた方の選択を見届ける者です」
***
朝焼けに染まる空に、吐き出された紫煙が溶けていく。
バルコニーの手摺に寄りかかり、男はぼんやりと物思いに耽っていた。思考を巡らせつつ庭園を眺めていた彼は、庭師の老人が彼を見上げて丁寧に一礼しているのに気づいて微笑む。ひらひらと手を振って応えれば、彼が物心ついた時からこの屋敷に仕えている老人は柔和に笑い、もう一度礼をして仕事に戻っていった。
振った手で頬杖をつき、再び煙を吸い込んだ男は口を開く。
「魔女様、そろそろ目は覚めた?」
「……ぅぅ……頭痛い」
「わざわざこんな朝から待ってる必要なかったんじゃないか? いくら午前中って言ってももう少し陽が昇ってからだろ」
「分からないじゃないですか……」
テーブルに突っ伏していた女は顔を上げ、ほとんど開いていない目で彼を見上げる。知らない人間が見れば、昨日王城の広間で大立ち回りを演じてみせた魔女と同一人物だとは思わないだろう。もっとも、この屋敷に知らない人間が入ってくることなどほぼないが。
「彼女がどういう方なのか分かりませんし……会うときにはちゃんとした姿を見せたいんですよ……うぅ、眠い」
再び突っ伏した主を見て、シゥルドは肩を竦めた。バルコニーを離れて一度廊下へと出た彼は、控えていた侍女に軽食の用意を頼む。
「お二方の分でよろしいですか?」
「……あー、悪い。三人分にしてくれ」
不自然な命令。しかし長く屋敷に仕えている侍女が異論を唱えることはない。一礼をして準備に向かっていく背を見送って部屋の中に戻った彼は、そこに座っている少女の姿を見て眉をひそめた。
「……本当に見えないんだな」
「信じてなかったんです?」
「全く」
「信用ないですねー……さすがのワタシも少しは傷つくかもしれませんよぅ?」
「知るかよ」
冷たいですねー、とぼやく人外の少女――エンベルは、半分眠っている魔女の旋毛を指先でつついて遊んでいる。その手をたたき落としつつ椅子に腰を下ろしたシゥルドの前で、少女は相変わらず中身のない笑みを浮かべている。
「……呼ぶまでどっかに行っててくんねぇかな」
「やーですよぅ。ワタシは面白いのが好きなんです」
「別に面白いことなんてない。午前中に来客の予定があるだけだ」
「あの黒いのですー?」
「ワズもだが、それともう一人。あいつの連れの流れの魔術士だ。一緒に居るつもりなら失礼なこと言うなよ。魔女様が胃痛で死ぬ」
「黒いのの飼い主です?」
「……言い方ってものがあるだろ」
窘めるシゥルドに、エンベルは不思議そうに首を傾げた。
「だってあれ――人間じゃないですよぅ?」
あけすけな言葉に思わず顔を顰めたが、それでも変わる様子のない少女の表情を見た彼は溜息をついた。
「知ってるよ。でも、少なくともあいつはしっかりと護衛の仕事をした。ならそれでいいだろ。それに――」
彼が続けようとしたとき、少し慌てたようなノックが部屋に響いた。椅子を立ったシゥルドが扉を開ければ、先程の侍女が困った表情を浮かべている。
「何があった?」
「シゥルド様、それが――」
***
ゆさゆさと強めに揺らされて、アルマの意識はようやく微睡みから浮上する。
「……んー……」
「早く起きな魔女様」
「おきてます……」
「突っ伏してるのは起きてるって言わないんだよ」
揺さぶっていた手が一度離れていき、もう片方の手と共に彼女の頭を両側から挟んだ。頬を潰されているせいで唇を尖らせたような顔になったアルマは、そのまま頭を上げさせられるのに身を任せる。眩しさで薄目になった彼女の視界に、窓を背にして向かいに座る小柄な人影が映った。
「……ぅ、エンベル……?」
軽く首を傾げた相手が、アルマを通り越して後ろへと目をやる。
「まだ寝ぼけているようだが」
「……………………あ゜っ」
その冬の朝の空気のように凛とした声に、一瞬で意識を覚醒させた彼女の喉から奇声が洩れた。後ろに立っている男が軽く吹き出したのが聞こえる。
「さ、魔女様。今目の前に座ってる人の名前、正しく呼んでみようか?」
「っ、ユーア、さん……!?」
絞り出したような彼女の声に、黒髪の少女は何ということもなく頷いた。
「ああ、久しい……という程でもないか。よく寝ていたな」
「ぅ、ぐ……大変申し訳、」
「いや、気にするな。準備ができているようだったから訪ねたが、もう少し遅い時間にすればよかったか」
後の言葉は半ば独り言のようだったが、それが尚更にアルマの羞恥を煽る。無言でぷるぷると震えていると、不意に後ろの男の笑い声が耳に入ってきた。すん、と彼女の顔から表情が抜け落ちる。
「すみません失礼します」
早口に断ってさっと立ち上がったアルマは、壁に縋り付くようにして笑い続けている男へと静かに近づく。
「んぐ、ふ、ふははっ……何今の声どこの言、ごっ!」
「先に起こしなさい、シウ!!」
魔女の渾身の右拳が、護衛の脇腹へと的確に入った。




