西の魔術士たち 08
何も書いていない紙を見つめて、ワズは考え込んでいた。その手には一本のペンが握られている。宿屋の主人から借りたものだ。
既に陽は沈んで部屋には夜の帳が下りているが、暗闇でも問題なく物が見えるワズはそれには気づかない。宿に戻ってきた昼過ぎから今まで、彼はずっと紙に書く内容について悩み続けていた。
発端は、別れ際にシゥルドと交わした会話だった。
『そういや、一時的に護衛をするって話はそのユーアさんとやらにしたのか?』
『してない。昨日の夜、ユーアは戻ってこなかった』
『一度伝えておいた方がいいぞ。あんたが西部に残るつもりだって勘違いされたら困るだろ?』
『……それはすごく困る。でも……』
『ん、まあいつ戻ってくるか分からないもんな。なら――』
「――かきおき、をする」
言葉の意味を確かめるようにぽつりと呟いて、ワズは眉を下げた。文字の書き方は知っている。書くべきことも分かっている。だというのに彼の手が止まったままなのは、この状況が二人のすれ違いを発端としているからだ。
あっさりと離れることを提案した彼女が何を考えているのか、ワズには分からない。話したいことはたくさんあるのに、それを読んだ彼女がどう思うかと考えるだけで何も書けなくなってしまう。
俯いた彼の視界に、未練がましく握ったままのペンが映る。今のワズを机に引き留めているのは、『ユーアと離れたくない』というその気持ち一つだった。
ゆっくりと、極めて緩慢な動きでペンを握った手を動かす。
アルマの護衛をすることになった。
でもまだ決めてない。
決めるまで待っていてほしい。
まるで見本のような、特徴のない文字が紙の上に並ぶ。それを確かめるように何度も目で追って、やがてしょんぼりと肩を丸めたワズはペンを机に置いた。読んでもらいたいような読んでもらいたくないような、複雑な気持ちをその場に置き去りにして椅子を立つ。
もう眠る時間だ。とはいえ彼という存在に睡眠は必要ないため、するのは眠るふりだ。朝が来るのをじっと待つために寝台に向かった彼は、そこに置いたままの包みを見てもう一つの困り事を思い出した。
「……着替え」
ごそごそと懐を漁ったワズは、一冊の大きな本を取り出す。それはあまりに彼が言葉を知らないのを見かねて、ゼレムナであの老人が譲ってくれた辞書だ。ぱらぱらとページを捲って目的の記述に辿り着いたワズは、首を傾げてしばらくその文章の意味を考え込む。
「服を……替える?」
そういえば、街にいたアルマと城にいたアルマは服が違かったような気がする。シゥルドもだ。ユーアも宿で眠るときはローブを脱ぐし、ゼレムナの城で会ったときには違う服だった。存在としては同じなので気にしていなかったが、もしやそれは人間にとって重要な違いなのだろうか。
「替える……」
ワズは自分の体を見下ろす。片手で襟元に手をかけた彼は、そのまま無造作にぐいと引っ張った。服が伸び、首筋から胸元までが大きく空気に晒される。
だが、その下に本来あるべき人の肌はない。
あるのはただ――空虚でありながら濃密な暗闇だけだ。
反対の手をそこに突っ込んでみる。抵抗なくするりと体の奥深くへ入っていくが、彼の表情には苦痛どころか不快感すらない。引き抜いた手をまじまじと見て、ワズは不思議そうに自分の体を見やる。
着替え、ともう一度繰り返して、首を傾げた。
***
「…………駄犬、今が何時なのかお前は理解する気がないのかしら?」
***
「おはよう、ちゃんと着てきたか。……ってどうしたんだ?」
「怒られた……すごく怒られた……」
「……よく分からないが、もし護衛ができそうにないなら休んでもいいよ」
「いい、ちゃんとやる……自分で選んだ……」
***
時間は少し遡る。
ワズが宿へと帰った頃、アルマは険しい顔で書類に目を通していた。
「それはツツの偵察報告?」
「シウ」
部屋に戻ってきた男が、机に腰掛けるように寄りかかって首を傾げる。
「はい、先程キーバルの大臣から渡されました。それと遠回しにではありますが、同盟軍の攻勢の詳細を教えてほしいと。せめて物資だけでも援助できないかと考えているようですね」
「あの人の嫌味に動じずに話の要旨を読み取れるのは魔女様くらいだよ……尻込みしてんのは向こうの長なんだから、こっちに言われても困るよな」
呆れと不満の交じった表情で呟かれた言葉に、彼女は無言で肩をすくめた。
今のキーバルで政治を動かす立場に居るのは第一王子だ。王には他に子供がおらず、普通に考えれば第一王子がそのまま王太子となるが妥当だ。しかし、王が病床にありながら未だに第一王子は立太子していない。それは何故なのか、といえば。
「まったく、中途半端な和解案が満場一致で却下されたら、今度はキーバルの軍の損失がどうこうって話だ。軍が何のために存在すると思ってるんだ? 優柔不断もいい加減にしろよな。おかげで、ますますキーバル国内の支持が魔女様に寄ってくる」
「末端はともかく、大臣たちですら私を頼ろうとするのはさすがに彼の為政者としての素質を疑わざるを得ません。他の同盟国は、既に動員できる兵と物資について調整している段階ですからね。このままではキーバルを除いた同盟軍になってしまいますし、痺れを切らして軍から離反者が現れる可能性すらあります。……そういえば戻ってきてから見かけていないんですが、彼はどこに行ったんです?」
「聞いて回った限りじゃ知ってる奴はいなかったよ」
「……」
額に手を当てて、アルマは大きなため息をついた。確かにキーバルは内陸寄りにあってツツの脅威は低いとはいえ、いくらなんでも危機感が低すぎる。これでは盟主国としての立場がない。このまま中途半端な態度を続けるのなら、貿易や外交にも影響が出てくるのは明白だ。
「どうせなら、私を利用して民の支持を集めるくらいはしてほしいものですね。一体、あの人は何を考えてるんでしょう」
「考えるだけ無駄だろ。それよりも今はこっちだ」
シゥルドが差し出した書類を受け取って、さっと目を通す。
「私たちを襲ってきた盗賊についてですか」
「ああ、まだ生きてた奴は第三が全員ひっ捕らえてきてくれたからな。中々に面白い話が聞けたよ。どうやら奴ら、あの日にあの道を通る馬車を狙うよう指示されていたらしい。襲撃を受けたのは魔女様たちの他には商人が二組。そのどちらも、言っちゃあ何だが特別なものは運んでいなかった」
「その商人たちにはそれとなく被害の補填をお願いします。偶然とはいえ迷惑をかけました」
「了解。……んで、誰だと思う?」
その含みを持たせた問いかけに、魔女は目を細めて男を見上げる。
「私がゼレムナを訪問する日程は、城の内部でも一部にしか知らされていませんでした。しかし、厳密に箝口令を敷いていたわけではありません。いざとなったとき私がいないと知って動揺が広がるのを避けるため、ある程度情報が広まるのは許容していました」
「ああ。それでも内部とは限定できる。さすがにそんな内容を城下に広めるような奴がいたら、第二が勝手に調査を始めてただろう」
「その上で盗賊を手引きできる者ですが……ひとまず第三は除いていいかと」
「自作自演っていう考え方もできないわけじゃない。だが、第三が魔女様に悪意を持ってるのなら今までにいくらでもやりようはあったし、さすがに疑いを避けるためにこの時期に腕を折るとは考えられない。俺も違うと思う」
「今の段階で犯人像を絞るのは中々に難しいですね。あの辺りは馬で走れば大した距離ではありません。あとは……盗賊にリスクの高い仕事を引き受けさせる交渉手腕、でしょうか?」
「どうだか。俺が話した限りじゃ、あいつらは大金さえ積めば何でもやりそうな感じだったよ。盗賊としてはだいぶ馬鹿な部類だ。この件がなくても、そのうちやりすぎて捕まってただろう」
「そうですか……」
西部には、線で区切った明確な国境というものが存在しない。西部の人々にとっては城壁に囲まれた王都の中が実質的な『国』であり、その外で起きることは余程の事件でなければ国は関知しない。そのため、城壁の外へと出るときには護衛として傭兵を雇うのが基本だ。
各国が持つ武力は決して大きくはない。国の庇護下に居たいのなら城壁の中で生活するのが当然であり、その外で獣や盗賊に襲われたとしても自己責任となる。これも、西部同盟が点在する小国の集まりである故に抱えている欠点だった。
盗賊を完全に排斥しようとすれば、仕事を失うことになる傭兵が大反対する。最悪、盗賊と傭兵が結託して国々へと牙を剥くことさえ有りうるため、よほどの悪質な犯罪でなければ黙殺するしかないのが西部の現状だ。
「さすがに城内で襲われることはないと信じたいが、魔女様も用心するようにしてくれ。まあ、あいつが居るなら大抵は大丈夫だと思うが」
「……あんな突拍子もない形でワズさんを引き入れるとは思いませんでしたよ。そんなに気に入ったんですか? ユーアさんと面識のないあなたが、ここまで彼を信頼する理由もないと思うんですが」
「まあ、少し思うところがあってな。でも丁度よかったろ? 俺もずっと魔女様の近くに居られるわけじゃないし」
何でもないように付け加えられた言葉に、アルマは小さく息を呑んだ。
「……シウ、私は――」
「ん?」
穏やかに首を傾げるその表情に、彼女は思わず言葉を詰まらせた。僅かな葛藤ののち、目を伏せて小さく首を振る。
「……いいえ、何でもありません。あなたの言う通り、しばらくは城内でも気をつけるようにします」
「それがいいよ」
彼女の頭に軽く触れ、護衛の男は少年のように微笑んだ。




