閑話・咎
ドアノブに触れようとした手が止まる。
一度怖気付くように握りしめて、しかしゆっくりと開いた指先がその重い扉をそっと開いた。
「…………………………………………」
月光だけが差し込む暗い部屋。そこには幾人もの人間が横たわっている。
床に引かれた布の上に、一人ずつ。整然と並べられたその誰もが動かない。
動くことはないのだ。もう二度と。
湧き上がる感情を抑え込んだ彼は静かに黙祷をして、部屋へと足を踏み入れる。砕かれた骨も、裂けた腹も、潰れた頭も全て、丁寧に直された彼らは、穏やかな表情で目を閉じている。
それが死者にとって救いとなるのかは分からない。だが少なくとも、残された人々にとっては間違いなく救いなのだろう。どこか他人事のようにそう思いつつ、彼は奥の部屋に辿り着いた。
「来たか」
そこに座っている少女が、彼に背を向けたまま言った。確かに少女と呼んでよい容姿のはずなのに、その声はひどく重い。
「……修復は」
「先程終わった」
少女の隣にまでやってくれば、その前に横たわっている人物がよく見える。
「………………レーレイン」
月光の下で静かに眠る女の頬をそっと撫でて、ライカは呆然と呟く。
「……一緒に行けばよかった。僕も、君と一緒に」
「メオの様子はどうだった」
「何も……何も覚えていません。彼女のことも、探しに行った友人たちのことも……でも、それでいいのかもしれない。こんなのはあまりにも、あの子に酷だ」
ぎり、と歯ぎしりが洩れる。その両目から止まることのないものの正体は、後悔。
もしもあの時、戻ってこない友人たちを森へと探しに行く息子を止めていれば。
もしもあの時、逃げた魔物を追いかける妻に同行していれば。
もしもあの時、自分にもっと力があれば。
殺されて咀嚼された友人たちを見て、壊れた息子。
息子を助けるために、自らを犠牲にして時間を稼いだ妻。
冷たい亡骸を抱きしめて、彼は静かに嗚咽を洩らす。
「ライカ」
ずっと沈黙を保っていた少女が口を開き、彼の名前を呼ぶ。
「これからお前が涙を流していいのは、この子の前だけだ」
「……」
「お前は今、この村の精神的な柱だ。ここで立ち止まれば、全てが瓦解することになるだろう。だからお前は、これを乗り越えなければならない」
「……彼女を、忘れろと?」
「そんな冗談にすらならない妄言を口にするつもりはない」
「なら、どうしろと――!」
「私を恨め」
「……は」
思わず振り向いた彼の前で、茫洋とした目の少女は再び口を開く。
「私を恨め。この全ての原因は私だと、そう思え」
「……僕を、馬鹿にしているのか」
湧き上がる怒りで声が震える。頭がかっと熱くなるのを感じながら、ライカは少女を睨みつけた。
「あなたは、あなたは彼女の恩師でありこの村の恩人だ。あなたが居てくれなければ、自分の魔力で両親を殺した彼女は一生笑えなかった。メオも僕も、今生き残っている村の人間全員があの魔物に食い殺されていた。それなのに、だというのに、どうしてあなたを責められる……!」
「『もう少し早く来てくれれば』」
「っ、」
「お前はそう思ったはずだ。そして、諌めたはずだ。『そんなことを思う資格は自分にはない』と」
「……当たり前だ。村の人間でもないあなたに、これ以上を望むなんておこがましい」
感情を押し殺した言葉に、少女は幽かに笑う。
「それは違う。私は確かにこの子に言った。必ず助けに行くと。しかし、私はその言葉を裏切った。この子を裏切った」
「……僕はあなたのことをほとんど知らない。でも、あなたが無意味に約束を破るような人間ではないことくらいは知ってる。それには理由があったはずだ。あなたにはすぐには来られない理由があった……そうなんでしょう?」
「そうだとして、お前はこの結果に納得できるのか?」
言葉を詰まらせて、ライカは目を逸らした。椅子から立ち上がった少女は静かに彼を見下ろす。
「お前があまり精神的に強い人間ではないことは知っている。この子を誰よりも深く愛していたことも。このまま進めば、遠からず折れる。それはお前にとってもこの村にとっても、何よりもこの子の忘れ形見にとってもよい結果をもたらさないだろう」
「それは……」
彼の声から勢いが削がれる。
「虚勢で構わない。村がその機能を取り戻し、村人たちが日常を取り戻せるまででいい。何を使ってでも立ち上がって乗り越えるのが、お前がレーレインから引き継いだ役目だ」
畳み掛けるように続ける少女を、そっと見上げる。
「恨め。お前の目の前にいるのは、お前の妻を死なせた人間だ」
そう言い放つ貌は、どこまでも平坦で冷たく。
その白銀の瞳は、人の眼とは思えないほどに無機質で。
握りしめた手の中から流れ出た血が、静かに床に滴り落ちた。
「……っ、あなたが……あなたがもっと早く来てくれれば、レーレインは死ななかった」
「ああ」
「あなたが……彼女を、死なせた」
「そうだ、それでいい」
目を閉じて、少女は静かに微笑む。
冷たい妻の体を抱きしめた彼は、どうしようもなさにただ強く唇を噛んだ。
***
「いい場所だな」
墓石を撫でて、少女は呟く。
「静かで、穏やかな場所だ。眠るにはふさわしい」
夜明け前の森はまだ薄暗く、空気は湿っていて冷たい。数歩後ろで、彼はその背中をぼんやりと見ていた。
木々の間を抜けた風が、空き地に咲く花を揺らす。
「………………どの口で、そんなことを」
強く拳を握りしめたライカは、震える声で吐き捨てる。
「彼女を殺したのは、あなただろう」
ゆっくりと、少女が振り向く。
その青い木々の色に染まった瞳を見て、気がつけば半歩後ずさっていた。
「ぁ……違、」
思わず、昨日の会話も忘れて否定しかけた彼は、柔らかく細められた瞳を見て何も言えなくなる。彼の表情を見て静かに微笑んだ少女は、そっと口を開く。
「――家族を、思い出を大切にしろ、ライカ」
それだけを言い残して、その姿は幻のように消え去る。
「っ、あ……ぁ……」
後に残された彼は、ただその場に膝をついて呻き声を零す。
呆然と顔を上げたその目には、ぼやけた朝日に照らされる妻の墓が映っていた。




