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黒竜の魔女  作者: 千鳥切
32/104

残り香 05

 大丈夫。


 真っ暗な視界の中、すぐ耳元で囁く声がする。


 大丈夫、大丈夫。


 その言葉はメオに向けられたものというよりは、己に向けて言い聞かせるような響きを帯びていた。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 強い薬草の匂いを纏った両腕に抱きしめられている。鼻につくその匂いにひどく懐かしさを覚える。うるさいほどに心臓が鳴っているのを感じながら、メオはそっと顔を上げた。


「――かあ、さん?」


 初めに視界を覆ったのは眩しい光だった。咄嗟に強く目を閉じてから恐る恐る瞼を開き、肩越しに見えた光景に息を飲んだ。


 まるで何種類もの動物の体を引き裂いてめちゃくちゃに繋ぎ合わせたような、得体の知れない存在がそこには居た。鼓膜を切り刻む鳴き声を上げながらそれ(・・)が暴れている。だが、その体がメオを傷つけることはない。光の網が広がり、それ(・・)を地面に縫い止めているからだ。


 一際大きくそれ(・・)が藻掻き、地面に打ち付けられていた網の一端が弾け飛ぶ。同時に、傍らの体が大きく揺れたのを見て我に返った。


「母さん!?」


 苦しそうに息を吐く母を支えようと手を伸ばしたところで、ぬるつく感触に凍りついた。その背中が明らかにまともな状態ではないことに気づいたメオは、真っ赤に染まった己の手を見て絶句することしかできない。


「大丈夫……大、丈夫……」


 雪山にでもいるかのように震えた吐息を零す母は、きつく目を閉じてうわごとのように同じ言葉を囁く。その額を伝い落ちた冷や汗が、赤黒く染まりつつある地面に吸い込まれた。


「……何で……こんな」


 呆然と母の顔を見つめていれば、再び地面が揺れて網が千切れる。強引に拘束から抜け出したそれ(・・)が、異常な角度に折れ曲がった首を揺らしながらゆっくりと近づいてくるのが見えた。



 その爪がどれほど容易く人間を引き裂くのか、知っている。

 その体に蹂躙された村がどうなったのか、知っている。



 ――思い出したか、と暗闇がメオに問いかける。


 森、散らばる、肉塊、咀嚼、冷たい、目、

「ぁ……」

 衝撃、赤、光、温かくて、地響き、震え、

「…………だ……」

 伸ばす、手を、赤く、紐、大丈夫と、爪が体を、

「……いやだ…………」




 ――それなら。




 腕を振り下ろそうとしていた魔物が、黒い影になって暗闇に溶ける。周囲の木々や傷ついた母さえもただの影へと変わり、存在感を失っていく。濃密な暗闇の中に座り込むメオは、ふとこちらを見つめる視線に気づいて顔を上げる。


「…………ワズ?」


 そう呼ぶことを躊躇したのは、その獣がメオが知っているよりもずっと小さな姿をしていたからだ。犬に見紛うほど小さな狼は、トコトコと近づいてくると目の前で口を開いた。


「メオの幸せはなんだ?」

「……えっ、喋っ、なんっ」


 考えていたことが一気に吹き飛んだ彼に、狼は首を傾げる。


「おれは狼じゃないから喋るぞ」

「そ、そうなんだ……ごめん」

「何で謝る? それよりメオの幸せはなんだ?」


 不思議そうに眺めながら、どこか幼さを感じる口調でワズは問いかける。


「幸せ……?」

「メオが思い出したら全部消していいって言ってた。その後は幸せを見せろって言ってた。メオの幸せはなんだ?」

「その……それは、母さんに会いたいっていうのもできるのかな」




 そう言った瞬間、まるで日除けの布を取り払ったかのように世界が現れた。




 いつの間にか、メオは家の前に立っていた。慌てて周囲を見渡したところで、いつもよりもずっと視点が低いことに気がつく。穏やかな日差しが降り注ぎ、小鳥が鳴いているのが遠くから聞こえた。


「これは……?」

「メオが考えたから幸せが形になった」


 変わらず近くにいた狼が答える。そのまま、ふらりとどこかに去っていこうとするワズを慌てて引き留める。


「待っ……うわぁ、ごめん!」

「また謝る。何でだ?」

「…………いや、ワズが気にしないなら……いいんだけど」


 不自然に伸びた尻尾からそっと手を離し、改めて目の前の黒い獣を見つめる。その毛並みは普通の狼と変わりなく思えるが、狼は喋らないしいきなり小さくなることもない。ついでに尻尾も伸びない。メオの思考から飛躍した言動は、夢の中の存在だとは到底思えなかった。



「ワズは――何なの?」



 迷ったものの、それ以上に相応しい問いかけが浮かばなかった。少し失礼な問いかけに気にすることもなく、獣の姿をした何かは答える。


「おれは竜だぞ。ユーアがそうおれを呼んだ。だからおれは竜だ」

「竜……?」


 心做しか嬉しそうに名乗った名前に眉をひそめる。初めて聞いた言葉のはずだが、なぜか妙に懐かしいような気がした。


 不思議な感覚に考え込むメオの前で、不意にきょろきょろと辺りを見回した狼が空を見上げる。


「ユーアがさっさと戻ってこいって言ってる。戻る」

「あ、」


 その言葉と共に、狼の姿は幻のように消え失せた。途端に世界が曖昧になる。注視しているところは先程と変わらないものの、意識していないと水に映る景色のように何もかもが揺らいでいく。


 ――そう、全ては夢にすぎない。目覚めればすべて消えてしまうだけの、ただの虚像だ。


 だが、それでもメオは扉に手をかける。この扉が子供には少し重たく感じることさえもずっと忘れていた。生活感のある家に足を踏み入れ、それぞれの部屋がある方へと向かう。普段は物置になっている客間、父の部屋、メオの部屋、薬を作る部屋。そのどれもに今は用がない。彼が目指すのは廊下の突き当たり――10年間も彼の認識から外れていたそのドアを開いたメオは、ただ微笑んだ。


「――母さん、久しぶり」



***



 カーテンが半分引かれた窓からは、赤く染まった空が覗いていた。いつから目を覚ましていたのか定かではない。半身を起こしてぼんやりと部屋を見回したメオは、すぐ隣の椅子からこちらを見ている父に気づいて軽く飛び跳ねた。


「お、驚かせないでよ……」

「ごめん、声をかけても驚かせるかと思ってね。おはよう。気分はどうかな?」

「……すごくだるい。また風邪かも」

「ああ、それは風邪ではないね」

「え? でも父さんこの前」

「あれは嘘だったんだよ、ごめんね」

「えぇ……」


 その嘘に何の意味があるのだろうか。あっさりと謝られて脱力するメオの前に、見覚えのある小瓶が差し出された。


「本当は――魔力不足って言うんだ」

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