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黒竜の魔女  作者: 千鳥切
31/104

残り香 04

 ぽつり。


 最初は何の音なのか分からなかった。やがて『ぽつり』が『さー』になって、それが上から降ってくる細かな水の音だと気づいた。


 見上げれば、上は白いふわふわとしたものにすっかりと覆われている。あそこから水が降ってくるのだろうか。暗闇の上は本当に不思議なものばかりだ。


 ぷしゅ、という小さな音が聞こえた。見下ろせば、傍らの地面に落ちている小さな生き物がいる。いつもより二回り小さくなっているそれが、もう一度ぷしゅんと鳴いて丸くなる。


 彼は再び困った。どうやら水に濡れるとこの生き物は小さくなってしまうらしい。このままではもっと小さくなって消えてしまうかもしれない。翼を広げて降ってくる水を遮ってみるも、縮こまった生き物の様子は変わらない。


 しばらく考え込んで、彼は再び上を見る。


 水は上の白いものから落ちてきている。なら――白いものを無くしてしまえばいいのではないか。



***



「あの……父さん」


 夕食の後に意を決して声をかければ、父は読んでいた本から顔を上げた。ユーアは朝食にも夕食にもやってくることはないため、居間にいるのはメオと父だけだ。


「どうしたんだい、メオ」

「話したいことがあるんだ。聞いてくれる?」

「いいよ、少し待っていてね」


 パタンと本を閉じた父は、傍らのティーポットと空のカップを手に取る。ほどなくして湯気の立つカップを渡されたメオは、温かいお茶を一口飲んでほっと息を吐いた。


「……ユーアが母さんのことを教えてくれるって言うんだ」


 波立つカップの中を見つめながら呟く。緊張していたはずなのに、思っていたよりもずっと簡単にその言葉が出てきた。向かいの席に座る父は、無言で相槌をうちつつ自分のカップにお茶を注ぐ。


「いろいろ考えたけど俺はやっぱり母さんのことを知りたい。どんな人だったのか、どうして居なくなったのか。ちゃんと知っておきたい。これから先ずっと、知りもしないままで悩みながら生きていくのは嫌なんだ」


 テーブルの上に沈黙が流れる。無意識に手を握りしめる彼は、ややあって聞こえた小さなため息にびくりと肩を震わせた。やはり駄目なのだろうか。密かに落胆しかけたメオにかけられたのは、思っていたよりもずっと柔らかな声だった。


「まずは、教えてくれてありがとう。そして、彼女を知ることを選んでくれてありがとう。僕は嬉しいよ。これでメオと母さんの話ができるようになるからね」


 聞き違いかと顔を上げれば、心から嬉しそうに微笑む父に面食らう。


「えっと……母さんの話するの、嫌なんじゃ……」

「うん、メオがそう思っているのは知っていたんだ。でも、どう言えば誤解を解けるのか分からなくてね。最悪、誤解を深めてしまう可能性もあったから。今まで不安にさせてしまってすまなかった」


 予想外の言葉の数々にぽかんとしているメオを見て、父は眉を下げた。


 何か、違和感がある。そういえば、自分は一度でも父から母に関して否定的な言葉を聞いたことがあっただろうか。いや、それ以前に――


 ぽん、と頭の上に乗せられた重さに思考が途切れた。


「メオ、深く考える必要はないよ。母さんのことを僕の口から教えてあげられないのは申し訳ないけれど、あの方は……約束を違えることはないから」

「?……うん」


 首を傾げるメオに苦笑して、父は立ち上がる。


「明日はきっと疲れることになるからもう寝なさい。お茶の片付けをしたら僕も寝るよ」

「分かった。おやすみ、父さん」

「おやすみ。しっかり休むんだよ」


 父の言葉に見送られつつ自分の部屋へと向かう。そっと振り返れば、片付けをする父の背はどこか小さく見えた。



***



 母のことを教えてほしい。


 そう言えば、母の墓の前に座り込んでいた白銀の少女は「そうか」と呟く。傍らに寝そべる狼の頭の上には摘み取られた野花がいくつも載っており、彼女はそれを掬いあげて墓石に散らした。


「10年前に村を魔物が襲った件について、お前はどこまで覚えている?」


 風に吹かれる野花を眺めていたユーアが、おもむろにそう問いかけた。思わず首を傾げる。


「どこまでって……覚えてるわけないよ。まだ俺は6歳だったんだから」


 どうしてそんな当たり前のことを聞くのか。そう思っていた彼の表情は、静かに首を振った少女の言葉で凍りつくことになった。


「メオ、6歳の記憶は覚えていておかしくないものだ。ましてや、あれだけの騒ぎがあって忘れられる方がおかしい」

「……え? でも俺本当に、」

「嘘をついているなどとは思っていない。ただ、そこにお前自身が違和感を感じることが重要なんだ」


 一体、彼女は何を言いたいのだろう。立ち上がり振り返った少女は、傍らのメオを見上げて口を開いた。



「お前の母親が死んだのは――16年前ではなく10年前だ。お前は母親のことを既に知っている。それどころか、6年も共に暮らしていた」



 思考が止まる。震えた唇からは否定も肯定も出てこない。目を見開いてただ立ち尽くす彼の前に、白皙の手が差し出された。


「母親のことを知りたいのなら、お前は取り戻さなければならない――自ら改竄した、お前自身の記憶を」



***



 紙が捲れる音が部屋の静けさを引き立てる。


「200年前に魔術戦争が終わった。それまでも魔術士は緩やかに減り続けていたが、戦争の終わりを機に魔術士は一気に少なくなった」

「終わり? 戦争中じゃなくて?」


 古そうな本を膝の上に開いて眺める少女は、寝台に腰掛けているメオの言葉に頷いた。


「実際のところ、あの戦争で死んだ魔術士は少ない。死者のほとんどは、魔力すら持たないただの人間ばかりだった。だから彼らは魔術を捨てた。無用な争いを起こさないために普通の人間と同じように生きていくことにした。ある者は戦争の難民として受け入れてくれる街や村を探して、そこに根付いた。そしてまたある者は――人の滅多に来ない山奥に隠れ住み、やがてそこには集落ができた。聞き覚えのある話だとは思わないか?」


 一体何のことかと思いかけたメオは、その示唆するものに気づいて息を呑む。


「山奥の……村?」

「ああ、お前とその両親や村の人間は皆、魔術士の血を引いている。魔術士の末裔といえるだろう」

「魔術士の末裔……」


 言葉の意味は理解できてもなかなか実感が追いついてこない。しばらく考え込んでいた彼は、目の前にかかった影に顔を上げた。立ち上がった少女が見下ろしている。その静かな白銀の眼差しに心臓が小さく跳ねた。


「心の準備はできたか?」

「だ、大丈夫……です」

「あまり緊張するな。お前がこれから見る夢は過去の幻影すぎない。何かをされることもなければ、何かをできることもない」


 促されて仰向けに横たわりつつ、でも、と口を開く。


「自分で忘れるくらい辛い記憶……だよね。やっぱり怖いのは怖いよ」


 自分で母のことを知りたいと言ったのに、今更何を言っているのだろう。情けなさに目を伏せた彼に、ユーアは小さく微笑んで首を振る。


「大丈夫だ。お前は自分で知ることを選んだ。それは決して簡単にできることではなかったはずだ」


 少女が伸ばした手がメオの目元に重なる。瞼を閉じた彼の視界は暗闇に支配された。眠気など微塵もなかったはずなのに、自然に意識が沈みこんでいく。


「そして子供の夢とは――幸せなものであるべきだろう?」

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