残り香 02
弓を肩にかけたメオは、慣れた様子で森の中を行く。
彼が獲物を狩る場所はいつも違う。彼の狩りは単なる食料の確保だけではなく、森の見回りも兼ねているからだ。異常がないことを確認しながら歩いていたメオは、視界に入った漆黒の毛並みに顔を綻ばせた。
「お待たせ、ワズ」
座ったままのんびりと日光浴をしていた狼は、メオの言葉にぱたぱたと尻尾を振る。
この大きな獣と数日間過ごして、二つほど分かったことがある。
まず、とても人懐こいこと。メオの知る狼といえば、森に生息している狼の群れだ。基本的に人間に干渉してくることはなく、メオも無意味に近寄らないようにしていた。だがワズは当たり前のように近くにやってきては、狩りの道具の手入れやその他の雑務をするメオをのんびりと眺めていることが多い。
それから、普通の狼のように生肉を食べるわけではないこと。他の動物を襲うこともなければ、メオが狩ってきた獲物よりも家の前にある畑の方に興味をもつくらいだ。一体何を食べて生きているのだろうか? 夜にはどこかに消えてしまうため、その時に狩りをしているのかもしれない。
座るワズの視線の向こうには、背を向けた少女が立っている。動きやすそうなワンピースを纏ったその姿は、僅かに肩が上下していることに気づかなければ等身大の人形にさえ思える。声をかけようとしたところで、不意にその片手が上がった。
「先に行っていてくれ。すぐに追いつく」
「わ、分かった……」
戸惑いつつも頷いたメオは、少し名残惜しそうなワズを連れて歩き出す。ちらりと振り返れば、変わらず佇む華奢な後ろ姿が見えた。
ワズに対して、ユーアはいまだに謎だらけだ。父に会いに来た目的も、その父からよそよそしくされている理由も、こうして森を回るメオについてくる意味も分からない。どこか近寄りがたく現実味のない雰囲気を纏っているにも関わらず、顔色一つ変えずに狩った獣の解体までやってのけるので謎は深まるばかりだ。
「王都とかの女の子はみんなあんな感じなのかな……」
いや多分違うだろうと心の中で否定したが、呟いた声に反応してワズが顔を上げた。
「ああいや、なんでもないよ。ただ、ユーアは何者なんだろうって思っただけ」
苦笑してその毛並みを撫でながら、そっと溜息をつく。
ユーアのことを考えれば、否応にも父のことが頭に浮かんで気が重くなる。彼女がやってきてからというもの、父はずっと何かを思い詰めているようだ。温厚な父にあそこまで厳しい顔をさせる理由に踏み込むには勇気が要る――なまじ、その内容が薄々推測できるゆえに。
「……どう、すればいいのかな」
「何がだ?」
「うわっ」
当たり前のように返ってきた言葉に肩が跳ねた。ワズの向こう側から少女が顔を覗かせている。いつの間に追いついたのだろう。
「何か悩み事か?」
「……そんな大層なものじゃないよ」
「大層だろうが矮小だろうが悩み事は悩み事だろう? 無理にとは言わないが、余所者に話せる内容なら聞いてやるぞ」
その言葉で、メオの足が止まる。同時にユーアも立ち止まり、二人を順に見たワズもその場に座った。口を開いて再び閉じることを何度か繰り返したのちに、意を決してその白銀の目を見つめた。
「ユーアは――俺の母さんのこと知ってるよね?」
「……ふむ、どうしてそう思う?」
「父さんが厳しい顔をするのは、母さんに関係することがあったときだからだよ」
どこか大人びた少女は無言で肩を竦める。その反応に、彼は自分の推測が正しいことを確信した。
「その……俺、母さんのことを全然知らないんだ。俺を産んですぐに死んだってだけしか聞いてない。父さんも村の人も、母さんのことは何も教えてくれないんだよ。……それで、さ……母さんは死んだんじゃなくて、俺や父さんを捨ててどこかに行ったんじゃないかって、そう思えてきて」
「それは、」
「うん、馬鹿な想像だっていうのは分かってる。でも、俺は母さんのことを何も知らないから否定できないし、父さんにはこんなこと言えるわけないから……はは」
早口に言い切り、メオは俯く。少しの沈黙の後に聞こえた小さなため息に、やはりこんなことを言うべきではなかったと後悔が首をもたげる。
どうか忘れてほしい。付け加えようとした言葉は、少女が口にした言葉によって消え去ることとなった。
「――もしも、母親のことを知る機会があるとすればどうする?」
「…………え?」
聞き間違いかと顔を上げる。大きな頭を擦り付けてくる狼を押し退けるように撫でながら、彼女は何でもないことのように続けた。
「お前の母親はそんな人間ではなかった――と口で言うのは簡単だが、それでは納得できないんだろう?」
「……母さんのこと、教えてくれるの?」
「教えるとは少し違うな。だが、お前が知ることを選ぶのなら私はそれを叶えられる」
どうする? 問いかけと共に差し出された手を彼は見つめる。突然の進展に追いつかない頭でも、この誘いに乗れば後戻りができなくなることは分かった。葛藤するメオを眺めていた少女は、一つ頷いてあっさりと手を下ろした。
「ゆっくり考えるといい。選ぶのはお前だ」
それだけを言ってユーアは再び歩き始める。呆然とその背中を見送っていた彼は、つつくように背中を押されて我に返った。
「あ……うん、行くよ。大丈夫」
黒い狼と並んで歩きながらも、彼の頭の中では少女の言葉がずっと巡っていた。
***
暗闇の上にあった世界は、ひどく変化が激しい場所だった。
上は明るくなったり暗くなったりを忙しなく繰り返し、そのたびに眩しい玉が流れていく。白いふわふわとしたものが浮いていることもあれば、とても小さな生き物が泳いでいくこともある。おかげで彼が退屈することは無かった。
顎を尻尾に乗せて地面に丸くなった彼は、ちらりと傍らに目を向ける。相変わらず、そこに落ちている生き物が動く気配はない。彼が見た光はどうやらこの小さな生き物のものだったらしい。水の中をふわふわと漂っていたので拾ってきたのだ。
彼は困っていた。知らないことばかりの彼は、当然ながら小さな生き物の扱いなど知らない。彼にできるのは、この生き物が他の生き物に食べられないように見ていることだけだ。それが焦れったくて、それでも焦れったいという言葉すら知らない彼は、拾ってきた小さな生き物が動き出す時をただ待ち続けていた。
***
血生臭い空気が肺の中に入ってくる。噎せそうになった彼は、汗ばんだ両手に強く力を込めて口を押さえた。
背に当たる固い幹が揺れる度に、その向こうから水っぽい音が聞こえる。そこにいるものが何なのかを彼は知らない。理解ができない。だがそれが、この森に居ていいような存在ではないということくらいは分かる。
一刻も早くここを去るべきだったと気づいても、咄嗟に隠れた彼は既に立つ力を失っていた。
夜闇に包まれた森の中、続いていた咀嚼音が止む。すぐ後ろにいるそれが動き出す。息を殺してそれが居なくなるのを祈っていたメオは、すぐ真横を通り抜けていく気配にびくりと肩を揺らした。揺らしてしまった。
「っ、」
それがこちらを向く。
その血と臓物で汚れた口からゆっくりと牙が覗き――
「――う、わぁっ!!」
自分の口から飛び出した叫び声に驚いて、メオは寝台から身を起こした。痛いくらいに跳ね回る心臓を押さえてじっとしていれば、荒い呼吸が落ち着いてくる。
何か、とても嫌な夢を見た。詳細を覚えていないのに、泥のようにへばりつく恐怖が意識に残っている。冷や汗で張り付く服の感触が気持ち悪い。顔を顰めつつ手近な服に着替えたメオは窓の外に目をやり、今がまだ夜明け前であることを知る。起きるような時間ではないがもう一度眠る気にもなれない。少し悩んでから部屋の扉に手をかけた。
外に出れば、湿度を孕んだ冷たい空気がメオの体を包み込む。森の中へと一歩を踏み出そうとした彼はふと周囲を見回した。
「ワズ?」
いつもであれば、家を出た途端にどこからともなくやって来るあの狼の姿がない。まだ眠っているのだろうか。首を傾げつつ彼は歩き出す。
黒いシルエットとなった葉の隙間から、薄い青の光が零れ落ちて地面をぼんやりと照らしている。危なげなく歩くメオの脳裏に浮かぶのは、あの銀の瞳の少女のことだ。
メオは母のことを知らない。自分に関係することなのだから、いつか知らなければならないとは思っていた。知らないことを知るのは怖い。だがそれ以上に、父や村の人々との関係が変わってしまうかもしれないことが彼を躊躇わせていた。
「――、」
不意に聞こえた話し声に、メオは足を止めた。声は向かっていた目的地から聞こえてくる。少し迷った末に、気配を消してゆっくりと進んでいく。盗み聞きのようなことをしてまで彼が立ち去ることを選ばなかったのは、その声色に覚えがあったからだ。
近づくにつれて、それが二人の男女の会話であると知る。水の中で聞く声のようにくぐもっていて、何を話しているのかはよく分からない。
さらに近づく。立ち並ぶ木々の向こうに開けた空間があり、そこには二人の人間が立っているのが見える。手前に一人と奥に一人。そして、奥にいる人物のすぐ前には一抱えほどの石がある。その石の正体をメオは知っている。
木立のすぐ向こう側、すなわち手前にいる男の背中が父のものであると気づいた瞬間、間にあった透明な膜が取り払われたかのように声が明瞭になる。白くなるほど強く両手を握りしめて、父は静かに口を開いた。
「彼女を殺したのは――あなただろう」
夜明け前の薄闇の中、母の墓の前に立っていた人物が振り返る。
そのローブを纏った華奢な立ち姿は、ここ数日で見慣れたもので。その青く縁取られた横顔は、見とれてしまうほど美しく整ったもので。
その瞳の色は、硝子玉のように無機質な白銀だった。




