残り香 01
彼の記憶にある最も古い記憶は、暗闇で満たされている。
その濃密な闇に彼はただ在った。彼の意識は絶え間なく揺らぎ、浮上と霧散を繰り返す。一体どれほどの時をそうしてきたのか。それは、後に時間の数え方を教わった後でも分からないままだ。
ひたすらに茫洋とした世界は、唐突に終わる。
彼の意識を幾度目かの微睡みから引き上げたのは、遥か向こうの小さな小さな光だった。それを見つけた途端に溢れ出した洪水のような感情が、目覚めたばかりの自我を強く揺さぶる。行かなければならない。気がついたときには彼はその暗闇から飛び出していた。
光に近づくほどに周囲が明るくなり、彼が纏う闇が削り取られていく。否、それは削り取られているのではなく収束されているのだ。まるで光によって形作られていくかのように、黒々とした鱗が、爪が、四肢が、両の翼が現れる。既に周囲は眩しいほどに明るい。しかし、彼がその目的まで見失うことはない。
遥か上で揺蕩うそれを見つけた彼は、ああ、と声にならない声を上げる。
――やっと、見つけた。
***
チチチ、と頭上で小鳥が囀るのがどこか遠くに感じる。メオは固唾を飲んで、目の前で対峙している二つの存在を見守っていた。
「私は言ったはずだ。何かする前によく考えろ、と」
神秘的な雰囲気を纏った黒髪の少女が、腕を組んで無表情のままにそう言い放った。視線の先には一頭の獣が座っている。闇に溶け込むような毛並みをもつ、森の主という例えがふさわしいほどに立派な狼だ。その姿は座っている状態ですらメオよりも背が高く、その口は小柄な人間であれば一飲みにできてしまうほどに大きい。
「……」
一方的に糾弾されている黒い狼は何も声を上げない。動く様子もない。じっと地面を見つめている彼は、たまにちらりと少女の顔を見てはその極寒の眼差しにしょんぼりと背を丸める。その様子はまるで主人に叱られる犬のようにも見える。
メオよりも頭一つ分背の低い少女と、それに叱られて萎縮している巨大な狼。一体どうしてこうなったのか。張り詰めた空気に冷や汗を滲ませながら、半ば現実逃避をするように少し前の出来事に思いを馳せた。
***
メオはこの森に住んでいる。
母は彼を産んですぐに亡くなったらしく、足の悪い父と二人で暮らしてきた。10年ほど前、すなわちメオが6歳のころまではこの森の奥深くにも集落があったのだそうだ。だが魔物に襲われて大きな被害が出たことで、生き残った人々は森の外に移住をしたらしい。そうして、母の墓から離れることを拒んだ父とその子供であるメオだけがこの森に残った。
一週間に一度、彼は森の外の村まで出掛ける。森の中では手に入らないものを手に入れるためだ。その日も買い出しを済ませ、村から森の家へと帰る途中のことだった。
荷物を離れた場所に置いた彼は、草むらの中で弓矢を手に息を潜めていた。視線の先にいるのはこの森では珍しくもない種の鳥。狩って帰れば夕飯に丁度いい。
矢を番え、静かに引き絞る。そのまま狙いを定め――
「……あ!」
こちらに気づいていなかったはずの鳥が、突然逃げるように飛び立つ。さすがに飛ぶ鳥を落とすことはできない。メオは肩を落とす。確かに気配を消していたというのに、何故気づかれたのだろうか。
その答えは、彼のすぐ後ろに居た。
「え……」
帰ろうと後ろを向いた途端に視界が暗闇に覆われる。まだ夕暮れのはずだ。何事かと思ったところで、目の前に黒く大きな狼がいると気づいた。さっと血の気が引く。
一体いつからそこに居たのか。いや、そんなことよりもどうすればいい。逃げるのは無理だ。獣に追われれば人間の足ではまず逃げきることなどできない。戦う? 数本矢を撃ち込んだところで効果があるのか? それに近すぎてまともに弓を引く余裕がない。
冷や汗を滲ませながら必死に思考を巡らせていれば、じっと彼を見下ろしていた狼が不意に顔を上げる。
「――何をしてるんだ、お前は」
振り向いたところに居た少女を見た瞬間、メオは先程まで感じていた恐怖がただの前座であったことを知った。
***
二回りほど小さくなった狼を最後に睨み付けてから、少女はメオに向き直る。
「迷惑をかけたな。すまない」
「……いや……大丈夫、です」
「別にかしこまる必要は無いが」
引き攣った顔のままこくこくと頷けば、怪訝そうにしつつも彼女は身を引いた。
「自己紹介がまだだったな。私はユーア。そこの馬鹿はワズという」
「ああえっと、俺はメオ。この辺りに住んでるんだ。道に迷ったのなら森の外まで案内しようか? じきに暗くなるし、野宿するにしても森の中は危ないよ」
「申し出はありがたいが無用だ。ある人間を訪ねてきた。ライカという男を知っているか?」
少女が口にした名前に、メオは目を見開いた。
「……俺の父さんだ」
***
家に着くころにはとっくに日が落ちていた。
帰宅を告げれば、慌ただしい物音と共に近づいてきた足音が扉を開く。
「メオ! 暗くなる前に帰ってくるようにとあれほど……」
安堵と心配が入り交じった声が途中で途切れた。眼鏡越しの視線がメオの隣に注がれている。呆然と立ち尽くしていた父は、不意にふらりとよろけてそのまま倒れそうになった。
「ちょっと、大丈夫!?」
「あ……ああ、大丈夫。そちらの方は……」
「森で会ったんだよ。父さんに会いに来たらしいんだけど、知り合いなの?」
父を支えたまま、案内してきた少女に視線をやる。口元に手を当てて何か考え込むような素振りをしていたユーアは、メオの視線に気づいて顔を上げた。その白銀の目に射抜かれ、父が僅かにたじろいだのが伝わってくる。
「えっと……?」
張り詰めた沈黙の意味が分からず、メオは二人の間に視線をさまよわせる。ややあって、少女は口を開いた。
「久しぶりだな、ライカ。積もる話はあるがもう夜も深い。空き部屋があれば泊まらせてくれないか」
「……メオ、お客さん用の部屋を片付けてきてくれないかな」
「わ、分かった」
棚を支えに自立した父に言われ、メオは躊躇いがちにその場を離れる。そっと振り返れば、見たことのないほど険しい顔をした父が少女を見つめていた。
***
魔術を律すると同時にその守護者であった大国が滅び、今では希少になった魔術士という存在。その一人であるユーアは、真っ暗な部屋の中で何度目かのため息をつく。
大国ゼレムナから北上したところにあるこの森は、この大陸屈指の危険地帯である中央部に面している。正確に言うならば、中央部をぐるりと囲う森の西側にあるのがこの家だ。森の中の危険は彼女にとってまず脅威にはなり得ないが、二週間の道程はその体に純粋な疲労を齎していた。
欠伸を噛み殺しながら少女はローブを脱ぎ、ふと首を傾げた後に「ああ」と指を鳴らした。
「部屋に結界を張ったからもう声を出してもいいぞ」
「わん」
「……似てないしそれは狼じゃなくて犬だ」
訂正を入れつつ机の上に置かれていたランプに火を入れる。途端に、彼女一人しかいなかったはずの部屋に大きな影が現れた。否、それは影ではなく影と同じ色をした大きな狼だ。
「ユーア」
人間の男の声で彼女の名前を呼んだ狼――ワズは本当の狼ではない。その正体は山をも超えるほどの大きさを持つ黒き竜だ。それなりに長い時間を生きてきたらしいのだが、地上に上がってきたのはごく最近なために恐ろしく物を知らない。赤子か何かのように無垢なこれを放置しておくわけにもいかないため、ユーアはこの生き物を連れとして旅をしていた。
「犬がよかった」
「無理。お前はそれ以上小さくならない」
いつもは背の高い青年の姿になっているワズが、狼の姿をしているのには理由がある。というのも、この生き物はあまりにも身体能力が高すぎる。誰も居ない場所ならまだいいが、その人外じみた動きで駆け回っていたのは森の外れにある村の近くだ。人型の魔物を見たという人がいるから気をつけてほしい。村で一泊して森に入る前にそう言われたユーアは、「森に行きたい」と言ったワズを野放しにしたことを後悔した。
「ユーア、なんでこの森に来た?」
ぱたぱたと黒い尾が足元で揺れる。明らかにドアを通らないどころか部屋にすら収まらないはずの狼が、その毛並みを暗闇に溶かして少女を見上げた。その頭を撫でていた手を止めて、ユーアは沈黙する。
「……ワズ、自由とは何だと思う?」
「じゆう?」
「私が思うに、それは選べることだ」
狼ゆえに分かりやすい表情はないものの、こちらを見つめる黒い両目の奥ではあれこれと思案している。それを見ていたユーアの口元が綻ぶ。
実際のところ、ワズは無知だが馬鹿ではない。空回りをしている部分は否めないが、あらゆるものに興味を抱いてより多くを識ろうとするその性格をユーアは好ましく思っている。
だからこそ、彼女は問いを投げかける。あるいは、それが何か意味をもたらすことを期待して。
「選ばないことと選べないことは違う。選べるものが多ければ、より自分にとってよいものを選べる」
「……じゆうは大事か?」
「私はそう思う。だが別に答えを急ぐ必要は無い。時間は沢山あるだろう?」
頷きつつ思考の底に沈んでいったワズに苦笑して、少女は指を鳴らす。ふ、と灯りが消えれば、後には濃密な暗闇と静寂だけが残った。




