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黒竜の魔女  作者: 千鳥切
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閑話・ある男の話 上

 ――唄が聞こえる。



***



 くたびれた男がいた。髪には白髪が混じり、憔悴しきった顔には疲労が色濃く残っている。まるで死体のような陰気さに、男の喉から乾いた笑いが洩れた。


 仕方がないことだ。実際のところ、男はここ数日間ほとんど休んでいない。それは男――彼が、仕える主から短期間しか仕事を離れることを許されなかったからだ。


 壁にかかっていた鏡から目を離した彼は、広げた資料に目を落とす。


 彼はある人間を探している。この街にいるという情報を頼りに身分を隠してやってきたのだが、数日かけてどれだけ情報収集をしてもめぼしい成果はなかった。それに落胆はすれど驚きはしない。


 元々、彼の人探しはあやふやな情報を手がかりに始めたものだ。一つ一つの情報の真偽どころか、探し人が実在するのかさえ定かではない。それでも、彼には退くことのできない理由があった。


 眉間を揉んで深呼吸をし、改めて情報を精査していく。何か見落とした手がかりはないか。不自然な情報の歪みはないか。少しでもいい。何か、何かないか。




「――随分と、根を詰めているようだな」




 机の向こうから伸ばされた白い指先が、情報を書き記した紙を拾い上げる。


「だが詰めが甘い。それに、情報を集めるまでなら休息を削っても多少は問題ないだろうが、頭を働かせる段階で休息を取らないのは悪手だ」

「……は、」

「まあ、お前の事情など知ったことではないが」


 そこに立っている人物が、指で紙片を弾いて鼻を鳴らした。彼の目の前へと滑ってきたその紙には、ある言葉が走り書きされている。それはまだ戦争が終わっていなかった頃、大陸の各地を旅して巡っていたとされている魔術士の通り名だ。


 誰もいなかったはずの部屋に、なんの前触れもなく現れたローブの人物。それと紙の上の言葉が頭の中で繋がった瞬間、彼は転がるように椅子から下りてその場に膝をついた。


「……黒竜の魔女様と、そうお見受けいたします」

「ふむ、最近の貴族というのは権力に胡座をかいた馬鹿ばかりだと思っていたが、多少は頭が働くらしい」


 椅子に腰を下ろした魔女は、頭を下げている彼を無言で見下ろす。話を催促されている。そう感じた彼は、緊張で震える手を強く握りしめて口を開いた。




「我が国ウトラでは今、魔術士狩りが秘密裏に行われております」


 無駄に広い宿の客室に、彼の声が響く。


「魔術士であることを疑われた一部の民が陛下の命で不当に集められ、拷問を受けた末に殺された者もいます。ただでさえ城内は最近張り詰めた空気に満ちている。何かが起こって私の手が及ばなくなる前に、早急に事を収めたいのです」

「収める?」


 魔女は心底不思議そうに聞き返した。


「収めると、お前は今そう言ったのか? 無実の民を虐げておいて今更どう収めるつもりだ? 王の首でも手土産にするつもりか? ああ――王の側近だというのに王を止められない無能の首もか?」


 ぞわりと背筋が震える。心臓を冷たい手で握られている。これはただの脅しではない。彼女がその気になれば、己の首はあっさりと体から切り離されるだろう。湧き上がる恐怖をねじ伏せるように一瞬だけ強く目を閉じ、答える。


「それは、できません。今私が死ねば、この件をどうにかしようと動く人間が居なくなる。私は陛下を止められませんでしたが、その責任をとるのは少なくとも今ではない。捕らえられた民が解放され、魔術士狩りが終わるまでは死ぬことは許されません」


 返答はない。ただ、強い視線が顔を伏せた自分に注がれているのを感じる。


「間もなく政変が起きる」


 不意に、ぽつりと魔女が呟く。


「王は玉座から引きずり下ろされ、王子が新たな王になるだろう。そうすれば魔術士狩りは終わる」

「……恐れながら、それは確約できません」


 予言のような言葉に、少しだけ逡巡してから彼は口を挟んだ。


「王子殿下は少々……いえ、かなり人の話を聞かない方です。このまま順調にクーデターが進むとは思えません。そしてもしも順調に進むのなら、間違いなく裏に何者かが居ると考えられます。仮に殿下が王になられたとして、その背後にいる者が魔術士狩りを続けようとする可能性は否定できません」

「ほう」


 相槌をうつ声は平坦で感情が読み取れない。沈黙の中、ゆっくりと額を伝う汗が顎から落ちた。


「――それで、お前は私に何を望む?」


 ひとまず、話を続けるに値する答えを出せたことに安堵する。


「囚われている民の中に、魔術士の素質を持つ者がいる可能性があります。万が一それが明らかになれば、魔術士狩りを続ける根拠にされかねない。魔術士の素質を持つ者が本当に居るのなら、誰にも気付かれないように城から逃がしていただきたいのです」

「いいだろう」

「……宜しいので?」


 思わず顔を上げて聞き返した。変わらず椅子に腰掛けている魔女は鷹揚に頷く。


「どちらにせよ、私のやることは大して変わらない。あの脳天気な阿呆王子も、もう少し焚き付ければ動き出すだろう」

「…………まさか」


 魔術士は国や権力と関わりを持とうとしない。それは魔術を巡った戦争を経た今の時代の常識だ。だが、彼女のその言葉はまるで――


 フードの中にある魔女の顔は、不自然なほどの闇に覆われて窺い知ることができない。しかし、彼はその目に宿る静謐で理知的な光が見えた気がした。


「王とは国のために有るものだ。私欲のために民を虐げる王はもはや王たりえない。だが王が暗殺でもされれば国はさらに混乱する。ならば、これが最も現状を穏便に解決する方法だろう」

「……ご無礼を、」

「お前の行動に間違いはなかった。謝罪は不要だ」


 安堵のため息が口から零れ落ちる。これで少なくとも、さらに悪い状況になることは避けられるだろう。のしかかるような疲労が思い出したかのように湧き上がってきて、このまま床に寝そべって泥のように眠ってしまいたいような思いに駆られた。




「一つ、聞いておきたいことがある」


 その声で、気が抜けかけていた彼は今の状況を思い出した。大したことではないが、と付け加えて魔女は続けた。


「今の時代、魔術士に頼み事をするのなら真っ先に思いつくのは魔女だろう。ウトラには魔女がいないが、お前の地位であれば他国の魔女に介入を求めることも不可能ではないはずだ。初めは阿呆王子のことに気づいたのかとも思ったが、そうでないならなぜお前はわざわざ私を探した?」


 当然といえば当然の指摘に、彼は息を詰まらせる。


 20年前に終わった戦争は、いまだにこの大陸へと深い傷跡を残している。今でも存在を知られているのは、戦争の終わりと共に魔女を名乗って他国に現れた数人の魔術士たち以外にはいない。そして彼女たちも他の魔術士の情報には沈黙を貫いているため、魔術士がどれだけ生き残っているのか、そもそも他に存在しているのかも明らかではない。


「……他国にいる魔女様は政には全く干渉しないと聞いたためです。誰かの頼みで魔術を使うことはなく、しかし力を特別隠すこともなく城にいる。彼女たちの在り方は、まるで注目を集めること自体が目的のようだ」

「そうだな。だがそれは魔女を頼らない理由だ。迷信じみた私の存在にわざわざ縋る理由は何だ?」


 数秒の葛藤ののち、彼は深く頭を下げて口を開いた。




「……『竜』を名乗るあなたであれば、或いは、と」




 勢いよく頭が跳ね上がる。彼の意志を無視した動きに疲れた体が悲鳴をあげるが、いつの間にか椅子を立って目の前にいる魔女にそれを気にする様子はない。


「……ほう?」


 彼の両の瞳を覗き込んだ彼女は、感心したように声を洩らす。


「自力でそこまで辿り着いたか。無能という評価は撤回しよう」


 皮肉の混じっていない、純粋な賞賛に戸惑いを覚える。思わずといった様子で小さく笑みを零した魔女は、「ところで」と話を切り替えた。


「まだ対価について話していなかったな」

「……あなたへの頼みに見合うものを私がご用意できるとは」

「何に価値があるのかを決めるのはお前ではなく私だ」


 ぴしゃりと有無を言わさぬ調子で遮られ、彼は口を噤んで目を伏せた。そのまま宣告を待つ。




「私の求める対価は――お前の命だ」




 動揺を押し殺して、ただ静かに頭を下げる。


「……かしこまりました。ですが、まだ」

「ああ、まだ何も終わっていない。だから、その命はしばらくお前に預けておこう」


 少し痛むぞ、と前置きをして魔女は彼の手の甲に触れる。一瞬だけ引っ掻くような痛みが走り顔をしかめた。白い手が離れていったそこには、指の爪ほどの小さな紋章が刻まれていた。その印の意味は、彼の知識では分からない。


「これは……」

「この取引の証明書のようなものだ。他者から見えることはない。そして、それがある限り私はお前の居場所をいつでも知ることができる……逃げようなどと思うなよ?」

「滅相もございません」


 脅しの言葉に首を振れば、それでいいとでも言うように頷いた魔女が立ち上がる。そのまま背を向けかけた彼女は、ふと何かを思い出したように再び彼に視線を戻した。


「王についての話だが、私が調べた中でいくつか気がかりな点があった。もしかすると、王の背後にも魔術士狩りの話を吹き込んだ者がいる可能性がある。だが――決して探るな。私の推測が正しければ、ただの人間がどうにかできる相手ではない。取引が成立した以上お前の命は私のもの。これは忠告ではなく命令だ」

「……かしこまりました」


 深々と頭を下げた彼の前から魔女の気配が消える。再び顔を上げたとき、部屋には彼一人しか居なかった。幻でも見ていたのかと思えど、手の甲にある紋章がその思考を許さない。


 大きなため息が彼の口から零れ落ちる。不可能とさえ思っていた目的を達成できたはずだというのに、最後の会話が思考に暗雲をもたらしていた。

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