古傷 09
唄が聞こえる。
うっすらと開いた目に見慣れた天井が映った。視線を横に向ければ、すぐ傍で赤髪が揺れている。鼻歌を歌いながら人差し指をくるくると回すその先では、少し離れた机の上でポットからカップへとお茶が注がれているところだった。ゆっくりと飛んでくるカップを両手で受け取った魔術士の女は、クロフの方に向き直って目を丸くした。
「目が覚めたなら言ってくれればいいのに」
「また食器を割って落ち込まれる貴方様は見たくありませんので」
「……子供の頃の話じゃないの」
唇を尖らせた彼女がカップを差し出す。痛みの残る体を寝台から起こして受け取り、一口。温かく馴染み深い味に、男の口元に作り物ではない笑みが浮かんだ。
「懐かしいですな。初めて貴方様の唄を聞いたのは、もうずっと昔のことでございます。思えば、あの頃から――」
続く言葉を呑み込んだ男の表情が固くなる。カップを持つ手を下ろすと、傍らの椅子に座る女へと深く頭を下げた。
「申し訳ございません。危害が及ばぬように計画を練ったというのに、結局最も危険な場所に貴方様を立たせてしまった。魔女様が居なければ、一体どうなっていたか。……やはり私は今も未熟者にございます」
静寂が部屋を包む。頭を下げたまま主の言葉を待つ。どれほどの時間が経ったのか、やがて小さく息を吸う音が聞こえた。
「顔を上げて」
言われた通りにすれば、こちらをじっと見つめる深紅の瞳と目が合う。男が見ている目の前で、その表情がくしゃりと歪む。
「……馬鹿」
つ、とその目から流れ落ちた雫が頬を伝う。咄嗟に己の胸に手をやったクロフは、ハンカチの入ったいつもの上着を着ていないことに気がついた。慌てて周囲を見回したものの代用品を見つけられなかった彼は、しばらく逡巡してからそっとその顔に片手を伸ばす。壊れ物に触るように慎重に涙を拭った手は、離れる途中で彼女の手に捕まえられた。
「リュトレンゼ様、」
「分かってないわ」
持っていたカップが、彼の手をふわりと離れて机に置かれた。椅子から立った彼女は横座りになるようにクロフの膝の上に乗る。魔術で重さを減じているらしく、足の傷に痛みは感じない。両腕を首に回し、彼の肩に顔を埋めたリュトレンゼが小さく囁く。
「怖かったの」
「……申し訳、」
「あなたが、あの男に殺されて居なくなるかと思ったから怖かったの」
予想外の言葉に、男は思わず息を吞む。顔を上げた彼女が吐息がかかるほど近い距離でじっと彼を見つめる。どうして気づかなかったのか。見つめるのは、彼女が不安になったときの癖だ。
「私が、何のために魔術士になったと思う? 大事なものを守るためよ。それには当然あなたも入ってるの。あなたはもう私のものなの。あなたを助けたときから、ずっとそうなの。……もう二度と、忘れないで」
「……はい。心配をおかけして、本当に申し訳ございませんでした」
馬鹿、と再び呟いたリュトレンゼが肩に顔を埋める。まだ動かしづらい腕でそっとその背を抱きしめれば、冷えきった体から微かな震えが伝わってきた。
「リュトレンゼ様」
「……何?」
「もはや何度目になるのか分かりませんが、ありがとうございました。あの日貴方様に救われなければ、私は陛下と共にクーデターで殺されていたでしょう。陛下の暴走を止められなかった私も、あの方と同じ罪人でございますから」
「……同じじゃないわ。クロフは、ユーア様を探してくれたもの」
「ですが、」
「私のものを貶めるのは、あなたでも許さないわよ」
「……左様で」
あまりにも優しい脅しに吹き出すと、首に回った腕の力が強まる。宥めるようにその頭を撫で、寝台に広がる長い赤髪を指で梳いた。
「……ねぇ。あの頃から、何?」
「それは……」
不意に問われて思わず口篭る。
初めて会った頃の彼女はまだ幼い少女であり、対する彼はとっくに子供がいておかしくない年齢だった。ましてや今の彼は年老いた老人になっている。それが若い男を恐れる彼女のためだとしても、やはり言葉にするのを躊躇うのは彼の性格上仕方がないことだった。
顔を上げたリュトレンゼは、その赤い目を悪戯っぽく細めて笑う。
「知ってるでしょ? 私、我儘なの。あなたが何でも叶えようとするから、こんなに我儘になってしまったのよ。だから、貰えるはずだった言葉はちゃんとあなたの口から聞けないと満足できないわ」
葛藤する様を楽しそうにじっと見つめられ、根負けしたクロフはとうとう口を開いた。
「……あの頃から、私は貴方様に惹かれておりました。何十年、何百年経とうとも、その想いが変わることはありません。貴方様のその長い生が終わるまで、隣でお仕えし続けることをどうかお許しください」
「ええ、私も――あなたのことを愛してる」
囁いたリュトレンゼは、少女のように微笑んで彼の額に口付けた。
***
処理済みの書類に勝手に目を通していた少女が、満足気に頷く。
「短い期間でここまで後処理を済ませるとは、さすがは調和のゼレムナだ」
あの夜とは異なり、少女は質素なワンピースと地味な色のローブに身を包んでいる。突然魔女が執務室に現れることにも、ここ数日ですっかり慣れてしまった。ロードンは机の上の書類を処理しながら呆れ混じりにため息をついた。
「随分と古い言葉を知っておられるようだ」
「長く生きているからな。それに200年前、ゼレムナは大国の中で唯一中立を保っていた。私はその判断を評価しているんだ」
予想もしていなかった言葉に、ロードンは思わず顔を上げた。
200年前といえば、魔術戦争の終わり頃だ。失われゆく魔術士と魔術を巡って、何十年にもわたって大陸が紛争状態になった時代。古き魔術大国に成り代わることを考えた国々により、大陸全体に緊張状態が続いていたという。国々は疲弊し、文化は長らく停滞した。
当時のゼレムナ国王は、変化よりも安定を重んじる気風の王族内でも異例なほどに権力欲に薄い人物だったらしい。ただひたすらに戦火から自国を守ることだけに注力していたゼレムナは、今もなお臆病者の謗りを受けることがあるのだ。
「あの戦争が終わった後、生き残った魔術士のほとんどは争いを避けるために魔術を忘れること選んだ。命にかかわる秘密は重荷にしかならない。それが長い葛藤の末の決断だとしても……彼らはそれを自分で選んだんだ。私は、彼らの選択を何よりも尊重する」
魔女を名乗る少女は古き思い出を懐かしむように目を細める。悠久を見通すような白銀の眼差しに、ロードンはただ目を奪われた。しばらくそのまま呆然としていた彼は、扉を叩く音で我に返る。
「陛下、入ってもよろしいですか?」
「あ、ああ」
失礼します、と扉を開けたのはネデリスと名乗っている若い女だ。ルーヴァンスの関係者だという彼女には、建国祭の騒ぎで混乱している穴を埋めるために臨時で文官の仕事を任せている。執務室に入ってきた彼女は、当たり前のようにいる魔女をみとめて困ったような笑みを浮かべた。
「ユーア様もいらしたんですね。ちょうどよかった」
「その顔は……例の文書を見つけたか?」
「はい、断片的ですが証拠には十分です。こんなことが本当に行われていたなんて信じたくはありませんが――」
「……何の話なのか聞いてもよいか?」
「ああ、すみません! もちろんです!」
控えめに口を挟んだ彼に慌てて手を振ると、ネデリスは少し神妙な顔になって続けた。
「これは陛下にもお伝えしなければならない、今回の件に関わる重要な話です」




