古傷 08
額から汗が滴り落ちる。
建物に回った炎の熱が男の体力をじわじわと奪っていた。投擲武器として飛んでくる瓦礫と、純粋な魔術を合わせた攻撃。近づくことさえできない状況に歯噛みする。
人外に与えられた異質な武器を振るっていても、男は決して慢心していなかった。魔術士とはたとえ一人だとしてもそれほどに圧倒的な存在なのだ。やはり、まともに相手取るには剣が届く距離まで近づく他ない。そう結論付けたところで、いつの間にか向こうから攻撃が来なくなったことに気づく。
「……何だ?」
これが好機とすぐさま近寄るほど、男は楽観的な馬鹿ではない。だが、罠と考えるには攻撃の途切れ方が不自然だ。燃えた瓦礫から立ちのぼる煙は広間を満たしているが、あの女は今もその向こうにいるはずだ。
警戒を解かずに様子を窺っていた思考が、不意になんの脈絡もなく黒一色に染まる。
その瞬間、男の脳裏には巨大な存在がいた。暗闇の中に横たわる闇色のそれは、その大きな両の目でじっと彼を見つめている。襲われているどころか、敵意さえないただの想像上の産物。だというのに、興味を向けられたと認識しただけで呼吸が浅くなる。
刃が風を切る音で、男は我に返った。
考える前に腕が跳ね上がり、振り下ろされた刃を受け流す。不快な金属音と共に傷が走った己の剣を見て、背筋に冷たいものが走った。今の一撃をまともに受けていたら剣ごと叩き切られていただろう。
「貴様は何だ? あの女の使い魔か?」
恐怖の余韻から目を背けて睨みつければ、乱入者の青年は妙に緊張感のない仕草で首を傾げる。
「つかいまってなんだ? おれはワズだぞ」
「敵対する気がないのならさっさと消えろ。俺にはやるべきことがある」
「やるべきことって何だ? どうして人間を殺す?」
「消えろと言っているのが分からんか!」
首を落としてやろうと狙った攻撃が、軽い動作であっさりと躱された。立て続けに胴に、肩に、足に打ち込まれる剣を曲芸のような動きで回避しながら青年は口を開く。
「アッケルドという名前は本で見たぞ。残っているのは悪い王という話ばかりだった。王というのは国を善くするためにいるんだろう? でも国は悪くなった。ならお前は何がしたかった?」
「黙れ!」
「何のために人間を殺した? 何のために生きていた?」
「黙れと言っている!」
一際鋭く打ちこんだ剣が、その体を切り裂く直前で相手の剣に受け止められた。手首に走った鈍い痛みを無視して振り下ろした剣をそのまま上に薙げば、剣先が青年の頬を切り裂く。大きく距離をとって顔を顰める姿を見て口角を上げた男は、すぐに眉をひそめることになった。
「またユーアに怒られる……」
ぼやく青年の頬からは血が流れていない。赤黒いどころか漆黒にすら見える傷口に目を凝らしたところで、ぞわりと寒気を感じた男は己の剣に目を落として愕然とした。
「……これは」
剣先が黒く染まっている。じわじわと、侵食するように闇が剣身を這い上がってくるのを呆然と見ていた男は、不意に走った激痛に顔を歪めた。頭が割れると錯覚するほどの頭痛に、耐えきれずに膝をつく。
「――何が起きてるのか分からないって顔してるわね」
いつの間にか近くにやってきていた魔術士の女が、そう呟いた。
「き、さま……一体、何をした……」
「何もしてないわよ。お前、自分の今の状態も分かっていなかったのね」
ため息をついてしゃがみこみ、女は彼の顔を覗き込む。
「お前の魂は魔力に変換されて剣に封入されてるの。そしてその剣は触れた魔力を例外なく吸収するのよ。――それが人外のものでもね」
「リュトレンゼ、剣がおれと同じ色だぞ」
「お前の魔力は異質なの。ただの金属に耐えられるものじゃない。この男にしてみれば、存在を塗り潰されているのと同じだわ。じきに自分が誰なのかも分からなくなる」
「どうにかできないのか? まだ一つも答えを聞いてないぞ」
「嫌よ」
頭の上で交わされる会話の意味を、男はもはや理解することができない。痛みはぼやけた不快感になり、意識には茫洋とした暗闇ばかりが広がっている。何かとても重要なことがあったはずなのに、暗闇の中では何も見つけることができない。
「…………俺は、魔術士を……」
何かを探すように視線をさ迷わせていた男は、頭を掴まれて顔を上げる。静かに燃える双眸が男を見下ろした。
「魔術士という存在がお前に何をもたらしたのかなんて、知らないし興味もないわ。でも、私の平穏を奪おうとするのならお前は私の敵なの」
平坦な声で女は告げる。
「消えなさい、アッケルド」
鈍い衝撃と共に、男の意識はそこで途絶えた。
***
心臓を潰された体が床に倒れこみ動かなくなる。それと同時に、男が握っていた剣が真っ黒に染まって崩れ落ちた。赤黒い染みができたドレスを見下ろして、女は細く長いため息をつく。
結局、自分の手で決着をつけたとは言い難い結果になってしまった。これで本当によかったのか、という思いがリュトレンゼの胸を過ぎる。
怒りや恨みを抱くほど、彼女はあの王のことを知らない。知識としては知っていも、実感がないのだから恨みようがないのだ。ただいくつか彼に聞いた話から、哀れな男だと思ったのを覚えている。
「あ」
間の抜けた声に顔を上げれば、人外の青年が目を丸くしている。その指先は砂と化した剣に伸ばされていて、そこから立ち上った黒い靄が頬の傷口へと吸い込まれていく。全ての魔力が戻ると、傷は静かに消えた。
「……?」
青年は不思議そうに己の頬を擦る。呆れるくらいに優しい師を思って、リュトレンゼは大きく肩を竦めた。
***
「――なんだ生きてたか」
聞き覚えのある声に、遮断していた意識を取り戻す。
久方ぶりに瞼を開けば、白銀の瞳が不機嫌そうに見下ろしていた。体を起こそうとした彼は、思い出したかのように襲い来る全身の痛みに思わず顔を歪める。骨が折れているようだ。あれだけ嬲られていたにしては随分とましな結果ではある。動かしづらい体の代わりに、何とか動く口を開く。
「今度こそ見捨てられると思っておりましたが……貴方様も存外お優し」
軽く横腹を蹴られ、痛みに悶絶する彼に少女が鼻を鳴らす。
「向こうをリュトレンゼに任せたおかげで暇だったからな。そうでなければ、勝手に他人を利用して勝手に失敗して勝手に死にかけている阿呆を助ける理由はない」
「さ、ようで……」
苦笑が洩れるが、事実でしかないので弁明のしようもない。苦労して半身を起こせば、この国の王である男と式典の代役を任せていた娘が駆け寄ってくるのが見えた。まったく、利用されたことは既に分かっているだろうにどちらも甘くて困る。手助けを受けて何とか立ち上がったその老人は、変わらず仏頂面の少女に恭しく一礼をした。
「このクロフ、黒竜の魔女様に感謝を。――お待ちしておりました、ユーア様」
***
城の上層から飛び降りた少女は、ふわりと地面に着地した。その目の前には、地面に叩きつけられた肉片が散らばっている。魔術で切り刻まれたことで、人間のふりをしていた名残はほぼ残っていない。
「人の真似をして取り入るほど頭の回る魔物は珍しいはずなんだがな。鱗の件といい、最近はこんなのばかりだ」
魔物は赤い染みの中心に横たわり、潰れかけた目でぎょろりとユーアを見上げる。
「ご、ァ……が」
「なんだ、自己回復もできないのか? よく精神操作なんて細かい芸当ができたものだ」
ひしゃげた塊に少しだけ魔力を注いでやれば血肉が蠢いた。水っぽい音を立てて徐々に元の形を取り戻そうとする様子を観察しつつ、彼女は口を開く。
「魔物というのは動物と似ている。本能で動き、回りくどいことは好まないものだ。ならばお前は誰の指示で城に入り込んだ? 何のために王に近づいた?」
「…………ぎゅ……ぁぼ、ごぜ、ば、ま、ままりょぐ、よご、よこぜ、にぐ、に、く、肉」
うわごとを繰り返しながら、魔物は魔力を注ぐ手のひらへとにじり寄ってくる。その仕草は光に群れる虫のように本能的で、知性は感じられない。眉をひそめつつその言葉に耳を傾けていた彼女は、ため息をついてその手を上げた。
「――穿て」
鈍い音と共に、無数の光がその体を貫いた。磔になった魔物は断末魔らしきものを上げてのたうち回るが、数を増す光の杭に串刺しにされてその動きも徐々に弱々しくなっていく。
「時間の無駄だったな」
つまらなさそうに呟き、魔女は踵を返す。後に残ったのは、動かなくなった肉塊だけだった。




