空の夢 06
ギィ、と軋んだ音を立てて扉が開く。
「——よう、遅かったじゃねぇか」
背後から近づいてくる硬質な足音を聞きながら、人ならざる男は足元を見下ろした。
そこには炎のように明るい髪の女が這い蹲っていた。それなりに整っていた容姿は今やぼろきれのような有様であり、肩を荒く上下させている。
ゆるゆると顔を上げた女は、来訪者の姿をみとめて憎々しげに顔を歪め——
「消えちまえよ、塵芥」
何か言おうとしていたその頭に、ヒューロオッドは無造作に足を振り下ろす。弾けた魔力の飛沫を片手間に相殺してしまえば、そこにはもう何も残らなかった。
「てめぇが俺の従者を消したから、小蠅がやかましくてな。だが、魔族を殺すのは楽でいい。血も肉も残らねぇ。そう思うだろ、なぁ?」
口だけで笑い、彼は振り返る。
そこに立っていた黒髪の少女は、変わらぬ空虚な白銀の瞳で彼を見ていた。
す、と横へと差し伸べられた白い指が、緩く虚空を握る。
そこから現れたのは、一本の槍だった。
少し強く握れば真っ二つに折れてしまいそうなほどに華奢な、光り輝く白銀の両刃槍。長さは少女の身長を優に超える。
重さを確かめるように振った刃先が床のタイルに当たるが、その手が止まることも刃こぼれが起きることもない。
「ミティールス……おいおい、何てモン持ち出してんだよ」
まるで幻のように不自然に床をすり抜けたそれを見て、男は苦笑した。無造作に槍を肩にかけた少女は、無表情のまま軽く首を傾けた。
「武器は飾るためではなく使うためにある。それに、言ったはずだ。私がお前を殺すのは、私がお前を見つけたときだと。手を抜くつもりはない」
「はっ、上等じゃねぇか。そんなに遊びてぇなら付き合ってやるよ——クソガキが」
***
朝焼けが知らない街並みを染める。
知らない空気、知らない人々。
何ひとつとして見覚えのないそこを、ひとり歩く。
顔を上げる。
通りの向こうに、一つの小さな城が見える。
見知らぬものしかない中で唯一、それだけが見覚えのあるものだった。
***
結果としてワズは、この時代で一年を過ごした。
一年。それは、元の時代で彼女と旅をした日々よりも長い時間だ。
城から出ることはほぼないものの、それでも彼女の過ごす日々は穏やかだった。
露台から外を眺め、魔術の研究をし、本を読み、彼と話す。
初めよりも笑うことが増えて、少しだけ身長が伸びた。
相変わらず、元の時代に戻る手がかりは見つからなかったが。
どこかぼんやりとした日々は、それでも幸せだった。
本当に、幸せだったのだ。
けれど。
その行き着く先がこれだというのなら——どうすれば、よかったのか。
***
「——ああ、何だ。来たのか」
小柄な背中が振り返る。
赤々と燃える炎を映した片方の瞳が、青年の姿を認めて細められた。
最近の彼女は、遠見の力を研究していた。
遠見で視たい過去を視ることができるようになれば、少しは己もこの国の役に立つことができるはずだ、と。
遠見の実験のために眠っている時間が増え、その分彼がどこかに行っているように言われる時間も増えた。
そうして、彼が城に戻ってきたときには、既に何かが終わっていた。
「ユーア。何を、してる?」
出入口に立ち、ワズは一つ問う。少女は答えず、その視線で周囲を見渡した。
大広間は火の手が回っていたが、それ以前に破壊し尽くされていた。壁には大きな刃で切りつけたような傷が横一線に走り、調度品の残骸は炎に呑まれている。建物を支えるための大きな柱は中程から折れ、床は所々にひび割れと何かの破片が散っている。
その中に、何人もの人間たちが倒れている。否、人と認識できるものはあまり多くない。黒焦げの塊のようなものや、まさに今黒焦げになりつつあるもの、いくつかの部位になったものも転がっている。
「この私自身に関係するものくらいは、今のうちに私自身の手で片付けておきたかった。それだけのことだ」
少女が頬を煩わしげに拭えば、ぼろぼろになった袖口が赤黒い血でべったりと汚れた。
熱風に巻き上げられた前髪の下、瞼から血を流す片目が既に機能していないことを知る。纏っている簡素なドレスは所々が破れ、赤い染みができ、あるいは焼け焦げ、煤に汚れた足が膝よりも上まで露わになっている。
「ユーア、何を——」
口にしかけた問いかけは、その一瞥で止まる。
「いいや、お前は分かっている。そろそろ都合のいい夢から醒める時間だ——私も、お前も」
***
彼女に会いたい。
そう思っていた。
ずっと、彼女と別れてからずっと思っていた。
その願いは、叶ったのだと。
そう思っていた。
ずっと、彼女とこの時代で再び出会えてからずっと思っていた。
——思っていれば本当に願いが叶ったことになるのだと、そう思いたかった。
***
広間の中心で立ち止まった少女の傍らに、崩れ落ちた天井の一部が落ちて粉々に砕けた。
だが、彼女はそれに目を向けさえしない。代わりにその隻眼は、血と煤に汚れた己の手のひらを見下ろした。
「人ひとりの生涯を魔術で記録することさえ、フェーデルシアの技術では容易いらしい。そしてその情報で、女の腹の中にいる赤子に干渉し、別の姿で産ませることも同様に容易い。そうして欠片でも『原本』の力を宿してさえいれば、子を産んだ女がどうなろうとも奴らの目的は達成された。城を術式として私から魔力を吸い上げ、この大陸の中心から湧き出る高濃度の魔力を防ぐ結界を維持させる。私の存在意義はそれだけだった」
握り締めた指の隙間から血が滲み出て、その腕を伝う。
俯いた少女の口元が、小さく笑みを浮かべると同時に唇を噛んで血を流した。
「ああ本当に、本当に——どうしようもなく、馬鹿げている」
そう吐き捨てて、ゆっくりと両手で顔を覆った少女の小さな呟きさえ、ワズの耳は聞き逃すことができない。
「私のものなんて、何も無かった。誇りも、怒りも、歓びも、寂しさも全部偽物で、不要なものだった。私に求められていたのは、ただ存在することだけだった」
崩れた壁や天井の隙間から吹き込む風音と、時折何かが燃えて弾ける音をどこか別の場所のような気持ちで聞いていた。
何かをすればいいのか。何をすればいいのか。何もしないほうがいいのか。何も分からない。
駆け寄ることも、立ち去ることもできずに、青年の姿をした彼はただそこに立っていた。ただ茫然と、何も出来ないままに立っていた。
だからだろうか。
——こつり。
新たに広間に現れた人物を理解するのに、彼の思考は随分と長い時間を要した。
「………………………………ユー、ア?」
呆然と、ワズはその少女の名を呼ぶ。
腰まである黒髪は、邪魔にならなければそれでいいとでもいうように紐で結ばれている。ローブと靴は所々が砂で白く汚れていた。彼のよく知るものと同じ色の眼差しは、名前を呼んだ彼をすり抜け、ただ広間の中央にのみ注がれている。
「……っ、ふは」
沈黙の中で響いた小さな笑い声に、彼の後ろに立つ少女が僅かに眉を動かす。
顔を覆って肩を揺らす血まみれの少女を見据え、彼女は軽く首を傾ける。
「狂ったか」
「……いいや、少なくとも私は正気のつもりだ」
「ならば何がおかしい」
両手を下ろし、隻眼の少女は静かに顔を上げる。
「さあ、何だろうな。全て、とでも言えばいいのか」
青年を挟んで対峙した同じ顔の少女たちが、互いの姿に驚くことはない。ただローブの少女は目を細め、炎の中の少女はおどけたように肩を竦めて口を開いた。
「民も殺したのか?」
「私が殺したのは罪を知る者のみだ。それも、生き残りはそう多くはなかったが」
「そうか」
ため息のように零した少女は、まだ無事な方の目を静かに閉じた。
「私は疲れた——だからもう、終わりにしてくれ」




