4 森に蠢く
地図に従い、町を出る。
ただでさえ薄い早朝の光は茂る木々に遮られ、暗くて肌寒い森の中を風翔たちはひたすら歩いていた。
樹海のように広い森は延々と続いており、建物などは見えない。
まるで自分たちを飲み込もうとしているのではないか。
そんな杞憂を考えてしまうほどに、終わらない森は恐怖心を煽ってくる。
地図に示された場所までの距離がどのくらいかは明記されておらず、しかもどのような形状の建物かも不明。
更に悪いことに、森の中は景色が変わらないので、自分たちが進んでいる方向が合っているのかわからなくなってくる。
「………」
相当な疲労が溜まっている麻子は、それでも休むことなく、かれこれ3〜40分は歩いているが、既にほとんど話すこともなく、風翔は前を歩く彼女の不調を見逃すまいとしていた。
そしてふらっと前のめりに倒れそうになった麻子を見て流石に休憩を挟むことにする。
太めの木に寄りかかり、しかし空元気も出ないのか何も言わない。
菓子パンしか食べていない現状はかなり危険な事態であることを明確に告げていた。加えて暑い。
限界を迎えている女性にこれ以上行動を強いるわけにはいかない。
一方で動かなければ現状を打破することも出来ないだろう。
「先生…」
何とかしてやりたいが、ここで別れたりしたらかえって危険なので動けない。
もし風翔が単独行動をして迷えば、麻子の身が一層危なくなるのである。
ゆえに、側にいて見守るしかない。
そもそも風翔自身も暑さと渇きにかなりやられていた。
それでも、自分が何とかしなくては。
ここまで助けてもらった。
麻子を助けなくてはという感情が風翔を奮いたたせる。
その時だ。
「………?」
何かの唸り声が聞こえたのは。
風翔だけでなく麻子も気づいたらしい。
猛獣かもしれない。
緊張が走り、2人は息を殺した。
「ゴグルル……」
声が大きくなる。
近づいてきているのだ。
足音も聞こえる。何かが風翔たちの方へ向かってくる。
「何だ…?」
木の陰に隠れ、その正体を探ろうと顔を少し出し、音の方を凝視する。
ほとんど間を置かずソレは現れた。
「……な…」
ソレの姿を見て声をあげなかった自分を褒めちぎりたい感情が微かに湧く。
そんな場合ではないのであっさり消えていったが、瞬間的に息を殺した風翔が振り返ると麻子は絶句していた。
声も出ず、ただ、言わずとも両者には理解できることがある。
見つかれば確実にマズいことになると。
だから何もせず、やり過ごすという選択をとる。
この選択は正解だったようでソレは唸り声を上げながらゆっくりとその場を通り過ぎ、やがて姿を消した。
完全にいなくなったことを確認出来るまでは動こうとすらしない2人の心臓は、正体不明のソレを初めて見て、凄まじい早さで鼓動している。
「な、何…?あれ」
麻子がガタガタと震えながら本当に小さな声を出した。
「わかりません」
同じく風翔も寒くもないのに鳴りそうな歯を食いしばって抑えながら、やっと返答出来るくらいに震えていた。
ソレは光を反射する黒光りの身体に赤い渦巻き模様が浮かんだ奇怪な動物らしきもので、目と思しき部分がまるで闇そのもののように漆黒で、全てを飲み込もうとするかのように不気味な雰囲気を出していたのだ。
現代日本には絶対にいない何かに遭遇し、ましてや本能が危険だと告げる存在を見たら、人間は震えて隠れることしか出来ないと胸を張って語れる経験となってしまう。
そんな化物といって差し支えないものが姿を消してしばらくし、安全を確保出来たためか、風翔は間抜けな声を漏らした。
「……はぁぁ…」
ドッと力が抜ける。
それがいけなかった。
「うぉ!」
ぬかるんでいた地面は力無い風翔の足を滑らせる事態を招き、彼の隣にいた麻子も滑ってきた足に足を弾かれ、前のめりに倒れそうになる。
「きゃあ!」
彼女は咄嗟に手を出して身体が泥だらけになることは回避出来たが、結果としてあまりよろしくない絡みが発生した。
「……あ」
滑って転び、仰向けになった風翔の顔に、麻子の股間が乗っかってしまったのだ。
彼女はスカートを履いていたので、当然下にある頭は下着を押し付けられた形となる。
「〜〜〜〜っっ!!!?」
状況を理解した麻子がバッとそこから飛び退き、泥まみれのスカートを押さえる。
一方後頭部から背中まで泥だらけになった風翔は顔から火が出ているようで、未だ硬直したままである。
麻子の下着ははっきり見えた。
その感触もまだ残っているせいで思考の整理が追いついていない。
「き、昨日といい今日といい…」
怒りとは違うが、麻子はかなり複雑そうな顔を向ける。
「も、申し訳ありません…」
バッと起き上がり、風翔は頭を下げた。
「以後、本当に、本当に気をつけます」
下げた頭を上げることはなく、相手からの返事を待つ。
「…見えた?」
少しの間をあけて、そんな問いが返ってくる。
「……」
もちろんバッチリ見たので何も言えない。
「見えたんだ…」
沈黙は肯定。
あっさりバレてしまう。
怒られるかと覚悟したが、彼女の反応は違った。
「……ごめんね。見苦しいものを」
謝罪が来たので一瞬目をパチクリさせたものの、風翔は下げた頭を上げることはなく。
「い、いえ…重ねて謝罪します」
しばらく、化物の件と気まずさから木陰で微妙な空気が流れはしたものの、先に行動したのは麻子だった。
「よし、休憩したし、出発しよう」
彼女の状態は良くない。
休憩したと言っても、大して状況は変わっておらず、動いて良いものか真剣に考えなくてはならないレベルの話である。
「本当に大丈夫ですか?」
確認を取る。
「大丈夫…だと思う」
それに対する回答は、確定ではなく、推測。
「巴くんが転けたおかげで怖さは和らいだし、この辺りがアレの縄張りだったりしたらいるだけで危ないからね」
続いて放たれた麻子の言葉は確かにその通りで、戻ってきた化物に発見されでもしたらそれこそ危険なのだ。
「早く離れよう」
とは言うもののまだ足元がふらついている彼女をどうしたものか。
風翔は悩んだ。
状態としても、これ以上消耗させるのは避けたほうが良いだろう。
「おんぶします」
彼が出した結論は、麻子を歩かせないこと。
消耗の少ない自分が歩けば良い。
「へ?」
予想外の提案が来て、一瞬何言ってるんだこの子みたいな微妙な表情を浮かべはしたが、風翔がふらふらの麻子を歩かせて消耗させたくない旨を伝えると、渋々提案に同意してくれた。
「お、重くない?」
麻子の身長は157cmと平均的で、体格も普通。
167cmの風翔としてはそれほど苦もなく背負える。
「そんなことないですよ」
重くはないので否定を返し、歩き出す。
さっさとシスターの元へ行き、麻子を休ませたい。
ついでに一つ重大な事実に気づいたというのもある。
自分から提案しておいて気づいたのは背負ってからだが、おぶった麻子の胸が背中でぽよぽよと押し付けられては形を変えて、破壊力抜群の弾力をぶつけてくるため、早く彼女を降ろさないと理性がどうにかなりそうだった。
風翔は無心を心がけ、歩みを進める。
だが流石に人1人を背負って歩くのはいくら体格差があっても、17歳の少年にはキツいものがある。
出発してから10分程度で暑さと辛さから体力が削られ、そろそろ限界を感じていたところで、麻子が声を上げた。
「巴くん、あれ!」
彼女が指差した方に風翔も顔を向ける。
視線の先にポツンと教会らしき建物が確認出来た。
結果として、進んだ道は正しかったらしい。
最後の力を振り絞り、風翔は麻子を背負ったまま教会にたどり着く。
門の前まで来て、もう大丈夫と麻子が希望したため、彼女を降ろし、ようやく到達した教会を改めて確認。
見上げれば立派な教会だ。
近くにあるインターホンを鳴らしたところ、年にして20代半ばのシスターと思しき女性が出迎えてくれた。
「ようこそ。何か悔い改めることがおありですか?」
教会のシスターらしい迎え文句だが、悔い改める前に、知りたいことが山ほどある。
風翔と麻子は、シスターに対し、ニャクの紹介で来たこと、自分たちの身に起きたことを説明。
それで理解してくれた様子のシスターはとりあえず、その消耗した身体を休めたら良いと広めの部屋に通してくれた。
「消耗されているようですし、泥だらけですね。軽食と着替えでしたらお持ちします。その間に浴場で身体を洗ってはいかがでしょう。隣には客間もありますので、よろしければご利用ください」
見ず知らずの他人にもかかわらず、手際が良い。
何人かは自分たちと同じ境遇の人間がいるのかもしれないと風翔は考えた。
とにかく汚れを落としたい2人は浴場に向かうことにした。
1つだけなのでまず風翔が入り、次に麻子が身体を流す。
2人は着替えてから客間の椅子に腰掛け、ようやく息を落ち着ける。
麻子も座りはしたが、見てわかる危険な状態一歩手前といった感じだった。
シスターが2人にパンとスープを振るまってくれ、それに感謝する。
「これ食べたら一度寝てください」
風翔は食べながら、隣でスープを飲む先生に休んでほしい旨を伝えてみる。
しかし麻子は休むより状況把握がしたいようで
「え?でもまず、状況を…」
と先に休まないつもりでいる。
「焦らなくても大丈夫ですから。まずは先生が元気にならないと」
風翔としても確かに、シスターに情報をもらいたいところではあるのだが、それは自分を守ってくれた教師を休ませてからでも出来る。
優先すべきは休息である。
異論は認めない方針を掲げた。
「……う、うーん」
しかし何故か彼女は渋る。
「寝てください」
「でもね、私も気に…」
「ネテクダサイッテイッテルンデスガキコエテマスカ?」
麻子自身も知りたいことは山積みだろう。
しかし、体力回復が最優先なので言葉をぶった切り、聞き入れない彼女に哀れむような目を向ける。
「口調が怖いよ!何でカタコトになるの!?その日本語わからないのかなぁこの人みたいな哀れむような目を向けるのもやめて!」
勝手に都合の良い解釈をした麻子は結局折れ、半ば強制的に上下ジャージの簡素な着替えと共に客間へと押し込まれた。
風翔としてはどう思われようと、元気になってくれなければ心配事が尽きないのだから致し方ない。
「あなたはお休みにならないんですか?」
シスターが半袖短パンに着替えた後、椅子でうとうと船を漕ぎ始めていた風翔に問う。
「机で寝るので」
ベッドで休むのは麻子。
自分など机と椅子で良い。
「…………」
疲れは相当なものだったのだろう。
1つの目的を達したことによる安心感も相まって、少年はあっさり眠りに落ちていくのだった。
仮眠室のベッドに遠慮がちに寝転がりつつ、麻子はプンスカと怒っていた。
理由は無理やり寝ろと言われたからだ。
理解はしている。
寝ていない自分は体力をずっと消耗し、結局一度は動けなくなったのだ。
彼が休息を優先させたのも当然といえば当然なのだが、麻子自身は早くこのハイティバインとやらに来た事態を把握し、可能なら風翔を元の次元に戻してあげたい。
それをさせてもらえないとなると、自分の目的である風翔を両親の元に帰らせることの手がかりを自分の体の弱さと少年の弾圧で後回しにされ、やりたいことができない。
これは不満だった。
だが寝たほうが良いのは間違いない。
だから反論も出来ず、今こうしてベッドで寝ている。
一方不満は募り、結果プンスカしていた。
「いや、確かに疲れてるけどさ」
独りごちる。
寝ていないので素晴らしい眠気が頭を叩いてきており、身体が寝ろとゴーサインを出すのは
当たり前。
「…………寝よ」
どうせ出ても風翔に押し戻されるに決まっている。
結局三大欲求の1つに抗うことはせず、不満は残るも寝ることにした。
お読みいただきありがとうございました。
ヤバそうなのが出てきましたね。
次回もよろしくお願いします。