あとがき
ブルース・スプリングスティーンの一九九五年作品〝the ghost of tom joad〟を聴き、感銘を受けた。曲は暗いトーンで、ギターとハーモニカが闇に寂しく浮かび上がる。囁くように歌われる歌詞=物語は、〝トム・ジョードの亡霊〟を呼び起こす。そのトム・ジョードとは?
――アメリカ中部に砂嵐地帯(Dust Bowl)と呼ばれる乾燥地がある。この乾燥と貧困が多くの農民の生活を不能にした。これは自然の猛威と経済変動に土地を追われ、安住の地を求めて長い旅に出る農民一家の物語である――。
ジョン・スタインベック一九三九年発表の小説〝怒りの葡萄〟。舞台は一九三〇年代、アメリカ。オクラホマの小作農ジョード一家がカリフォルニアを目指す。しかし辿り着いた先は約束の地ではなかった。希望は打ち砕かれる。騒ぎの中、主人公トム・ジョードは仲間を殺された怒りで再び罪を犯す。去り際にトムは母親に言う。「俺はあらゆる暗闇にいる。食べ物に困って飢えた人たちの喧嘩があったら、俺はそこにいる。警官が誰かを痛めつけているなら、俺はそこにいる。みんなが怒って叫び声をあげている時、俺はそこにいる」。
スプリングスティーンは現在のアメリカの状況は半世紀以上経っても当時と変わらないと言った。失業率の深刻化、搾取する側とされる側の格差。一方では物に溢れ、食べ物は捨てられ、真の豊かさは麻痺し、自殺も殺人も戦争も無くならない。上層にも下層にも不正は蔓延り、悪しき情報は垂れ流され、価値観は歪み、笑顔も消え、世の中はもっと寂しく、貧しくなっている。
〝トム・ジョード〟とは、虐げられ、騙され、踏みにじられた民衆の怒りの象徴。不条理に立ち向かう意思と行動の象徴。「その幻影は今の時代でも生きている」……スプリングスティーンは後の〝wrecking ball〟でも歌う。「怒りを持ち続けろ。怖じ気づくな。厳しい時代が来ては去っていき、またやって来る」と。
猫のトムの視点で物語を描こうと思った。人の目の高さよりも低い視線で。育てられた家と街への想い、大切な家族、その温もり。そして誰もが辿り着く想い……死んだらどうなる? ……〝トムの亡霊〟はspiritual home 心の故郷を糧に彷徨う。それは僕の願いかもしれない。死んで消えて無くなるのは恐怖だ。その時、当たり前な生の実感がどれほど温かく思えるだろうか。当たり前な心臓の鼓動が、どれほど恋しいか。
優しさを見失いそうな社会に、何が必要なのか? 揺るがない、指針。〝怒りの葡萄〟のトムの母親は、家族が一緒にいさえすれば、どんな苦難も乗り越えてゆけると信じていた。必要なのは家族を思う気持ちだ。そして家族を思うように他者も愛せるか、だと思う。
【追記】
ジョン・フォード監督による1940年映画版では描かれなかったが、『怒りの葡萄』原作小説のラストは衝撃的で、あまりにも美しく、胸を打つ。そこには一つの究極の愛がある。
二〇一九年 十月十六日 ホーリン・ホーク




