第四話 〜悪夢、来襲〜
本当はフリガナなどを使えれば読みやすいのですが……。
申し訳ありません。
ウェセックス軍がマーシアに侵攻する際、最初に立ちはだかるのがテムズ川である。
テムズ川は、西部フィッチ王国首都グロスタシャーを源泉とし、そのまま東へ流れて、エセックス王国の首都ロンドンに辿り着く。
それゆえに、テムズ川はブリテンの南北を仕切る河川として、その進軍に関しては戦術上、特に慎重を期さねばならないのだった。
―――なぜならば。
通常、ウェセックス軍がテムズ川を渡るには、王都ウィンチェスターから真っ直ぐ北に進んだ先、ちょうどテムズ川中流に陣取る“ベンシングトン”という街を制圧するのが妥当である。
ここを制圧すれば、そのままテムズ川に沿って進むことで、西のフィッチ王国と東のエセックスを攻め入ることが可能となるし、何よりも補給線を無駄に伸ばすことなくマーシア王国に直進することができるからだ。
しかし、聖騎士率いるウェセックス王国軍はそのままテムズ川を西に迂回し、直接、フィッチ王国首都グロスタシャーへ電撃戦を仕掛けるため、精鋭部隊である第一・第二騎士団を密やかに進軍させていた。
これには、二つの意味があった。
一つは、エセックス王国への配慮である。
先の通り、テムズ川中流のベンシングトンを押さえれば、無駄に補給線を伸ばさずに進軍することができ、フィッチ王国への攻略も余裕をもって行うことができる。
しかしそれは同時に、東のエセックスに対しても武力的な牽制と受け取られ、不可侵を結ぶ上で、計らずも相手の警戒心を植え付けてしまう結果になりかねない怖れがあった。
となれば、他の二国もまた同様に調印に警戒し、話そのものが白紙となる可能性も出てくるのだ。
それはウェセックス軍にとって、マーシア攻略の根本が瓦解するほど致命的な悪手だった。
本来ならば、調印の報告を受けてから行うべきなのだろうが、そもそもマーシア打倒を疑問視する彼らが、そう容易く不可侵の調印を結ぶとは思えない。
マーシア攻略に対し、ウェセックス王国が本気で取り組んでいることを示すためには、あえてベンシングトン制圧を避けることで東三国の余計な警戒心を削ぎ、不可侵の調印を早期に結ばせる決意を暗に促すと同時に、敵勢力の一つを叩き潰す必要があったのである。 そしてもう一つは、宣戦を布告したウェセックス軍に対し、マーシア王国が“魔人”と“剣聖”を伴って本格的に抵抗する前に、あの堅牢無比で知られるフィッチ王国を潰しておきたいという意図も込められていた。
フィッチ王国は、特に篭城戦に定評がある戦術で諸国に名を知られた国だった。
そもそも、七世紀末の建国当初においては独立国として王号を有したのだが、エグバートを追放したオファの時代にはすでに従属状態と化しており、七王国にさえ列挙されぬ小国にまで落ちぶれていた。
現在でも立場は変わらないが、北にブリトン勢力のウェールズ、南に七王国の一つウェセックス王国など、強力な勢力に挟まれた彼らは、寡兵をもって大軍を迎え撃つ唯一の戦法である、篭城戦に知恵の全てを振り絞ったのである。
その分、攻城戦となれば、手勢の戦力としてはからきしだが、ひとたび防戦に徹すれば、文字通り鋼鉄の自然要塞と化して侵入者を拒絶する。
ウェセックス王国は、その防備が完全に整う前―――即ち、フィッチ王国がまだ、ウェセックスの狙いがベンシングトンであるとする偽報に安堵し、油断している隙に制圧しようとしているのだった。
だが、いかに聖騎士とはいえ、この難攻不落の自然要塞を陥落せしめるのは、常套手段では難しいとする見方があった。
フィッチ王国首都グロスタシャーは、その外周のほとんどを大自然によって守られている。
北には、ボアと呼ぶ海嘯が発生することで有名な、ブリテン最長のセヴァーン川があるため、搦め手は初めから使えない。
かと思えば。
東は標高300以上の丘陵地帯コッツウォルズがあり。
さらに南には、ディーンの森と呼ばれる深い霧の迷森が広がっているため、騎馬団による突撃もできない。
最も有効的な方法は、歩兵による潜入任務であったが、それも城下町をぐるりと囲む城壁があって地上からは難しい。
しかも、この城壁の穴たる門は、正面ただ一つしかないという徹底ぶりだ。
最初、エグバート王がイングラムのフィッチ王国攻略を提案した際、思わず頭を抱えたのも頷ける、まさしく自然要塞と呼ぶに相応しい関門であるのだった。
だが、ここを攻略しない限り、ウェセックス王国にはマーシアを撃つ術がない。
聖騎士率いるウェセックス軍は、多少の強行軍ではあったが、電光石火で制圧せねばならなかった。 フィッチ王国軍を束ねる“将軍”の地位にあるカインは、まだ人々が寝静まっているはずの深夜に目が覚めた。
首都グロスタシャーの中心部に聳え立つ城の二階に彼の執務室があるのだが、どうやらカインは、報告書やら近隣諸国の状況やらを整理している最中に、不覚にもそのまま眠りこけてしまったようだった。
しかし、彼の意識を現実に引き上げたのは、ごく自然的な覚醒の招き手ではなかった。
「―――いったい、何が起こっていると言うのだ…!?」
部屋の外から劈く、やかましい破壊音と響き渡る無数の悲鳴に、カインはただならぬ異変を嗅ぎ取り、低い呻き声を漏らした。
「ウェセックスか…?
…いや、奴らにしては早すぎる…」
カインは腰に剣を携えると、急いで執務室を出る。
通路に人の気配はなかったが、階下ではまだ、物々しい喧騒が繰り広げられていることを感じとることができた。
兵士たちの怒声。
住民たちの悲鳴。
―――そして聴く者に恐怖を植え付ける、正体不明の、巨大な獣じみた咆哮。
「…なんだ?
いったい、何が起きたというんだ…?」
混乱する思考を、強い精神力でなんとか整理する。
ウェセックス王エグバートが、マーシア王国に対し宣戦布告を突き付けたのが二日前。
そして間者の報告では、聖騎士スレイン率いる騎士団が、北のベンシングトンを目指して王都を出たのが昨日だとしている。
仮に、それが偽りで、王都から直接こちらに攻め込む戦略だったとしても、昼夜兼行で馬を走らせたとて、着くのはせいぜい今日の昼過ぎだ。
まだ半日も猶予があるこの深夜に、あたかも王都が戦場と化したかのような騒ぎに陥るなど、決してありえぬはずであった。
「これは、いったい何事なのだ?」
不可解な状況の理解に苦しむ中、カインは、ようやく通路の曲がり角から駆け付ける兵士の姿を認めた。
「カイン将軍! よくぞご無事で…!」
兵士は息を切らせながらカインの前で略式に敬礼すると、すぐに本題を切り出した。
「将軍! ここは危険です、早くお逃げ下さい!」
「待て待て、いったい何をそんなに慌てているのだ?
いったい、ここで何が起きている?」
いつになく青褪めた顔を強張らせながら、早口に捲し立てる部下をひとまず落ち着かせ、カインは現在の状況を説明するよう促した。「王都は現在、大混乱に陥っています!
突然の敵襲に防備の暇もなく門を破られ、街はすでに壊滅状態!
我々も全力を尽くしてはおりますが、このままでは…!」
カインは、思わず顔をしかめた。
やはり敵襲かと理解していながら、しかしありえぬとする思考の板挟みにあって、頭はすでにきゅうきゅうとしているのだった。
「敵襲だと?
バカな…! まさか、ウェセックスがこれほどまでに早く攻めてきたとでも言うのか!?」
だが、それはあり得ない。
空を飛ぶというのなら話は別だが、それ以外の海路や陸路では、どんなに早くとも一日はかかるはずだからだ。
兵士は首を振り、声を荒げて言った。
「いいえ! 奴等はウェセックス軍などではありません!
自分は…、自分はあんな…、あんなおぞましいバケモノを、見たことがありません!」
決して冗談などでない兵士の鬼気迫るように怯えた顔が、カインの思考にいよいよもって、己の理解を超越した“何か”が起きているのだと悟った。
だが、その“何か”をさらに聞き出そうとした時、今しがた兵士が現れた曲がり角から、今度は吠え立てる二匹の犬が現れたのである。
舌を垂らし、涎を撒き散らす犬は、しかしカイン達に明確な殺意を抱いて全力で駆けてきた。
「う、うわぁッぁぁ!」
兵士は振り返りざま、慌てて剣を振りかぶったが遅かった。
犬は上段に振りかぶった兵士の、隙だらけとなった喉に噛み付き、しきりに首を振って致命的なダメージを与えていく。
悲鳴も出せなくなった兵士は薄れいく意識の中で力の限り犬を振り払おうとしたが、もう片割れの犬が股間に狙いを定め、男性器ごと噛み千切ってそれを吐き捨てた。
兵士は全身をびくんびくんと痙攣させて崩れ落ちる。
犬は、その亡骸を踏み付けながら、次の目標たるカインに向かって睨みを利かせた。
「…なるほど。
確かに、このブリテンにはおらぬ、おぞましい畜生だな」
犬は、この闇夜から切り取ったように黒かった。
研ぎ澄まされた牙も、鋭利な爪も、全身さえも通路の明かりに照らされてくっきりと昏い。
大型犬ほどもある体格は、人を威圧するのに充分な迫力があり、ウウゥ、と喉奥を鳴らせて威嚇する眼は、狩猟に長けた血の色をしてあまりに不吉だった。
それは、少なくとも、カインは知らぬ生物であった。 しかし、この程度で身を竦めるほど、カインは臆病者ではない。
さすがに聖騎士とまでは言えないが、小国とはいえ一国の軍を任された“将軍”の地位を戴く男である。
正体不明とはいえ、たかが犬ごときに遅れを取るほどヤワな鍛え方はしていなかった。
カインは相手の出方を窺いながら腰の剣を抜き、眼光に鋭さを宿らせる。
「お前たちの飼い主を聞き出したいが、畜生に語る舌はなかろう。
我が剣を薄汚い獣の血で汚すのはいささか忍びないが…、部下の仇だ。
早々に目の前から消えてもらうぞ…!」
先に仕掛けたのはカインだった。
地を這うように駆け、部下の屍に立つ獣を横一文字に斬り伏せる。
片割れの黒犬は仲間が倒されて一度だけ吠え、すかさず男に迫ろうとしたが、カインは横一閃の斬撃そのままの勢いで剣を投躑し、残った黒犬の口から喉を貫かせて絶命させた。
動物とは、攻撃となれば最高の身体能力を発揮するが、いざ防御となれば、驚くほど無能である。
カインは姿勢を正し、放った剣を抜いて、獣の血糊を振り払う。
その時、奇妙な現象がカインの目に飛び込んできた。
先ほど斬り伏せたはずの獣がいつの間にか影も形も消えて、いなくなってしまったのである。
それは、普通の生命体であればあり得ない現象だ。
「こいつら…、いったい…!?」
内心の動揺を抑え切れぬまま、階下で激しく響いていたはずの悲鳴や破壊が、何時しか途絶えていることに気付いた。
自分が行かねば、部下のみならず、街の住民や王さえも殺されてしまう。
カインは急いで通路を駆け抜け、階段を下りていく。
カインが辿り着いたのは、城の入口にあたる広間だった。
王の意向で絢爛に飾られた広間は、よくパーティーに利用されていたことを思い出す。
だが、その、きらびやかだったはずの広間は、その名残も破壊し尽くされて、豪華な面影を失っていた。
磨かれた床は夥しい数の兵士の死体で埋め尽され、血生臭い死臭が漂っている。
壁はいたる所がヒビ入り、階段の一部のくり抜かれた穴の中には、押し潰されたように花開くドス黒い血飛沫が見て取れた。
天井に吊るされた亡骸は頭をすっぽりと壁に埋めて力なく、まれに、頭部だけが激突していて脳漿が滴り落ちる。
“そこはすでに死者の国だった”
カインは、たまらず嘔吐した。 これほどまでに…、これほどまでに悪意が暴れた殺戮の現場を、彼は見たことがなかったのだ。
それは、明らかに人がもたらした破壊ではありえなかった。
壁に刻まれた、巨大な爪痕。
今もぐちゃぐちゃ、と“何か”を喰うている異形のバケモノ。
“生ある者の気配はなく―――”
―――そんな者がいれば、とうに喰われている。
“―――邪悪なる者の爪痕だけを見せつける陰惨な惨殺空間”
だからこそ、ソレと出会ってしまった者は、例外なく贄となる―――。
床に吐瀉物を吐き尽くしたカインは、眩暈に狭窄した重々しい視界をゆっくりと上げ、広間の中央に超然と君臨する、その悪魔を見上げた。
本能すらもひれ伏す、神々しいバケモノ。
理解も常識も、ありとあらゆる全てがひれ伏す禍々しいバケモノ。
悪魔の右腕が、緩やかに天を衝く。
ソレの実在を認めた時、無力なる者カインは、この世の終わりを覚悟し―――……。