第三話 〜軍略会議〜
国王誕生祭より二日後の朝。
ウェセックス王国首都ウィンチェスターに聳えるフィダックス城の三階に、石造りの部屋はあった。
手入れの行き届いた部屋には煖炉があり、鏡面のように磨かれたテーブルの上には、ブリテン島全域を描く地図が広げられている。
国王エグバートと、その忠臣である王宮魔術士長イングラムは、互いに向き合うように椅子に座り、目の前の地図に視線を向けていた。
どちらも貝のように口を閉ざし、真剣味を帯びた表情が無言の圧力となって会議室に満ちている。
張り詰めた緊張感は、あたかも、この会議室が戦場の真っ直中にある、本陣のよう。
その、息が詰まりそうなほど重苦しい沈黙は、王の言葉で切り裂かれた。
「マーシアを落とすため、先ずはフィッチ王国を落とすという貴公の作戦は理解した。
しかし、東の三国はどうする?
ベオルンウルフのように二面戦争を継続できるほど、我らの準備は潤沢ではないぞ」
現在のマーシア王国を統治しているのは、ベオルンウルフである。
彼は自らの名を刻んだコインを発行したことで知られているが、エグバートが注目したのは、そんな瑣末事ではない。
マーシアの情勢は、極めて不安定だ。
ブリトン人の勢力地域である西のウェールズと、東の七王国の一つであるイースト・アングリアとの二面戦争の対応に追われ、その内情は実に慌ただしい。
エグバートが宣戦布告を決意したのも、そうした背景があってのことなのだが、それはウェセックス王国も危惧しなければならない問題点だった。
西のドゥムニア王国を平定した今、憂いは北のマーシアと東の三国に絞られている。
ただし、マーシアは東西の二面戦争が足枷となっているため、エグバートが危険視しているのは東の三国にあった。
―――即ち。
七王国に数えられる三国である、ケント、エセックス、サセックス、この三つだ。
特に、隣接しているサセックスに背後から仕掛けられた場合、マーシアとの二面戦争に発展してしまう危険性がある。
マーシアとの戦争に全力を注ぎたいエグバートにとって、この難問は払拭しなければならない心の澱であるのだった。
イングラムは王の不安を解くため、不器用ながら少し微笑んで見せた。
「王よ、ご安心を。
現在、我が使いの者が三国に回り、不可侵条約を密約するために動いております。
中でも―――」 イングラムは直筆の条約文を書いた巻物を王に手渡した。
エグバートが紐を解き、そこに書かれた文を目で追うのを確認すると、再び口を開く。
「―――サセックスは、我が国と同じく、南部海岸線より略奪行為を繰り返すヴァイキングどもの被害に四苦八苦しており、とても戦争どころでは御座いません。
むしろ逆に、我らが不可侵を持ちかけたことで、奴等は晴れてヴァイキングどもへの対策に終始することが可能となります。
サセックスにとっても我らにとっても、これは利益ある密約と言えましょう」
別名ヴァイキング時代とも呼ばれる七王国時代、ブリテンの海域は軍事力の空白地帯だった。
その背景には、ブリテン海峡を交易路として押さえていたフリージア人が、勢力拡大を図ったフランク王国の侵攻によって滅ぼされたことに起因していた。
ちなみに、現在のフランク王国を統治しているのは、敬虔王ルイ一世であり、カール大帝は十一年前に死去している。
イングラムの話を理解した王は頷き、巻物の紐を括り直した。
「さすがはイングラムよ。手回しが良いな」
「ハッ。有り難きお言葉で御座います、陛下」
「しかし、他の二国はどうだ?
特にケント王国はマーシアに隷属しておるだろうから、そう容易くはないと思うが」
「ケント王国には、かのフランク王国よりも圧力をかけ、易々とは動けぬ按配にするのが得策かと。
王はフランク王国との親交が深く、ブリテンを制覇した暁には友好国としての発展も見込みがあります。
かの国は、我らの提案を拒否する理由などないのです」
「では、エセックスはどうか」
「エセックスにつきましては、ブリテンの南北を分けるテムズ川の渡河点であるロンドンがあり、交通上、戦略的拠点としては申し分ありません。
そのため、マーシアの脅威に怯えているのですが、我らがマーシアを攻略することでその憂いは消えるはず。
戦況次第では、同盟なる提案を、王みずからが会談を通じて持ちかけるのも奇策かと思われます」
「ふむ…」
エグバートはしばらくの間、しかめた思案顔になったが、やがて意を決したように頷いた。
「なるほど。つまり我々は、一貫してマーシア王国に専念できるということか」
「しかしながら、短期で決着を着けねば、他の国が軍備を整え、ヴァイキングの再来も考慮する必要があります」「……、一年だな。
それ以上はマーシアが態勢を整え、我々もまた海岸線のヴァイキングに備えねばなるまい」
イングラムは、たまらず苦笑した。
「王は平然と無茶をおっしゃる。
数百年に及ぶブリテンの戦を、わずかたった一年で決着させろとは…」
くすくす、と乾いた笑い声を漏らす老魔術士長を真剣な面持ちで見つめながら、王は隔意のない心中を吐き出した。
「…あの日、お前の話を聞かされた時、我々にはもう、幾許の猶予も残されていないことに気付かされた。
…戦うしかなかろう。
誰かがやらねばならぬと言うのなら、我々が先陣をきることで、皆が気付いてくれることを神に祈るだけだ」
イングラムは首を横に振った。
その表情は暗く、彼が楽天的な希望の祈りを初めから捨てていることが感じ取れた。
「無理でしょうな。
私でさえ、気付いたのは偶然にすぎませぬ。
…恐るべきは、まさしくあの悪魔ですよ。
我々には、最初から神をも畏れぬあやつの所業を防ぐ術は持ちえなかったのですから。
我々ができることは、あやつを倒すこと。
それができねば、このブリテンは、文字通りの地獄に墜ちましょうぞ」
王は深い溜息をついた。
「これほど真実が辛いと痛感したことはない。
…だが、嘆いていても始まらぬ。
我が息子のためにも、あの悪魔の計画を何としても止めねばならぬのだ」
イングラムは頷いた。
「そのための先駆けとして、現在、スレイン殿がフィッチ王国攻略に向けて第一・第二近衛騎士団を率いて出陣しております。
フィッチ王国はテムズ川を迂回する我々にとって、戦略上、絶対的に落とさねばならぬマーシア会戦の要。
必ずや、吉報をもたらしてくれるでしょう」
エグバートは怪訝そうに眉を顰めた。
「イングラムよ、スレインだけに任せておいて問題はないのか?
マーシアにはかの魔人に加えて、聖騎士最強の“剣聖”もおる。
いかに同じ聖騎士とはいえ、どちらかと戦えば無事では済まぬのではないか?」
「いいえ、その点につきましては、どうかご安心ください。
魔人は王都から離れることは少なく、剣聖バールゼフォンも西部のウェールズ攻略に赴いているとか。
少なくとも、フィッチ王国戦で二人と戦うことはないでしょう」 イングラムの手足とも言うべき暗殺者は、何も蛇や鼠ばかりではない。
特に、主要国に関しては、その内情を探らせるために絶えず地下に潜らせている。
今回の、マーシア王国の隷属国であるフィッチ王国攻略作戦を練る際は、とりわけ注意して二人の動向に気を配ったものだ。
ゆえに断言できる。
勿論、あの二人と相見える日はそう遠くないが、かといってそれは、今日明日の問題ではない。
「王よ―――」
不意に、イングラムは目を細めて呟いた。
「此度の戦が終われば、あなた様は覇王となられますでしょう。
その時、我々はあなた様のおそばに仕えているかどうかは、分かりません。
しかし、これだけは言えます―――」
イングラムは、一拍分の時を置いて、言った。
「―――あなたの勇気は、たとえ歴史に刻まれずとも、必ずやご子息に受け継がれ、ブリテンを守ることでしょう」
「…イングラムよ。
その言葉は、互いに生き残ってから、聞きたいのだが」
どちらからともなく、二人は苦笑した。
だが、イングラムの言葉は確実に王の胸の蟠りを払拭させ、脳裏の迷いの霧を振り払った。
ウェセックス王国はこの日、マーシア王国の領土に足を踏み入れ、フィッチ王国攻略に乗り出した。
聖騎士スレインを指揮官とする第一・第二近衛騎士団を主力としたウェセックス軍一万に対し、フィッチ王国軍は約二千の手勢である。
戦争とは、個人の力もさることながら、絶対的な物量も無視できない。
ゆえに、趨勢は早期に決着した…かに思われたのだが、スレインは、ここで悪夢を垣間見ることとなる。