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第二話 〜姉と弟と鼠〜

 イングラムへの報告も終えた蛇が向かうのは、この世でただ一人の肉親となった姉が休む小部屋だった。


 国王エグバートが居住する白亜の城“フィダックス城”の二階。


 その一廓、奥行きのある通路を歩いた先に、姉が待つ部屋の扉がある。


 しかし、その手前に見慣れた人影の姿を認めた時、蛇は任務のために緊張していた表情をようやくほぐすことができた。


 扉の前にいる少年もまた、蛇に気付いたようだった。

 微笑みを浮かべ、軽やかに手を上げる。


「よぉ。久しぶりだな、蛇。

 …しっかし、なんだ。お前がこっちに戻ってきたってことは、ドゥムニアとはもう決着がついたのか」


 彼の名はグレッグ。

 蛇と同じく、イングラム直属の暗殺者の一人であり、同年ということもあって最も仲の良い仲間だった。


「うん、つい半日ほど前かな。

 君と僕とでヴァイキングの首領を暗殺してから一時間後、第三騎士団を筆頭にして軍が総攻撃を仕掛けたろ?

 元々、ここ数年でドゥムニアはヴァイキングと同盟するまでに疲弊してる。

 そのヴァイキングが撤退したんだ。

 ドゥムニアには、もう降伏の道しか残されていなかったんだよ」


 首領が休むヴァイキング船に乗り込む際、蛇はグレッグとともに忍び込んでいた。

 グレッグが敵兵の注意を引きつける騒ぎに乗じて、蛇が首領を暗殺。

 その後、グレッグは騎士団に首尾を報告し王都へ帰還、蛇はドゥムニア王国首都へと潜入したのである。


「そうか。じゃあ、調印は済んだんだな。

 …となると、王女サマも連れてきたんだよな?」


 蛇は小さく頷いた。


「僕が護衛役を任されたからね。そう手間はかからなかったけど」


 和平協定は、ウェセックス王国の一方的に有利な条件で調印が成された。


 特に、ドゥムニアは反逆を封じる手段として王の一人娘がウェセックス王国への在留を強制されており、これによってドゥムニア王国は、血筋の存続と引き換えにウェセックス王国の隷属国として平定されたのである。


 グレッグはにやにやと意地悪く笑いながら、よからぬ企み顔になった。


「俺、会いに行ってみようかな。

 ドゥムニアのお姫様といえば、すっげえ可愛いって評判だったしさ…」


「ダメだよ、グレッグ。

 王女様はこのあと、国王様と謁見する予定なんだ。

 僕たちが行っても取り合ってくれないと思うよ」「ちぇッ。仕方ないな。

 じゃあ、俺はこれから任務に行くから、また会おうぜ」


 蛇は眉を顰めた。


「新しい任務かい?」


「ああ、たぶんな。

 イングラム様に呼び出されてるから、きっとマーシアとの会戦に向けた任務だろうって想像くらい、俺にだってつくさ」


「ああ、なるほど。

 じゃあ、頑張ってね、鼠」


 グレッグは、化石したが如く顔を強張らせると、次の瞬間にはひどく顔を歪めて怒り出した。


「て、テメエ…。

 そのコードネームを俺の前で言うんじゃねぇぇぇぇぇぇ!!」


 グレッグは蛇に飛び掛かり、両頬を強く引っ張って弄ぶ。


 蛇が解放されたのは、グレッグがイングラムに指定された時間間際だったが、その時のグレッグの表情には、すでに緊張の色は消え去っていた。


「じゃあな」


「うん、またね」


 グレッグが去った後、蛇は部屋の扉に手を掛け、静かに開けた。


 姉に会うのは久しぶりだった。

 前に会ったのが、ヴァイキング攻略の任務につく前であるため、半月ほど空いていることになる。


 あれから小康を保っていると聞くが、やはり、部屋から出るのは禁じられている様子だった。


 部屋に入ると、仄かに甘い匂いが鼻腔を掠めた。


 花の匂い。


 清潔感に縛り付けられた白の部屋の殺風景な様子に一つ、申し訳程度に備えられた幽けしき生命の香り。


 奇しくも、それは姉を象徴しているかのようにささやかだった。


 蛇は、潜入任務よりも気を配った足の運びで音を消し、窓際ちかくに横臥した寝台のそばへ歩み寄る。


 そこに眠っているのは、一人の少女だった。


 歳は蛇と同じだろうか。ひどく、病的なまでに肌の白い少女である。まるで、ずっと陽の光を避けて家居していたように輝く雪色だった。


 だが、髪はすべて抜け落ちている。そのため、外貌を気にする歳の頃を考慮して、常に帽子を被っていた。


 もっとも、それを差し引いても少女は美しかった。

 繊細な工芸品のように、触れれば砕けてしまいそうな脆い美。

 永遠には保てぬ、儚いがゆえの絶美を体現した少女であった。


 少女の名はルナ。


 蛇とは双子の姉であり、生まれてより不治の病に冒された、蛇が唯一心許せる家族である。


「ただいま、姉さん…」


 蛇は、依然として眠ったままの姉の頬に軽く手を当て、白い額に唇を当てた。「…ん、んぅ……」


 唇が額に触れた瞬間、少女は瞼を震わせて目覚めようとしていた。

 だが、伏せられた睫毛は持ち上がることなく、室内の来訪者の気配を察して、少しばかり首を巡らせるのみ。


 心なしか、その表情は緊張している様子だった。

 蛇は、姉に不安を抱かせぬように優しく呟いた。


「ごめん、姉さん。起こしてしまって。

 僕だよ。…ヴィクターだよ」


 ヴィクターと名乗った瞬間、姉の警戒はすぐに解けたようだった。

 顔を綻ばせ、左頬に触れる蛇の右手に、そっと自らの左手をそえる。


「ヴィクター…?

 そう、帰ってきてたのね。…お帰りなさい」


「うん…。ただいま、姉さん…」


 ルナは身体を起こそうとしたが、無理をしてはいけないとして、蛇がそれを制した。


「ダメだよ、姉さん。

 まだ安静にしてないといけないんだから、横になってなくちゃ」

 少女は申し訳なさそうに眉を顰め、閉じた視線を蛇に向けた。


「ごめんね、ヴィクター。お姉ちゃんが不甲斐ないばかりに、苦労をかけて…」


「そんな…。僕は一度だって、姉さんのことを負担に感じたことはないよ。

 僕たちは家族なんだ。唯一、生き残った家族なんだから」


 ルナとヴィクターの姉弟は、ブリテン島全土に広がっている数百年もの戦の無力な犠牲者―――戦災孤児だった。


 二人の村は、ちょうどウェセックス王国とドゥムニア王国とに挟まれた中間にあり、両者が激突した戦争に否応なく巻き込まれた形で壊滅したのである。


 二人は当時、まだ右も左も分からぬ幼さだった。


 いつになく強張った表情で慌ただしく帰ってきた父の声。

 それに応えて母は、二人を隠し戸に閉じ込め、息を潜めるように言ったことを覚えている。


 当時から、姉はすでに不治の病に冒された盲目の身体であり、姉を守れるのは自分しかいないとする使命感に突き動かされて、ヴィクターは母の言い付けを忠実に実行した。


 外では、いつ終わるとも知れぬ激しい怒声と夥しい悲鳴が飛び交っていた。


 二人が隠れていた家の扉が開いた音には、心臓が飛び出しそうなほど恐怖したものだが、結局、二人は正体不明の敵に見つかることなく生き延びたのである。


 ―――だが。


 村は二人の幼い姉弟を残して全滅した。


 治まった喧騒を見計らい、外の安全を祈りながら隠し戸を出たヴィクターの目に飛び込んできたのは、変わり果てた村の姿だった。 まんべんなく炎を纏う家と畑。


 生理的嫌悪を撒き散らす、すえた臭い。


 大地に横たわるのは、つい数十分ほど前まで、言葉を交わしていたはずの家族や隣人や友人たち。


 濃く粘る赤黒い液体が地面にぬめり、村に充満する血生臭い死臭と化してカラスを誘った。


 そこはすでに死者の国だった。生ある者の気配はなく、邪悪なる者の爪痕だけを見せつけられる陰惨な惨殺空間。


 その、無慈悲な悪魔の食卓に、二人は幸か不幸か生き延びたのである。


 さらに幸運だったのは、村の被害を聞きつけて駆け付けたイングラムが、二人を引き取ってくれたことだった。


 幼い姉弟はしばらくの間を孤児院で過ごし、やがて弟はイングラムを師とする暗殺者となり、姉は病に臥した身体を養うために城の小部屋を割り当てられたのである。


 その恩は、ヴィクターにとって生涯、忘れえぬものであり、イングラムのためならば死も厭わぬ働きで奮迅できる。


 直属の暗殺者の中でも最高峰を位置付けるコードネーム“蛇”をイングラムより頂いた時、少年は彼にそう言った。


 そしてその思いは今でも変わらぬまま、こうして姉のそばで束の間の安らぎを享受することができるのだった。


 だが、ヴィクターは、自分が暗殺者としてイングラムの下で暗躍していることを、あえて口に出していなかった。


 元来より、優しい性格である。

 もし自分が暗殺者として人を殺めていると知れば、その精神的衝撃は大きく、ともすれば、今まで辛うじて均衡を保ってきた身体が、一息に負へと傾いてしまうかもしれないからだ。


 家族を失った自分が、今度は名も知らぬ他人の家族を殺し続ける。


 それだけは、その事実だけは、決して姉に悟られてはならなかった。


「ありがとう、ヴィクター」


 姉は、蕾が花開くような穏やかな声音で言った。


「でも、無理をしてはダメよ。

 あなたまで身体を壊したら、私はお父様とお母様に合わせる顔がないわ」


 ヴィクターは、なるべく心中を悟られぬように微笑む。


「大丈夫だよ、姉さん。

 僕には友達のグレッグもいるんだ。この前だって、仕事で―――」


 姉のそばにいられる時間だけが、少年を“弟”に戻してくれる。


 架空の仕事場で起きた有りもしない笑い話に花を咲かせながら、蛇はその日を、姉のいる小部屋で過ごしたのだった。

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