第十九話 〜“月” 後編〜
はい。
目が痛い、頭が痛い、心が痛いとの呼び声も高い\(^ο^)/式です。
このまま物語が進んでしまえば、終盤で18禁要素がログインしそうな調子なんですが……。
やっぱダメですかねー。
それなんて○ロゲ? なんて言われそうで怖いのですが、まあ、その時は某社長さん風に「ふぅん☆」と睥睨してやってください。
きっと、オワタは喜んで尻尾を振りますから(笑)
まさに病人ってヤツですね、わかります(゜∀゜)
あとですね、今話から一ページの文字量が倍に増えましたので、単純にページ数が半分近くに減りました。
オワタはいつも携帯のメモを使って書いているのですが、実はメモ二枚分で一ページと思っていたのが、四枚分で一ページだと言うことが分かりまして……。
あと、他にも携帯小説用に読みやすくできるよう、オワタなりに試行錯誤しながら頑張りたいと思っています。
ただ、ルビは基本的に当字でない限りは付けませんので、どうしても読めない漢字がありましたらググって下さい。
こんなオワタでもよろしければ、ふつつか者ではありますが末永くお付き合いしてくださいませ。
それでは、長くなりましたが、引き続き本編をお楽しみください。
芳ばしく焼けたパンの香りが、家庭的な日常にある和やかな雰囲気を部屋の中に満たしていく。
抜きん出た天井を誇る高さを際立たせるのは円柱、清潔に保たれた壁は一面が白に染められており、その一部は平均的な等身大を遥かに上回る窓のために大きく切り開かれている。
その王室を贅沢に飾るのは、これもまた豪華に装飾されたインテリアの数々だ。
木葉型に彫り込まれた天板のテーブル、その周囲を、安定感を重視した美麗な輪郭を持つ椅子が取り囲み、仄かな安息を卓上に添える華奢な花器がそっと置かれていた。
「おっいしいおっいしいあっさごーはん〜♪ いっぱーい食〜べってげーんきーだそー♪」
しかし本来、この王室にあるはずの天蓋付き寝台の代わりに設えてあるのは、思わず目を疑いたくなるのも頷ける簡易型の調理場であった。
そしてそこで、陽気な声の持ち主が即興の歌を交えながら、当たり前のように朝食を作っている。
まず目を引くのは、紅玉髄の如く鮮やかな朱を彩る川瀬のような、微風に靡いただけでも幻想的な音を奏でて万人を魅了しそうな髪だった。
なだらかな長身の背に沿って真っ直ぐに流れ落ちるそれは、後頭部の高い位置で無造作に纏められているにも拘わらず、毛先の一本一本までもを精確に見て取れるほど整合している。
そこから僅かに見える項は、まるで不香の花のように白く肌理細かい素肌を露出し、見る者を無秩序に誘惑して蠱惑的だ。
「あーそんーで食ーべて、げーんきーにはーしゃぐ♪ そーれっがこーどもーのしーごとーだぞー♪」
―――だが、これらは彼女が具える美貌の、ほんの一部分でしかない。
絹の柔らかさに映える髪の向こう側、あたかも朝日を受けて輝いて見えるのは雪肌の顔容、細長い影を曳く睫毛の下には蒼海の瞳を描く花瞼があり、さらに下へと目をやれば、理想の稜線を辿る鼻筋と、整然と並ぶ皓歯を隠した瑞々しい桜色の唇が調和する。
恐らくは、男と呼ばれたる異性に生まれた人間たちの凡てが目にした瞬間に情欲を抱くであろう、あまりにも完璧すぎる完成度をもってこの世に生を受けた絶世の美女がそこにいた。
小刻みに、規則的な拍子で左右に動かす身体に合わせて即興の歌を導くその声帯も、船乗りたちの怪談に現れる“魔鳥の半人”(セイレーン)に類するほど、別格の調べを宿す魔的な魅力を秘めている。
「サーラッダ、サーラッダおーいしーなー♪ エービっのかーらっとワータ取って、しーおをかーけれーば放置する♪」
そうして水分を取る間に、クリスティーヌは微塵切りにした香草にレモンとオリーブと塩を混ぜ合わせたソースを作る。
「さーてさーておー次ーはあったまーがパーン♪ 焼ーいーてやーわらーかあったまーがパーン♪」
衝撃的な歌詞はそのままにして、次に砂糖と牛乳、そして卵を混ぜた物に予め一晩ほど浸して寝かせていたパンを、牛酪とともに火にかけて両面を焼き上げる。
その片手間に果実を搾ってオレンジジュースを作り、デザート代わりに少量の砂糖を塗した苺を皿の上に盛りつけていく。
他にも、手作りに焼き上げたパンの隣には、完熟した苺にレモンや砂糖、そして少量の蒸留酒を配分し、適度に苺の粒を残した浅い煮詰めのジャムを添えていた。
「よっしよっしすーいぶーん取ーれったぞっと。あーとーはグーリルーで焼ーいちゃーうぞー♪」
約十分ほど経った頃、焼いたパンと入れ替える形で、先ほどの水分を程よく取り除いたエビを火で焼き上げ、取り出したパンはそのまま皿に盛りつける。
…、確かにこれだけを見たならば、ごく一般的な家庭と何ら変わらぬ按配に思えるが、そこに異常があると見抜いた者ならば、この光景の中におよそ有り得べかざる現象が含まれていることを戦慄とともに知るだろう。
なぜならば、この調理場は真実、道具のみが揃っているばかりであり、肝心の水回りや火入れなどは瞬時に手に入れようもない按配であるからだ。
元々、王女の部屋に誰にも知られることなく調理場を設えるなど、その度量と実行力そのものに違和感を覚えるどころか、そもそも普通の侍女では考えることも愚かしいはずの行為を彼女は平然とやってのけている。
しかしそこに悪意はないようであったし、ただ純粋に調理するためだけに準備したこの調理場で、歌いながら朝食を整えていく彼女は心から愉しそうな様子であった。
「―――、あ」
順調に海老を焼きながら不意に、脳裏によぎった疑問に手を止める。
「そういえば、あの子の苦手な食べ物、聞いてなかったな…」
そう呟きながら眉を寄せて目を細め、その繊細な掌を唇に当てながら、クリスティーヌは思案する。
「うーん。…まさか、この中に苦手な物があったりとか、しないわよね…?」
そのまま横目にして少し考えてみたものの、結局のところ作り直すのもまた面倒に思い、ふと肩を竦めた。
「ま、その時はその時か。今更だし、苦手な物があったら私が食べちゃえば済む話だしね。―――あー、もしかしたらこれが過保護ってヤツなのかも」
ならば、もし自分に子供ができたなら、きっとこんな日常の中で幸福を見出していたのだろうと思う。
そしてそれが、永遠に実現しない幻想であることも。
人の夢が儚いものなのだとするならば、人外が見る夢には果たして応えがあるものなのだろうか。
―――まあ、なければ創ればいいだけの話なんだけど、とクリスティーヌは明解に切り捨てる。
人外には慈悲も寵愛もなく、信仰する神も理想もなければ、他人からの敬愛も、秩序との規律でさえも彼らの在り方を前に立ちはだかることはできない。
人外の本質とは即ち、世界との造反、調和との逸脱。
人々から得られる親愛の捧呈に振り返ることなく、周囲から注がれる肯定の期待に阿諛することもなく、ただひたすら黄昏からの解放を求めた先に辿り着いた、その存在そのものが全能の限界を証明せしめる背徳の異端者。
ゆえに魔人―――人類という枠組みを超え、根本から人間を已めた者たちが織り成す奇蹟の御業にひれ伏した、世界に反逆する流刑の契約者である。
「おっとー、危ない危ない。もう少しで焦がす所だった」
程よく焼き上げた海老を、事前に盛りつけていたサラダ野菜の上に載せ、そこに香草ソースを和えて全体の見栄えを調整する。
テーブルの上にはクリスティーヌの空腹を痛いほど刺激する朝食がずらりと並んでおり、その中から一口だけ試食すると、その仕上がり具合に満足して独り頷いた。
「よし、これで完璧でしょ。後はあの子が目を覚ますだけ―――」
そこで唐突に溜息をつき、呆れたように言葉を繋げる。
「―――なんだからさ。それ以上、奥に進もうとしたら問答無用で殺すわよ?」
王室の一角、壁に飾られた爽やかな風景画へと目を向けるクリスティーヌの視線の先には、真実だれ一人として存在していない。
ならば当然の如く、室内は再び沈黙に停滞する。
だが不思議なことに、その水面下では息詰まるような重苦しさを滲ませ、何か絶対的に不穏な気配が実体化していくような、そんな予兆めいた空気が辺りに充満していくようであった。
「―――ああ、やはり見抜かれていましたか。さすがは怪傑盗賊。姿を見せる前に私の存在に気づいたのは、貴女が初めてですよ」
それは、喩えではなかった。
何もない宙から現れた靄のような黒煙群が急速に絵画の前へと集まり、徐々に人型の輪郭を造りながら鮮明な色彩を浮かび上がらせていく。
若い男、金の絹糸を思わせる髪と、限りなく漆黒に近い紫紺の瞳、そして他者を見下した嘲笑を絶えず浮かべる唇を併せ持つ、人外の美貌。
「久しぶりね。元気してた?」
その名はヴェンツェル―――かの剣聖バールゼフォンをして迂闊には手の出せぬ、ブリテンが生んだ希代の魔人である。
魔性の青年は、微笑みながらクリスティーヌを見返した。
「ええ、とても。まだ事の重大さに気づいていない無能たちが私の掌で滑稽に踊ってくれる様は、見ていて飽きないですからね。まあ、それなりに愉しませてもらっていますよ」
ヴェンツェルの視線に、彼女は素っ気なく肩を竦める。
「こんな悪趣味なイタズラ、よく思いついたわね。これも全部あの娘の為なのかしら? それとも貴方自身の為なのかな?」
「私を望んだのは彼らの方です。なら、今度は私の望みを訊いてくれてもいいでしょう?」
なるほどね、とクリスティーヌは納得する。
「これは復讐も兼ねてるってわけなんだ。じゃあ、貴方の最終目的はあくまでも“王”なわけね」
魔人は苦笑する。
「すでに歴史が証明してくれてもいますがね。しかし、やはり自分を納得させるためには名実ともに王として君臨しなければ。いつまでもあんな小娘を王にしているようでは、私の名前に傷が付いてしまうでしょう?」
「どっちでもいいわよ、そんなコト。私は貴方の因縁に興味ないけど、一つだけ。女の子はすごくデリケートな生き物なの。一方的な感情も、行き過ぎると知らないうちに破滅するわよ」
「フフ、私の愛は不滅です。―――そう、この物語は最初から最後まで復讐の物語。貴女もその出演者の一人なら、正しい演出をしないと摘み出されてしまいますよ?」
そこでクリスティーヌは呆気に取られたように目を丸めて、次の瞬間には妙に愛嬌のある顔で笑った。
「ああ、そっかそっか、そういうことね。…なーんだ。私はてっきり、貴方ぐらいは知ってるものだと思ってたけど、とんだ見込み違いだったってわけなんだ」
怺えるような彼女の含み笑いを見やり、ヴェンツェルは、いったい何が可笑しいのかと問いかけた。
「だって、貴方がとても大きな勘違いをしてるんだもの。幸か不幸か、私はこの物語の役者には含まれていないの。私の役目は終始“見届ける”ことだけ。それ以上の干渉は無意味に終わるだけなのに、貴方はいつか、私が貴方の前に立ちはだかると思ってる」
ここに至って、彼はその言葉の真意を理解し、同時に強く眉を顰めてクリスティーヌに目を留める。
「つまり、貴女はこの戦争には一切、拘わらないと言うのですか」
ええ、その通り、と断言する彼女を見て、ヴェンツェルはまるで理解できぬとばかりに手を上げ、首を振る。
「ご冗談を。それでは私と対等に渡り合える者がいなくなってしまうではないですか。今このブリテンで私に対抗し得る者は、湖の異界から出られない間抜けな魔女と、この王国の破滅を招いた元凶である貴女だけだというのに」
「貴方と私が同等? それはひょっとして洒落で言ってるのかな? …もし違うと言うのなら―――」
魔人の視界には、確かにクリスティーヌの姿があるというのに。
「―――貴方は本当に、私が手を下すまでもないわ」
吐息が耳を撫でるほどの近くから囁かれた、女の言葉。
「―――ッ!?」
気配すら感じさせぬまま瞬時に背後へと回り込んだ彼女に対し、ヴェンツェルは即座に身を翻すも、後ろには奇妙に誰一人として姿はなかった。
それが何を意味するのか、驚愕と戦慄に身体を緊張させながら知った魔人が、再びゆっくりと振り返る。
仄かな香りを漂わせる朝食を並べたテーブル、その手前に、やはり一歩も動いていないクリスティーヌの姿があった。
それを認めた瞬間、王室の空気が、あたかも氷河期に舞い戻ったかのように凍結する。
尋常ならざる加速、油断から生まれた意表を衝く跳躍、などと呼ぶべき生易しい現象では有り得ない、恐ろしく精確な空間転移でもなければ不可能な次元に値する移動を、何食わぬ顔で自分を見やる目の前の女が涼しげに実行したのだとヴェンツェルは悟る。
しかし、それはまさしく奇蹟たる魔法の領域であり、そして今現在、魔導師は世界でたった二人だけしかいないはず。
「…これは、いったい何の真似です…?」
気づけば深海の底で透明の箱に閉じ込められている、そんな感覚に近い恐怖を無尽蔵の憤怒で抑えつけながら、若い魔人は、自分が引き攣った顔でいることを自覚しつつもそう問いかけずにはいられなかったことを歯噛みする。
得体の知れない侍女が、クスリと微笑った。
「幕は必ず引かれるものよ。貴方が本当に向かい合うべき相手は他にいる。けれど、頼みの綱の剣聖は秘術の反動で青息吐息。重い腰を上げた魔女の切り札も西の内外に山積する問題に手間取って枷だらけ。唯一の反抗勢力もまるで実が伴わずに右往左往するばかり。―――そうね、今はまだ貴方の時代。だから有頂天に浸るのは可愛いわ」
ヴェンツェルの怪訝な表情を受け止めながら、彼女はたっぷりと間を置いて、心中を読み切ったように言葉を繋げる。
「真っ直ぐな瞳。どんな思想にも興味がなく、あらゆる欲望を嘲笑いながら、ただ惚れた幼い感情を満たすために人間を已めた貴方だけの瞳。その成就のためなら世界を敵に回すことも厭わない。―――けれど、本当は何が始まりだったのかしらね」
意味深長なクリスティーヌの言葉に、魔人は無意識のうちに反応する。
「何が、だって…?」
「貴方をこれほどまで一色に染めた感情の、本当の始まりのコト。全てを夜のせいにしたり闇のせいにしたりするのは簡単だけど、人の心に落ちる黄昏にはもっと単純な原点がある。…そしてそれは、誰にでも分かるからこそ、誰もが気づかない盲点なのかもしれない」
魔人が密かに息を詰める。
不安と寂漠、正体を言い当てられることに恐怖する、強い拒絶に満ちた忌々しげな眼差しがクリスティーヌに注がれる。
「…私には、貴女が何を言っているのかがまるで分からない。意味不明な言葉の羅列で私を混乱させようとしても、徒労に終わるだけだ。貴女は無駄な努力をしている」
掌を上にして、ヴェンツェルは片手を前に突き出す。
「力の解放。何もかもを蹂躙する暴力の前では、言葉など塵にも等しい無力にすぎない。私は不和をもたらす者。ほんの少しの気紛れで、世界は容易く崩壊する」
クリスティーヌは軽やかに微笑う。
「気に喰わないから駄々を捏ねるだなんて、随分と可愛い所があるじゃない。最初からそんな風に甘えていれば彼女は受け止めてくれていたのかもしれないのに、貴方にはそれができなかった。私が知りたいのはその原点。―――貴方が耐えられなかったのは、その瞳で何を見たからなのかしら?」
その瞬間、不吉が音を立てて部屋を駆け抜けた。
大気の震動、空間そのものが戦慄するが如くに揺れ、室内のインテリアが恐怖に怯えるように微細な悲鳴を上げている。
恐ろしい何かが撓められ、今にも解き放つ瞬間を切望しているかのような、無差別に周囲を焼き尽くす殺意の波紋がヴェンツェルから迸っているのだ。
その、圧倒的な殺戮の気配に水没する王室で、しかしクリスティーヌは肩を竦めるだけに留めている。
「そんなに怯えなくてもいいじゃない。一度きりの命で私たちの前を通り過ぎていく人間たちは、それでも今は私たちと同じ時代を生きてるの。彼らのことを思い出そうとするように、貴方は今、自分の原点を見つめ直す最初で最後のチャンスに立っているのよ」
そう言って窓の方に歩み寄り、彼女は地平線の彼方から昇る朝日を見つめて、新鮮な空気を味わうように深く呼吸する。
窓から差し込むは爽やかな光、そして、どこからともなく聞こえてくる小鳥の鳴き声と、少しずつ起き上がろうとしている日常の健やかな喧騒の兆し。
空は快晴。
そんな、毎日のように訪れる当たり前の朝の光景をこそ慈しむように見下ろしながら、クリスティーヌは言葉を繋げた。
「哀しみは絶えないから、せめて身近な幸せだけでも気付いてあげないとね。自分のことも、相手のことも大切にしてあげるの」
言って、彼女は振り返る。
「あの時の貴方の願いは切実だった。だから、私は貴方の願いを叶えてあげた。今もそのことに後悔はしてないわ。貴方の言う通り、あのまま“刻の腑喰”を迎えていれば、彼女はいつか必ず気が狂っていたでしょうから。―――そう。あの件では、貴方は確かに彼女を救っていたのよ」
そして、確かに見た。
拳大の球体をした獄炎がヴェンツェルの掌の上で、あたかもクリスティーヌを値踏みするかのように蠢いているのを。
「…、そんなことはもう、私には関係のないことだ。この世でただ一人、世界を破壊してもいいという権利を与えられたなら、それに応えてやるのが王としての務めだろう? だから私は全てを破壊する。そして新たに生まれ変わった世界で、私は今度こそ王として君臨し続けるのさ」
その神秘を自ら握り潰し、唐突に魔人の姿が黒煙に分離したかと思うと、文字通りに雲散霧消する。
「今日は貴女の顔に免じて見逃してあげましょう。また、会いに行きますと伝えておいてください。また、ね…。…ククククク…、アッハハハハハハハ―――!」
空から叩きつけるような笑い声を残して、ブリテンに破滅をもたらす魔人の気配が完全に消失した。
夜の世界に泳ぐ魚が急速に遠ざかり、朝の世界にひとり佇むクリスティーヌは静かに瞑目する。
「―――不幸だったのは、誰のせいでもないということ。選択の余地がなかった運命が複雑に絡み合って、一つの悲劇を創り上げる」
そこで彼女は言葉を止め、軽く息を吐いて手を叩くことで意識を切り替える。
「あー、ヤメヤメ。こんな重い空気なんて朝から吸ってられないわよ。…、まったく」
言って、クリスティーヌは王室の入口へと目を向けた。
「そういうコトだから、貴方も今日は引きなさい。…だいたい、本業を前にそんな子供だましで隠れた気になられたら、相当の自信家か無能のすることよ。…それに、仮にも女の子の部屋に“お忍び”で侵入しようとするなんて、紳士としてのマナーが足りない証拠ね」
少しお仕置きが必要かな、と続けられたその言葉に危険を感じ取ったのか、室内に潜伏していたもう一つの気配が逃げるように退いていく。
「…ホント、あの子も私も男運に恵まれてないなー。…あ、それはちょっと違うか。あの子にはずっと王子様が隣にいたんだから、私よりは遥かに男運がいいわね」
部屋の中には真実、自分しかいないことを確かめてから、クリスティーヌは幽かに微笑う。
頬に当たる風は仄かに冷たく、彼女の髪を撫でて朝の目覚めを祝福するように心地いい。
「さて、と。じゃあ、そろそろ眠れるお姫様を迎えに行きましょうか。冷めた朝食はあんまりおいしくないしね」
クリスティーヌは飾られた絵画の方へと歩み寄り、その額縁に手を引っ掛けて裏の仕掛けを押す。
途端、白壁は余裕を保った面積を維持しつつ左右に切り開かれ、その奥に隠された扉の外観を露わにした。
その扉を開けた先に、空間の間取りこそ窮屈とまではいかないまでも、先刻の王室と比べればあまりに飾り気のない無機質な部屋がある。
窓どころか、最低限の明かり取りさえもなく外界との接触を遮断するその中は、頼りない蝋燭の光だけが仄き部屋を照らし、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている按配。
頑丈そうには見えぬ造り、申し訳程度に補強された木製の板壁は粗末な有り様の、密やかな隠し部屋。
そして、どのように移動させたのか、王女の部屋にあるはずの天蓋付き寝台の上で、一人の少女が身を起こして目を伏せている。
歳は十代の半ばか、髪を失った頭部には外部の衝撃から身を守るために帽子を被っており、その複雑な表情を形作る肌は、永く光から遠ざけられてきた彼女の人知れぬ哀史を代弁するかの如くに白い。
腹部に当てる手もまた抜けるような白い素肌を覗かせていたが、その絶美はむしろ、端正というよりも繊細というべき脆弱さに浮遊する断崖の花のようであった。
少女は部屋に足を進めたクリスティーヌにも気付いた気配はなく、切迫した様子こそなかったものの、些細な異変に戸惑い、不安の色を滲ませて表情を曇らせている。
そんな、独りで背負うことに慣れてしまった彼女の痩せ我慢を不憫に思い、クリスティーヌは敢えて晴れた声音で言った。
「ルナちゃん、おはよ。…調子はどう?」
声をかけられて初めて彼女の存在に気付いた様子で、ルナは首を巡らせてわずかに驚いた表情を見せた。
「あ、クリスティーヌ、さん…。…おはよう、ございます…」
顔色に変化はないが、気分が優れないのだろう、また顔を俯かせて自分の腹部に盲目の視線を投げかけている。
やがて、意を決したように口を開いた。
「…動いたんです。…こんなこと、今まで、一度もなかったのに…」
ピクリ、とクリスティーヌの眉が動いた。
「―――安心して。貴女の力は正常に働いているわ」
そう言って唇に手を当てながら、脳裏の思案をそのまま口にする。
「…となると、根源の方から宿主に接触してきたのか…。それとも宿主の方から根源を受け入れようとしたのか…。まあ、どちらにしても貴女が力を止めない以上、“種”が臨月を迎えることは永遠にないわ」
その言葉には、ただ静謐だけが返ってきた。
穏やかに破滅の到来を待つ少女の表情は、果たして母の覚悟か、それとも女の意地か。
「…変、ですよね。…」
恐怖も悲傷も塗り潰す、海のような諦念から注がれた感情の振幅。
「私は、弟を救いたい、と思っているのに…。それなのに、私は、弟を守りたい、って、思っているんです…」
健康に育っていたなら、とうに男たちに持て囃されていたであろう発展途上の美貌の片鱗も、二度と開くことのない瞳と不自由な身体を強いられ、大切な人の胸に飛び込むこともできないなら、何の意味もない。
「こんな私は…、やっぱり、オカシイ、ですよね…」
不幸なことに、彼女はあまりに聡明すぎたのだ。
自分の役目を悲観することなく、明かされた真実をそのまま受け止めたばかりか、その上で最善の未来を自らの意志で選び取ろうと努力しているのだから。
―――たとえそれが、自らの幸福をすべて投げ棄てることになろうとも。
「それはどちらも正しい選択肢なの。だから、どちらも間違ってるって見方ができてしまう。…結局は、自分で選んだ選択肢が一番、正しいんだと思うわ」
「…どちらを、選んでも…、私は、地獄へと、堕ちることに、なるのでしょうか…?」
その時、クリスティーヌは意外にも言葉を躊躇ったが、ややの逡巡を経て単刀直入に言った。
「真面目な話と気休めの言葉、どっちが欲しい?」
だが、彼女はルナがどちらを選ぶのかを解っている。
「…、真実を、お願いします…」
この少女は、あまりにも聡明すぎるのだから。
そう、と答えたクリスティーヌは、平常通りの口調で彼女の信頼に応えることにした。
「結論から言えば、人間が死んでも、その魂は天国にも地獄にも行かないの。そもそも人間たちが定義する死と世界が定義する死は全くの別物でね、それは恐ろしくも哀しいまでに乖離しているわ」
例えば、ある一人の人間が息絶えたとする。
人間からの視点では、その人物は確かに生命活動を停止しており、肉体が崩壊を始めた時点で本来の生体機能が失われているのだから、その現象を“死”という絶対的な事実として認識することができる。
しかし、世界から見れば、その人物が保有する霊魂が肉体から分離しない限り“死”と認識することはなく、そして魂が肉体に宿り続けている限り、その生命体はあらゆる致命傷を乗り越えうる可能性“早すぎた埋葬”(デッド・オア・アライブ)を秘めているものなのだ。
ゆえに、本来の意味を持つ“死”とは肉体の崩壊ではなく、その生命体に宿る魂の消失を指す言葉なのである。
人はそれを信じたいからこそ、その故人の偉大なる書物たりうる墳墓を作ることで人生の終着点を物質化し、自らの記憶とともに亡骸を弔うのだろう。
ただ、魂と呼ばれる不可視の存在を、いまだ確認する術を持たないだけで。
「肉体から解放される魂の昇華―――これを、私たちは“星幽体の起源奉送”(アストラル・プロジェクション)って呼んでるんだけどね。
貴女たち人間が死んだ場合、その器である脳から魂が分離して幽体になるんだけど、その時には自動的に、この世界とは全くの別次元にある“無源流の大領域”(アタラクシア・ウロボロス)に回帰していくの。魔導の世界じゃあ、いまだに“無意識の集合体”だなんて呼んでるみたいだけど…。まあ、あながち的外れってわけでもないし、組織的な魔導組合でも設立されれば、この概念も一般化されるでしょうね」
「…なんだか…、新しい言葉が、いっぱいですね…」
呆気に取られたようなルナの表情を見て、クリスティーヌは微笑する。
「じゃあ、ここで止めとく? 今ならまだ、知らないままでいられるけど」
少しだけ、敢えて突き放したように告げた彼女の問いかけに、ルナはそれでも意志を曲げなかった。
「いえ…、怖い、ですけど…。それでも、もう、中途半端の、ままでは…、いられません、から…」
その決意の言葉に、どこか哀しげに目を伏せてクリスティーヌは頷いた。
「…そうね。貴女は、その道を選んだものね。―――この“無源流の大領域”の本質はね、浄化と循環にあるの。昇華した無数の魂が“無源流の大領域”に回帰する時、その魂に記録されてる個人情報を全て消去するんだけど、これは不純物を取り除くことで、より純粋な霊的エネルギーに凝縮させるための行為なの。
ここまでの過程を、さっきも話した“星幽体の起源奉送”って言うんだけど、つまりは世界が認識する生命の“死”そのもの、魂の浄化だと考えるだけでもいいわ」
ルナは説明が進むにつれて首を傾げていたが、それでもクリスティーヌの言葉を必死に理解しようとして、真摯に耳を傾けている様子だった。
「…そして、その次に、循環があるんですね…?」
「その通り。一つ一つの魂がこの源流に回帰する事象を“死”と呼ぶのなら、その逆である“生”もまた、同じ過程を辿るのが自然だからね。―――魂という“個”から源流という“全”へと昇華した後は、そのままゆっくりと“無源流の大領域”をたゆたいながら、次に生まれ変わる魂の鋳型“生命の雛型”(アリストテレス)を通して個体としてのカタチを得、再び世界のあらゆる生命体の中の一個体として転生するの。
こうして魂が更正する一連の道程を、私たちは“輪廻転生”(リインカーネーション)って呼んでるわ。…まあ、単純に生まれ変わるってことだけで考えるのが早いんだけどね」
それは、世界そのものが自己を維持するために創設した絶対不変のシステムの一つであり、全世界から蒐集する魂の全てを管理することで、再び世界へと転生させるために運営する独立した霊的機能。
本能は父と母から受け継がれる遺伝子によって肉体に刻まれ、意志は誕生した土地の環境と出会う人間との関係によって精神に溶け込むものだが、これらを動かすエネルギーたる自我は人類固有の専有物ではなく、無限に存在する生命体が保有する、あくまでも世界を構成する純正要素の一つ。
成長する精神の思想を洗い流す、到達不可能な大元。
遺伝する肉体の欲望を切除する、測定不可能な質量。
―――だが、そこに“悪魔”の陥穽がある。
「理解するのは、難しい、ですけど…。お話を、聞く限り…、善悪の価値が、ないように、思えるのですが…」
「その答えについては二種類あるんだけど…、まあ順を追って話すわね。―――まず、その前提として重要なのは何をもって善悪に分けるのかというコト。
そもそも“無源流の大領域”は全霊の集合体。平行世界を含めて蒐集される全時空の魂をすべて管理運営する、統一法則なの。特に、大きな影響を及ぼす世界の異物“人類”に対しては、その“星幽体の起源奉送”の扱いも特別シビアでね。源流に回帰する人間の魂は、その手前で同じ神性の秤に掛けられてしまうのよ」
「はか、り…?」
「そう。その秤の名前は“雙世審判”って呼ぶの。善悪の秤とも言うんだけど、その秤の基準がそのまま世界のワガママを顕著に表す特徴でね。実は元々、人間が一般的に定義する善悪と、世界が基本的に定義する善悪とには、大きな隔たりがあるのよ。
例えば、遥か昔、人々の生活に大きく貢献した一人の英雄がいたんだけどね。その英雄は、どんな手段を使っても人の死を絶対的に減らすのが最善の方法だと考えた。そして死ぬまでそれを実行し、村や町を救う代わりに、人間に害を為す他の生き物を絶滅に追い込み、多くの樹木を伐採して資源にし、森を砂漠に変えたの。
確かに、人々から見た彼は、自分たちの生活を豊かにしてくれた英雄に間違いないんだけど、世界から見た彼は、自己を構成する生命の一つである星の環境に大きな悪影響を与えたことになる。
結果、彼は人々から英雄と称されて伝説に語り継がれていったんだけど、その昇華した魂はこの“雙世審判”によって悪と見なされるから、次にカタチを迎える“生命の雛型”が得られるまでは、この“無源流の大領域”の中で永遠にたゆたい続けるってわけ。
勿論、次に転生する生命体は必ずしも人間とは限らないし、前世の個人情報だって引き継がれることは有り得ないままにね」
これが、世界が定める“輪廻転生”の全貌である。
生前の善悪の基準は人間に対する影響の善し悪しではなく、あくまでも世界を構成する星の環境に与えた影響に類する行為の積み重ねに着眼されるもの。
「でも、別にこれだってそんなに悪い仕組みでもないわ。また人間に転生したければ、頑張って環境に良いことをすればいいんだし。一つ木を切れば、二つ木を植える。ただそれだけのことだもの。―――本当だったらね」
「え…?」
さすがに理解の範疇を超えてきた説明に首を傾げながらも、唐突に口籠もったクリスティーヌの様子に気付き、ルナは顔を上げる。
「言ったでしょ、答えは二つあるって。今のはね、あくまでも世界が定めた基本的な善悪の基準。本当なら、これが貴女の質問に対する正しい答えになるはずだったんだけど、ここで世界も度肝を抜かれた、完全に予定外のアクシデントが起きちゃったのよ」
全宇宙に在る生命体の根源。
「その昔、まだ人類という存在もなかったこの星には、ある超自然的な支配者たちがいたの。彼らは同族勢力を成して敵対勢力と戦いを繰り広げていたんだけど、ある日、突如として両勢力の前に現れた“魔王”の介入によって彼らは全滅した。その時に殺された支配者たちの中でただ一人、あろうことか自分たちがいなくなった後で繁栄していった無数の生命を呪うために、この“無源流の大領域”に目をつけた者がいたのよ」
全ての魂の原初にして終末。
「こいつの呪いはすごく強力でね。浄化能力が桁外れに高いはずの“無源流の大領域”に力技で介入したんだから、もうお手上げ。善悪を区別する“雙世審判”の判断もお構いなしに、昇華してくる魂のすべてを平等に、あらゆる“生命の雛型”に注ぎ込んで循環させるの。―――だからこれは、世界に自存する“悪魔”の呪いなのよ」
世界の絶対システムに致命的な欠陥を仕掛けるため、自らの存在そのものを無限の呪詛に変質させることで得た、その超常的な改竄能力をもって世界の目を完璧に欺いた魔神。
「その呪いの名前は“最も公平なる悪意”(ウボ・サスラ)―――ヒトガタを真似てしか顕現しないような悪魔の仕業ではなく、最も位の高い“魔神”を冠する、それ自体が干渉不可能な神格の呪詛なのよ」
そんな…、と口の中で呻くルナの表情は、完全に血の気が引けて青褪めていた。
想像を遥かに上回る悪夢のような現実、世にもおぞましく呪われた真実を受け止めることができず、ほとんど放心したように困惑を極めている様子である。
「…そうね。だから、この話は人間が知らなくてもいい話なの。社会を纏めるにはどうしても規律が必要不可欠だけど、その為にはまず、万人に受け入れられ易い明確な善悪の方が都合がいいのは自明の理。そうじゃないと、子供たちの教育に悪影響を与えるだけだしね」
「…これが、真実だなんて、あるはすがありません…。こんなの…、あまりにも、無慈悲すぎます…。…善悪に価値がない、だなんて…、そんなことが…」
そこまで言って、ルナは本当に、この呪いが悪魔だと思った。
この真実を知り、無価値な善悪を守ろうとする人間がいなくなった時、人間が人間を統治する世界は驚くほど簡単に崩壊してしまうだろう。
理由のない救命が善でなくなる世界。
目的のない殺人が悪でなくなる世界。
それはまさしく、人間ひとりひとりの善性が試される悪魔の誘惑―――否、呪いであるのだ。
「その呪いを、解くことは、できない、のですか…?」
「まず無理ね。そもそも“無源流の大領域”そのものが到達不可能な次元にあるし、仮に辿り着いたとしても、その瞬間に強力な浄化作用が働いて個人情報を消されてしまうから、人間程度の魂じゃあ抵抗できないし、精霊レベルの魂でも自我を保つことは赦されない。―――最低でも、高次元存在級の星幽体を維持できないと源流には逆らえないわ。残念だけど、私の力でも辿り着くまでが精一杯。さらにその上、呪いを解くだなんて大それたコトは、あまりに力不足が過ぎて笑い話にもならないのよ」
「…、そうですか…」
救済も断罪もない世界。
それは、ある意味では無法の地獄と呼ぶべきだろう。
暴力が蔓延り、他人を信じることができず、裏切りに長けた知恵者だけが生き残る残酷な世紀末。
―――ああ、人の善性とは、あまりにも油断できない。
「この世には、…天国も、地獄も、ないのですね…」
「それが、在るには在るんだけどね。向こうから招待されない限りは絶対に辿り着けないみたい。私も何度か試してみたんだけど、その手前にある“神霊の七宝印”(ゲート・オブ・メギド)をどうしても突破できなくて…。多分あの門を独力で通過できるのは、世界中を捜しても魔王ぐらいしか思い付かないわね」
もう、言葉を返す気力も、過酷な現実に削ぎ落とされた様子だった。
部屋に漂う、重い沈黙。
暗い表情で俯くルナだったが、クリスティーヌの話の半分も理解しているのかと問われれば、応えることは難しいだろう。
それは、どう足掻いても絶望しかない、人類が知覚もできぬ別次元の幻想であるからだ。
彼女の話はあまりに理解の範疇を超えていて、ほとんど置き去りにされたような孤立を実感せずにはいられなかったが、それでもいよいよもって正体不明に底知れぬこの女性が、少なくとも嘘を話してはいないということだけは受け止めることができた。
少し時間を起き、ようやく顔を上げたルナは、まだ釈然としない様子ながらも少しずつ頭を整理して消化していこうと決意を固めたふうだった。
「すみません…。…ありがとう、ございました」
無理に微笑み返そうとする少女に幾ばくかの後ろめたさを覚えながら、クリスティーヌは肩を竦めた。
「喜ばせるような話じゃなくて、ごめんね」
そう言って、思い出したように言葉を繋いだ。
「でも、気が滅入るような話ばかりじゃないわ。実は、貴女の王子様がもうすぐここにやってくるの」
「私、の…? …あ」
ルナがすぐに思い至ったのを見て取り、クリスティーヌは微笑んだ。
「でも、どうして…?」
「大切な人の為なら、たとえ敵地の中心にでも駆けつける―――それが愛の力ってヤツよ」
言って、クリスティーヌはうっとりするような眼差しを虚空に向ける。
「恋はね、すごく詩的な冒険なの。私はそういう健気な青春を応援するのが大好きでね。だから今だけは、特別サービスってことで私がここにいるってわけ」
「あ、あの…、えっと…」
顔に朱が注し、初心に狼狽えるルナの仕種を可愛く思い、クリスティーヌは満面の笑みを浮かべた。
「まあ、細かいことは気にしないの。とりあえず貴女の王子様が現れるまでは、小煩い狼どもを追い払ってあげるから。…さてと、話が長くなっちゃったわね。もう朝食も冷めちゃってるだろうし、ちょっと温め直してくるわ」
「え、…?」
「ついさっき、向こうの部屋で朝ご飯の準備を整えておいたのよ。それに、こんな薄暗い部屋の中で食べるよりも、よっぽど健康的だと思わない?」
「あ、でも…。向こうは、ジュリアさんの、お部屋ですから…」
「それなら本人に了解を得てるから大丈夫。だから、ちょっとだけ待っててね。口に合うかどうかは分からないけど、味はそんなに変じゃないはずだから」
虚を突かれたような表情をして暫く、ルナはここで初めて、今日一番の晴れた顔を見せた。
「はい。ぜひ、頂きます」
「良かった。じゃあ、ここで少し待っててね。…ふっふっふ、期待してていいわよ〜」
そう言い残して遠ざかっていく足音が途絶えて間もなく、クリスティーヌの絶叫がルナの鼓膜に轟いた。
「こ、このバカ猫ッ! 私たちの朝食を…! …こ、こら! また食べようとするなってば! シッシ! …まったく、いったいどこから―――あ、私が開けた窓か…! …ああ、やっちゃった…。…って、また来た! しかも家族連れってどゆコト…!? ち、ちょ、ダメよ! ダメったらダメなんだからねッ! 私だって腹ペコなんだから…! う、…そ、そんな円らな瞳で私を篭絡しようだなんて…!」
「だ、大丈夫、かな…」
―――結局。
ルナが思わぬ家族連れの闖入者とともに新しく作られた朝食を頂いたのは、それから一時間後のことだった。
『キャメロット城 玉座の間』
玉座の間とは、その国の最高峰を具現するために名誉と権力とを背景にした、壮大な威光に輝く謁見の場である。
そこでは様々な趣向が凝らされ、衝撃的な吹き抜けの空間に敷き詰められた豪華な装飾を惜し気もなく、その細部に至るまで油断なく計算することで、思わず天井を見上げずにはいられない開放感のある贅沢な至福を完成させている。
半円筒形の空間、二階と三階を吹き抜けにして広く保たせた空間を清潔に維持する玉座の間において、獅子将軍ゼノンはただひたすら頭を垂れて跪いていた。
かつて、ここにはブリテンが誇る伝説の騎士王が玉座に座り、その周囲を十二人の騎士が代表して上席に名を連ねたと聞く。
歴史に名高く、世にも誉れ高いこの場所に招聘されることは、伝説を知るドゥムニアの騎士ならば誰もが憧れる、一種の名誉であった。
だが、今のゼノンには、あまりにも罪深い痕跡を残すがための罪悪感を噛み締める、懺悔の場そのものに思えてならなかった。
現ドゥムニア国王が座する玉座の前に、反アングロ・サクソン人を掲げる抗戦派の面々がずらりと立ち並んでいる。
その誰もが、鶴の一声をもって国政に大きな影響力を及ぼす大貴族の重鎮たちであったが、やはり国家存亡を賭けた重大な危機を前にしては、さすがにその重い腰を上げずにはいられなかったようだった。
白亜の壁に立て掛けられた、ドゥムニア王国を象徴する紋章―――一匹の竜を中心に二本の剣が交差する“緋竜の誓剣”を背景に、国の畏敬を具現化する玉座の王が口を開いた。
「この早朝にあって皆に集まってもらったのは他でもない。先の戦争でマーシアを退けたウェセックスが、ついに聖騎士を主軸とする部隊を準備しているらしい。…そうだな? ゼノン将軍」
短く応えて、ゼノンは鏡面のように磨き抜かれた床に視線を伏せたまま、報告事項を簡単に述べた。
「数時間ほど前、王都ウィンチェスターに潜らせた間者より報告がありました。敵の数は不明ですが、出撃予定の部隊の中には確かに、聖騎士スレインの姿を確認しているとのことです。…恐らくは、一週間以内に王都に到着するものと思われます」
列席する抗戦派の歴々が一瞬ざわめき、次いで、動揺の波が怒りの津波にへと変貌した。
「ふん。聖騎士だか何だか知らんが、侵略者の分際で我らが王国を脅かそうなどとは言語道断。神をも畏れぬ大罪よ」
「前大戦での屈辱。今こそ晴らすべき。ブリテンは、我らが御手の下にあってこそ初めて栄光に満ちるものだということを、奴らはまるで分かっておらん」
「そうとも。我らの手に再び真の自由を取り戻すため、アングロ・サクソン人どもの支配には決して屈してはならぬ。アーサー王のご遺志を受け継ぐ我らに立ちはだかる者どもは、すべて斬り伏せるべし」
「所詮は自分の故郷も捨てた蛮族にすぎぬ者の末裔よ。保身に終始する奴らに、誇り高き我らが意志を打ち砕くことなど誰にもできぬわ」
「その通り。ゆえに我らは最後の一兵となっても剣を手に取り戦い抜こうぞ。ブリテンの平和を脅かす者とは、他ならぬアングロ・サクソン人どもだ」
「うむ、まさしく奴らがこの島に無用な侵略戦争を持ち込んできおったのだ。そして自分勝手に支配者を名乗り、あまつさえ三百年という時代を経てもなお戦いを繰り返す蛮行は、もはや山賊どもと何ら変わらぬ畜生である」
「陛下、ここは徹底抗戦しかありますまい。幸い、全国民が陛下の言葉に応えて剣を手に取り、王国のために獅子奮迅の働きをもって勝利をもたらすことを約束してくれました。今や軍の士気も高く、我らが底力の前には聖騎士とやらもひれ伏すに違いないでしょう」
確かに、民兵を取り入れたドゥムニア王国の兵力は五万近くにも膨れ上がり、これを作戦に投入すれば豊富な戦略を練ることができた。
だが、民兵ひとりひとりの熟練度は騎士のそれとは比べるべくもなく低水準、言ってしまえば、付け焼き刃でしかない最低限度の武器取扱を教わって戦場の最前線に立たされる、およそ最悪に類する徴兵である。
彼らの死はそのまま国益に直撃し、民兵の命が一つ失われるたびに、国の寿命も少しずつ縮んでいく。
ゆえにこれは背水の陣でさえもなく、その勝利と敗北の先には断崖絶壁の未来しかない自殺行為でしかないのだ。
しかし当初、五万という部隊編成を見た時、ゼノンは愚かにも、この戦力ならばウェセックスを倒すことも決して不可能ではないと、思わず歓喜してしまっていた。
“民を巻き込む戦争に未来はない―――”
王女のこの言葉がなければ、自分はどのような贖罪をもってしても償いきれぬ大罪を犯すところだったと、ゼノンは改めて王女に感謝の念を抱きながら眉間に深い皺を作った。
―――今はまだ懺悔の時間。
巨漢の騎士はただただ口を閉ざし、来たるべき決意の時間の訪れを瞳を閉じて待っている。
「皆の激励を嬉しく思う。やはり聖騎士であろうとも、清明たる我らの志を理解することはできなかったのだ。湖の乙女ヴィヴィアンの目は曇っている。魔人などに構っている前に、まずはブリテンを混乱させる元凶のアングロ・サクソン人を追い出すことが急務であることがなぜ分からんのだ」
家臣は一様に頷いた。
「ごもっともでございます、陛下。所詮、あのような風の噂でしか姿を見せぬ物の怪に、我らがブリトン人の崇高なる悲願を理解することはできぬのです」
「アーサー王も、あの者に魔導師マーリン殿を殺されなければ、聖剣の力を損なうことなく命を落とすこともなかったはずでございますからね」
「あれは、関わる者に一時の幸福と永遠の不幸をもたらす諸刃の剣。その狡猾な知能で契約者を利用し、嵐のような気紛れで簡単に責務を投げ出す人外の存在です。信頼に値する者では初めからなく、我々の未来はやはり、我々の手で勝ち取ることが重要でありましょう」
「そのためには、あの聖騎士をいかに打ち破るかが目下の最優先課題。前大戦にて煮え湯を呑まされた彼奴を相手にすれば、苦戦は必至。奴に前線の騎士団を壊滅させられなんだら、ヴァイキングが撤退しようとも我らはまだ戦えたものを」
「数でも勝っていた剣聖バールゼフォンの智略をもってして、ついには耐え抜いた奴らだ。よもや我らが敗北するとは思わんが、後方にはイングラムも控えておる。ここは慎重を期して迎撃した方が無難かと」
「しかし、民を味方につけた我らの優勢に揺るぎはない。ここは聖騎士の試練にて彼奴の技量を間近で見てきたゼノン将軍の計を拝聴したいと思いますが、皆様いかがでございましょう」
皆が寸分違わずに、異議なし、と口を揃えた。
ジロリと威圧する無言の静粛、玉座の前に跪く騎士を取り囲むように左右に列する六人の重鎮の目が、突き刺さるように一斉にゼノンへと注がれる。
先だってウェセックスに宣戦布告を突きつけた以上、自国を守るために戦わなければならないことは理解できる。
マーシアの計に肖ったとはいえ、簡単に反逆を許してしまったウェセックスが生半可な和平案を提示したところで単純に呑むはずがなく、恐らくは無条件降伏しか選択肢はないだろう。
だがそれはドゥムニア王国の滅亡を招く畏れがあり、全国民がウェセックスの奴隷として働かされる可能性が高すぎた。
“ウェセックスを含めた七王国の社会制度は、大抵が三つないしは四つの身分に区分された階級社会だ”
ならば、ゼノンに求められている策は、ただ一つ。
「ゼノン将軍、お前の作戦を聞かせてくれ。いったいどのような策を用いて、聖騎士を破るつもりなのかを」
王の言葉に応え、決意の騎士は緩やかに顔を上げる。
「その前に、国王陛下と皆様方に、折り入ってぜひ、お耳に入れたき話がございます」
思い描いた脚本にはない予想外の進言に、重鎮たちは一様に不振の色を隠せずに眉を顰めた。
「何事だ、ゼノン将軍。今がいかなる緊急を要する大事の時か、解っているか」
「予断を許さぬ現状に無駄な時間は割けぬ。それが分からぬ貴公ではあるまい」
「それともまさか、ご乱心なされたジュリア様と同じく、今この期に及んでもウェセックスと和平を結ぼうなどと語るつもりではあるまいな」
「おお、何と愚に堕ちるつもりか。それは国を売ると同意ぞ。民を奴隷に貶めるぐらいなら、我らは誇り高き死を選ぼうではないか」
「勝利こそが王国を救う唯一の手段である。これが成れば、貴公は円卓の騎士に勝るとも劣らぬ英雄として歴史に名を残すであろう。その時こそ、我らは高らかにそなたの名を謳おうではないか。そしてそなたは王国の象徴となるのだ」
「さあ、我らが英雄よ。何も恥じることはない。声を大にして戦略を開示したまえ。貴公は王国の繁栄と未来を指し示す道標。今こそ王国を守る騎士として、英霊の一人へと昇華するための決断の時」
進言をあっさりと切り捨て、強い語調で反論の芽を摘み取るやいなや、すぐさま相手を持ち上げて逃げ道を用意する。
その臨機応変な家臣たちの連携に、ゼノンは誰にも悟られぬように小さく溜息をついた。
会議の進行具合は王が決めるものではなく、その多くは取り巻きの賢者が言葉巧みに操船し、事前に組み立てた決定事項に向かって、ただひたすらグレー論を並べ立てるだけだ。
隠晦曲折にのらりくらりと論点を暈かし、重要案件をさも検討したように見せかけることもあれば、国民の利益と生りて貴族の損失をもたらす議論を、その巧妙な口裏合わせで画餅に帰すことも少なくない。
どのような画期的案件も、貴族を敵に回せば開陳したところで意志決定は引き延ばされ、その本質的な問題を空中分解させられたまま徒花へと終わる。
彼らは自らの危険に対する嗅覚が非常に優れており、自己を守るためならば別派とも手を組んで、害を為すモノを徹底的に排除しようとする仕事が驚くほど早いのだ。
―――これが、あの遠すぎる理想を単なる夢物語と割り切ることのしなかった、ジュリア王女の選んだ戦場である。
貴族は出世競争の世界で生きているが、その実態は家督を譲られた相続の末裔が権威を連立させているにすぎない。
その時に過激派が権力を握るのか、それとも保守派が威光を笠に着るのかで、その国の社会システムが大きく左右されると言っても過言ではないだろう。
「―――私は、この国を愛しております」
ゼノンは、玉座の背後に大きく飾られた“緋竜の誓剣”を視界の隅に捉えながら言った。
「ローマ帝国の支配を受けて幾世紀を経てもなお変わらぬ誇り、真の自由を手に入れるために皆が一丸となって戦い抜いた乱世にも、優しい思い出は数多く眠っていることでしょう。―――私はそれを、信念、と呼んでおります」
人が国を想うのは、その故郷に根付く大切な過去の実在を確かに感じ取ることができるからだ。
生まれ変わった家族との絆、ともに喜び涙した友との語らい、心から守りたいと誇れる愛との遭遇、そして、世代とともに継承されていく子孫との物語。
人の心は、目には見えぬからこそ国境も時代も超えて受け継がれ、その積み重ねこそが社会の大いなる発展へと繋がっていくのだ。
―――たとえ、それが善きにつけ悪しきにつけ。
「私は愚か者でした。なぜなら“力”こそが正義だと信じていた時代が確かにあったからです。強者であることを義務付けられ、多くの敵をこの手で屠って参りました。…そうしてヴィヴィアン殿に候補者として選ばれることは必然、ゆえに聖騎士を戴くのも当然ながら私に間違いないのだと、あの時はそう信じて疑いもしていませんでした」
この世はゼノンが誕生する遥かに前より戦乱、群雄割拠の血塗られた時代。
実力がなければ自分の身さえ守ることができないこの世界で、剣よりも大切なモノがあるはずもないのだと。
少なくとも、ゼノンはそう教えられて生きてきた。
「しかし、私はついに聖騎士になれなかった。何故、と問うたところでヴィヴィアン殿は応えて下さらない。私は理不尽だと思い、湧き上がる不満を怒りと嫉妬に変えたまま帰国したのです」
それは言うなれば、ゼノンの信念が誤りであるのだと告げられたに等しい結果であった。
時代の趨勢に従って苦心惨憺と鍛練を積み重ね、ようやく一族の歴代でも最高峰の名誉となる“聖騎士”まで後一歩というところ、彼の目の前に開けた断崖の眺望という現実。
「それは、あの魔性が判断を誤っただけのことだ。そなたには何の落ち度もなかったのだ」
「…私は、七年前の王妃様の一件以来、その信念を確固たるものとしたはずでした。ジュリア様は部屋に閉じこもり、その涙を拭うこともできない私は、剣で応えることに何の疑問も抱くことはなかったのです」
隠り世に棲まう閉鎖的な魔女ヴィヴィアン。
その魔力は師マーリンに匹敵すると言われ、ほとほと女には縁のないゼノンから見ても無差別に男を虜にしそうな、油断も隙もない美貌の持ち主。
そして真実、圧倒的な実力。
彼女の下で受けた試練の数々は身を灼き、心を凍てつかせて魂を引き裂く過酷なもの。
四人の候補者の中でもとりわけ群を抜く体力を有していたゼノンでさえも、三年前の試練を夢に思い出すたびに汗水漬くの身体を自覚しながら目を覚ますほどだ。
だから、彼は致命的な思い違いをしていたのかもしれない。
「忌まわしい山賊どもを処刑し、王妃様を救い出した貴公の功績や見事。然らばその力を―――」
しかし、と言葉を繋げる男は、迷いを払拭して福々しく微笑んでいる。
「全ては私の浅はかな思慮による誤解でございました。それに気づくのに三年もの時をかけてしまい、…ああ。今から思えば、やはり私は聖騎士という器量に相応しい人間ではなかったのだということを改めて―――」
「ええい、止めいッッ!」
ゼノンの左右に列する重鎮たちの顔は皆、強張っていた。
その中で沸々と煮える憤怒を我慢できない数人は厭うように眉を顰め、険しい眼光を射抜くように突きつけている。
「ゼノン将軍、それ以上は控えたまえ…!」
凍った表情の重鎮もまた、不審そうに言葉を紡ぐ。
「言を慎まねば、取り返しのつかぬ失態を晒すぞ!」
しかしゼノンは止まらない。
「私の知っている英雄は…!」
悠然と、誇らしげに胸を張って騎士が立ち上がる。
「皆が墓の下に眠っておられます…! その英雄方と私如きを同じ位に並べるなど、とても畏れ多き光栄…! …今ならば理解できる。なぜ私が聖騎士に選ばれなかったのかを。―――そう、私は愚か者なのです。ならば、愚か者にはそれに相応しい破滅こそが似合うもの」
将軍が誇る巨体の背中、長さニメートル余りの、ゼノンの並外れた体格に勝るとも劣らぬ精悍とした刀身が、彼の滑らかな動作によって引き抜かれた。
一見すると、その大剣は無骨なまでの力強さのみを強調しているように見える。
常人では持ち上げるだけでも一苦労するであろう、ある種の凄みすら感じさせる圧倒的な迫力と存在感を横溢した、硬派な完成度。
しかしそこには、僅かな装飾さえも女々しいと断ずる、徹底的なまでに無駄を削ぎ落とした“破壊”という設計思想に妥協しない意匠の、途轍もない潔さに裏打ちされた愚直なまでの原点回帰を窺い知ることができる。
一目で相手を打ちのめす強烈な個性、そして文字通りの衝撃的な質量を宿すそれはまさしく、ゼノンの家系に代々より受け継がれてきた宝具に相違ない。
その剣を、あろうことか王の御前で抜き放つという前代未聞の行為を前に、その意図を瞬時に理解した重鎮の一人が途端に狼狽した声を上げる。
「バカな!? 貴様、血迷ッ―――!?」
しかし、その言葉は最後まで発することができなかった。
ゼノンの左側にいた重鎮たちは、己が右腕から腋の下を通って胴体を、そして左腕に閃いた横一文の剣に反応することもできず、背骨さえ綺麗に切断された屍となって絶命する。
上下に分離する胴体、その切断面からやや遅れて、思い出したように噴出する血飛沫に滑りながら、上半身が無機質な音を立てて床に落ちた。
「う、うわぁぁッッ!?」
突然の仲間の死に気が動転した重鎮たちが、一斉にざわめいて後退る。
それは、今から始まる惨劇の調べ。
その中心に、大罪を覚悟する鋼の騎士が決然と前を見据えて言い放つ。
「貴方がたの舵取りでは、この国の未来を鎖すばかりだ。民を巻き込む戦争など愚の骨頂。―――なればこそ、我らは同じ愚か者。ともに地獄へと参りましょうぞ」
険しく眉を顰める賢者たちは互いに顔を見合わせると、憤怒に皺を寄せながら殺意の目をゼノンに向けた。
「笑止…! お前の裏切りを見透かせぬ我らだと思うたか! やはり貴様はブリトン人としての誇りを捨てた反逆者よ! 誇り高き我らが王国の品位を穢す大罪人…! 慈悲深く名誉挽回の機会を与えてやろうという我らの恩情を踏みにじる愚か者め…ッ! ならば貴様の言う通り、それに相応しい死に様を晒させてやるわ!」
連続した金属の不協和音が、慌ただしい無数の足音となって入口に押し寄せているのをゼノンは察した。
男の言葉とほぼ同時に、弾けるような開扉の音が玉座の間に響き渡り、次いで、床を叩きつけるが如く踏み鳴らす騎士たちが続々と飛び込んでくる。
手には剣と楯、そして全身を鎧に固める完全武装の騎士団―――それはまさしくゼノンを長とする国王直属の近衛騎士団であり、不動の信頼を源にした一糸乱れぬ連携をもって不敗を誇る、前大戦から唯一、今日まで生存しているドゥムニア王国最後の騎士たちの姿であった。
その騎士がおよそ百名、扉を開けて瞬く間にゼノンたちがいる玉座の前にある階段までを制圧し、その退路を完全に遮断する白銀の壁と化して整列する。
「フハハハハハ! 貴様は昔の仲間の手によって殺されるのだ! 裏切り者には少しばかり優しすぎる極刑だが、これまでの貴様の武勲と名誉を考慮してやったのだ! 我らが慈悲に感謝するのだな!」
もはや仔細を語るまでもない、と言わんばかりの口調はなるほど、彼ら重鎮たちが予め騎士たちにゼノンの裏切りを予見し、その予防線として玉座の間の入口に待機させておいたのだろうということを明確に代弁していた。
その騎士たちの表情は、顔面保護のための面甲を兜から下ろしているために窺い知ることはできなかったが、しかし確かに目視しているはずのゼノンの裏切りを前にしても言葉を発しようとしないことから、その心中はすでに心得ているといった様子である。
「さあ、騎士たちよ! この裏切り者を―――」
有無を言わせぬゼノンの一閃が、男の首を鮮やかにも軽々しく刎ね飛ばした。
そこから縦に細長く噴き出す大量の血に、ヒィィと悲鳴を上げて後退る両隣の男たちは尻餅をつき、滑稽にも恐怖に顔を歪めて腰を抜かし、立ち上がれぬ按配。
「ば、バカな―――!?」
「お、おい、貴様ら! 何をしている! 早くこの裏切り者を斬れ! 早く―――!」
そして、彼らは見上げた。
並外れた総量を誇る筋肉、もはやそれ自体が天然の鎧とも見紛うほど理想的に引き絞られた、贅肉の一切を淘汰する圧倒的な巨躯の持ち主。
誰もが幼き日に実感する“父”の威厳を今もなお体現しているかの如く、その背丈に宿す怪物めいた肉の隆々たる姿勢には、これもまた獰猛な気配を発散する大剣が鮮血を滴らせて堂々と男の右手に沈黙している。
その、闘気に滾る男の怜悧な眼光が、恐怖に竦む二人を見下ろした。
「何と不甲斐ない無様。臀部を打ったなら、早々に立ち上がらねば死が待つのみ。…貴方がたからは、もはや拭いきれぬ悪臭が芬々と臭いますぞ…!」
「や、やめ―――ッ!?」
追撃の剣は無慈悲に振り抜かれ、前頭骨から正中線を辿り、背骨に沿うように真っ直ぐ骨盤までを両断された男は即死した。
左右に分かたれた半身、辺りに撒き散らされた贓物を視界に映さぬよう、最後の一人となった重鎮が引き攣った顔で国王の足に縋りつき、救いの声を荒げる。
「へ、陛下! こ、こやつは王国を脅かす裏切り者でございます! ど、どうか、この低俗な私欲に溺れる男に裁きの鉄槌を―――!」
「貴方がたの尊き犠牲は、後世の栄光に連なる礎となるのです。―――先に地獄で待っていてください。私も、後からすぐに参りますから」
厳かに心臓を貫く大剣の切っ先。
身体が硬直し、満足に呼吸もできぬ途切れ途切れの息が少しずつ弱まるにつれて、男の瞳から無抵抗のまま光が消えていく。
口から噴き出した吐血がそのまま顎に細い紅の一筋を残し、やがて膝の折れた身体は崩れ落ちるように床に沈んでいった。
最後の一人の絶命を確認し、ゼノンはその屍から剣を抜いた後、王へと向き直り跪く。
「…陛下、誠に申し訳ありません。…私が至らぬばかりに、この道を歩み抜くことでしか、ジュリア様を守れぬ愚か者と成り果てました。…今はただ、落涙することもできぬ凶人の道に、この身を落としていくばかりでございます」
ゼノンの言葉を受け止めた王はしかし、わずかに眉を寄せて口を閉ざしたまま視線を床に落とす。
侮蔑に怒鳴ることもしなければ、立ち騒いで取り乱すような気配もない。
ただ哀切に満ちた瞳が眇められ、静かに己の運命を受け入れている、そんな様子にゼノンには見えた。
やがて、ぽつりと言葉を落とすように王が呟いた。
「…あれから、もう十七年になるのか…」
その突然の独白に、ゼノンは一瞬だけ躊躇する様子を見せてから頷いた。
「はい。…ジュリア様は日々、お美しく成長しておられます」
王は幽かに微笑んだ。
「あの子は母親似だった。実を言えば、私は男が欲しかったのだがな。…しかしそれも、あの子が産まれてからはどこかに吹き飛んでしまったよ」
「そうでございましたか。…しかし私は、あの無鉄砲な性格に、昔の陛下の面影を重ねておりました」
「くく。そういえばお前は、よくあの子に引きずり回されていたな。…いま思い出したが、私もお前の父をよく引き回していたそうだ。…ああ、なるほど。そう思えば、血は争えんのかもしれぬな」
言って、王は含み笑いを零した。
「しかし言っておくが、私たちも大変だったのだぞ? 夜泣きが始まれば夜通し抱いてやったが、あまりに煩い日はもう、むしろ思いっきり泣けと開き直っていたよ。…あの頃は、わずかな睡眠時間が宝石よりも貴重に感じた、唯一の瞬間だった」
家族以外には知りようもない背景に、ゼノンは目を丸くして口元を微笑ませた。
「ジュリア様の元気な泣き声が、今でも聞こえてきます」
「おいおい、私の軽いトラウマを引き出さないでくれよ」
顔を見合わせた二人は、同時に破顔した。
しかし暫くしてから、王はピタリと笑顔を止め、同時に真摯な眼差しを向けるゼノンに目をやった。
「…あの子の様子は、どうだった?」
「多少、地下の毒気に参っておられる様子でございました。しかし、あの方は私が思う以上に強く成長しておられます。そうでなければ、言葉で戦い抜こうとする優しい覚悟を貫くことはできません」
「その通りだ。あの子の選んだ道は確かに非現実的ではあるが、しかし確かに理想的な選択でもある。…だが、私にはその道を選び取る勇気がなかった。妻が変貌したあの日から、私は復讐の道しか目に映らなかったのだ」
ゼノンは首を振る。
「それを責めることは誰にもできません。陛下が選ばれた道は、男として正しい選択だったと思います」
「ああ、男としては正しい選択だったのかもしれない。一人の夫として、私は妻を嬲り者にした奴らが許せなかった。そして奴らがアングロ・サクソン人だと分かった時、私の中の共存は理想とともに失墜したのだ」
「今、王妃様は…?」
内心を読んだようにゼノンが言って、王は苦笑する。
「先に部屋で眠っている。…もうこれ以上、悪夢を見ることもないだろう。…久しぶりに、ゆっくりと寝入っているよ」
それだけで、ゼノンはもう察したようだった。
しかし、同時にかける言葉が見つからず、詫びるような面持ちのまま喉から言葉が出てこない。
その苦衷を見て取り、王は心持ち微笑みながら言った。
「そんな顔をするな。部下も見ておる。お前は、最後まで強く戦い抜かねばならん。…そうでなければ聖騎士のみならず、かのウェセックスに対しても我々の本気が伝わらぬであろう?」
何もかもを受け入れた者だけが持ち得る穏やかな口調には、ゼノンを責めるような按配は微塵もない。
ただ、その多くを語らぬ朴訥とした笑みに、ゼノンはほんの少しだけ救われたような気がした。
「すべては、ジュリア様をお救いするために、ですね」
王は、優しく微笑んだ。
「…あの日、私は実の娘を地下牢に閉じ込めた。…感情に任せてあの子を罵り、気がついた時にはもう、目の前からあの子の姿を消してしまっていたんだ。…その時にふと思ったんだよ。今まで私が注いできたあの子に対する愛情は、決して今日のような日の為にあるのではなかったはずだ、とな」
そこに残ったのは、言い知れぬ空虚だけだった。
あの優しかった妻を失い、怒りに身を任せて反アングロ・サクソン人の派閥を束ねて、今日までを復讐という決意に生きてきたこの人生には、確かに悔いはない。
―――それはいい。
だが、その為に娘の人生を犠牲にして、果たしてそれで本当に、妻の仇を討つことに繋がるのだろうか。
心から恋しいと思える伴侶に出逢えた。
心から愛しいと思える子供に恵まれた。
どんな時も二人を忘れたことなどなかったが、しかしあの時、彼は確かに、二人が自分から遠ざかろうとしているのを感じてしまったのだ。
何かが、決定的に分かれようとしている。
何かが、決定的に失われようとしている。
―――待て。
一番、大切なことは、いったい、何だった…?
「私は、その時に思い知ったんだ。ウェセックスを滅ぼしたところで、本当にジュリアを守ることはできないのだと。相手を愛し続けるということの難しさは、身近なところにあるからこそ気付けない青い鳥のようなものだ。…私は危うく、妻が残してくれた私の最後の愛情をも、この手で殺そうとするところだったのだ」
「陛下…」
「お前と同じだよ、ゼノン将軍。…お前がヴィヴィアンの最後の課題に気付いたのと同じように、私は、私自身の問題にようやく答えを導き出すことができたんだ。―――そう、私もやはり愚か者だった。あの子にそれを気付かされ、私は助けられたんだ」
王は、そう言って軽やかに微笑んだ。
「あの子の笑顔を見なくなって、もう何年になるだろう。私が欲しかったのは、このような未来ではなかった。遠く離れていくあの子の背中に、私は手を伸ばそうとすらしなかった。…言葉で伝えなければならなかったことを、私はまだ、あの子に伝えていなかったというのに…」
「陛下、あの方は分かっておられます。ジュリア様は紛れもなく、お優しい陛下の次代を担う後継者。あの方が存命であれば、このブリテンに生きるブリトン人たちは決して希望を捨てることはないでしょう。…あの方が作る未来をこの目で見られないのが最後の心残りではございますが、私は確信しております。ジュリア様こそ、雨に打たれて嘆く全ての人間に手を差し伸べることができる、唯一の指導者であるのだと」
そこで、ゼノンは気付いた。
王の目尻に、ほんのりと光る大粒の涙が見える。
「―――ゼノン。お前がジュリアの騎士であってくれて本当に良かったと、いま心から神に感謝している。お前があの子の傍にいなければ、私は今もなお自分の過ちに気付かなかっただろう」
王は緩やかに立ち上がると、跪くゼノンに対して、深く、深く頭を下げた。
「陛下―――!?」
「ありがとう。―――最後に、お前に何もかもを押し付けてしまったこの私を、どうか許してほしい」
言って、王はゼノンを見据えた。
「さあ、ゼノン。お前の手で悲劇に終焉を、そして私を妻の下へと送ってほしい。…あれは淋しがり屋だからな、私が傍にいないと不安で堪らないらしいのだ」
ゼノンの表情が、激しく歪んだ。
「陛下…!」
「幕は下ろされるために開演する。…願わくば、お前の剣が最善の未来を掴むことを信じて…!」
涙、泣こうとして、泣くまいとして、泣いてはならぬとして、ゆっくりと瞳を閉じる王の一点の曇りもない表情がただ、―――ただ、哀しかった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
真実も、嘘もなく、行き場をなくした愛が哀しいままに溢れ出す。
―――その瞬間、刃風が“緋竜の誓剣”を煽った。
「ゼノン様…!」
巨漢の騎士に駆け寄る近衛騎士たちが、崇拝する将軍の足元で息絶える国王の姿を認めた瞬間、ゼノンが振り返ることもなく口を開く。
「たった今より、騎士団は解散とする。…お前たちは自分が守るべき大切な者の傍へと戻れ。そして全てが終わった後、艱難の道を歩くジュリア様を支えてほしい」
「し、しかし! 我々はゼノン様とともに―――!」
「バカを言うな!」
暴風のような叫びが、悲痛な音を奏でて騎士たちの声を堰き止める。
「お前たちがドゥムニアの未来を守る剣なのだ。そしてジュリア様こそがドゥムニアの未来そのもの。私と王は、その軌跡のためにお前たちに夢を託すのだ」
ゆっくりと、その一歩一歩を慎重に踏み締めるようにゼノンが振り返った。
揃って口を噤む騎士たちは狼狽し、その巨躯に相応する烈々たる闘志に気圧されて、次々に道を開けていく。
「―――それに、私にはまだ、やらねばならぬ使命がある」
鋼の騎士は、その道をこそ悠然と進んで玉座の間を後にした。
『セランの森 名もない村』
短く息を吐いて、ヴィクターは目が覚めた。
四畳ほどの開いた空間、無慈悲に壊された村の中では辛うじて雨風を凌げる程度に維持された壁を備える奇跡の部屋で、彼は横臥していた身体をゆっくりと起こして壁に背凭れる。
久しぶりに深い眠りを得られたようだった。
ウェールズに赴いてからというもの、恐ろしい巨体をした“単眼巨人”との遭遇や剣聖との戦闘、そして山賊の頭との対面で消耗した体力も順調に回復している。
倦怠感を吐き出すように背伸びをして、深く呼吸する。
目の前には一夜が明けて火の消えた薪があったが、それがヴィクター自身が焼べた時の固め方と同じである様子から、少なくとも不意に眠りに落ちた時から今までの間には誰も、この部屋に訪れていないことを告げていた。
「…グレッグ…」
改めて部屋の中を見回してみたが、やはり自分以外に人の姿はなく、寝起き特有の靄がかった思考を少しずつ整理しながら空を見上げる。
自分の家から三軒ほど左隣にある潰れた家の一階、屋根が吹き飛び、四方の壁に風穴を開け貫く木材も朽ち果てていたが、恐らくはこの家屋の持ち主の寝室だと思われる部屋は、偶然の設計で幾らか頑丈にできていたのだろう。
あるいは、村を襲った大破壊の影響が偶然にも最小限であった地形に建てられていたのか、一夜限りの野宿場としては申し分ない空間である。
空は健やかに映えた青が広がっていて、千切れ雲を静かに運んでいる按配。
暖かい陽射しが、起床したばかりの瞳には眩しすぎた。
「姉さん…、待っててね。必ず助けに行くから…」
落ちた月に代わって空に昇る太陽に、彼は決意を口にする。
いったい何の目的で姉を連れ去ったのかは不明だが、病に蝕まれて不自由な生活を強いられている彼女を利用しようとするのは非人道的だ。
それを暗殺者たる自分が言うのも可笑しな話かもしれないが、もし姉に何かがあれば、どんな理由があるにせよ、ドゥムニアという国に対する感慨は微塵もない。
「…王女、ジュリア…。あの人も、あそこに戻っているのか…?」
以前、ヴィクターは王女を連れて、王都ウィンチェスターへと護送したことがある。
あの時は不意に名前を聞かれ、その真意を計りかねて偽名を口走ってしまったが、もし王女と遭遇することになれば、事と次第によって、その後の潜入工作が極めて不利になるだろう。
潜入するうえで留意しなければならない城内での危険人物は、この王女と、そして獅子将軍と称されるゼノン将軍の二人だけだ。
グレッグの戦闘経験から推測されるゼノン将軍の戦闘能力は、やはり聖騎士の試練に招かれた元候補者の一人だけあって並外れた技量であるらしく、その膂力から繰り出す剛剣を得意としているようだ。
しかもその剣速はグレッグの反応速度を凌駕するほどであり、真正面からでは万に一つも勝ち目がないことは火を見るよりも明らかである。
尤も、二人がかりで奇襲を仕掛ければ勝算もそれなりに上がるのだろうが、自分たちに命じられた任務はあくまでもルナの救出であったし、その後における脱出も退路を確保したうえで慎重に行わなければならない。
万全を期した潜入は、後続の本隊を率いる聖騎士スレインを迎撃するために敵部隊が王都から離れた時だが、それ以上に姉が隔離されている場所を突き止めなければ作戦の本懐も遂げることはできないのだから、前提として重要視しなければならないことは、ルナの拉致に関係する人物をいかに早く発見するかだ。
そうなると、姉の居場所を最も確実に知っているのは王女ジュリアなのだろうが、王族が住まう場所は決まって城内の最奥である以上、その潜入行動には注意深く当たる必要がある。
つまり、王城に潜入する際の行動では、将軍ゼノンに遭遇することなく王女ジュリアから姉の居場所を聞き出し、その安全を確保したうえで速やかに王都から脱出する、この一点に絞られることとなるのだ、が。
―――なぜ、こんなことになってしまったんだろう。
ヴィクターは握りしめる拳を見つめて、そのまま虚空へと視線を流した。
「…どうして僕たちがこんな目に会わなきゃいけないんだ…? 僕たちはただ、穏やかに暮らしたいだけなのに…。…僕たちには、平穏に生きる価値さえもないって言うのか…? …いったい、僕たちが何をしたって言うんだ…?」
こんなにも晴れた空が、なぜかあまりにも眩しすぎるように感じてしまうのは、きっと自分の心に迷いがあるからだとヴィクターは思う。
あの日の惨劇、神に見放され、運命に嘲笑われ続けた弟が心から願うのは、姉を蝕む病の一日も早い快方と、そして彼女が安らかに笑える日常の訪れだけ。
その為なら自分の掌が他人の血で染まろうと躊躇いはなく、この悲願を遮る相手が他ならぬ神や運命そのものだと言うのなら、全力で抗うまで。
「…いや、考えすぎだ。神は僕たちを見捨ててはいない。…そんなこと、あるもんか…」
半ば祈るような呟きは、人目を憚るかの如くにか細く空に解けていく。
今となってはもう、天災か人災かも分からなくなってしまったこの村の惨劇から二人が生き延びたのは、他の隣人たちの分も幸福を掴むための奇跡だ。
彷徨っていた自分たちを助けてくれたイングラム卿との出会いも、病弱の姉を心から愛してくれたグレッグとの出会いも、すべては神の救済の手によるもの。
「…そういえば、グレッグは…? グレッグは、どこに行ったんだ…?」
この部屋にいないのだとしたら、彼は他の場所で夜を明かしたことになる。
しかし、村を一周して探し当てた適当な寝床といえば此処しかなく、他に夜風を凌ぐ場所はないはずだった。
「まずは探そう。…話はそれからだ」
軽く膝を打って身体を起こし、もう一度だけ深呼吸をしてから目を開ける。
崩れ落ちた外観の入口を降りた先、目の前の豁然と開けた広間の中心に設えてある池の方へと歩いていくと、少しした所で、池の前に焚火を入れて坐っている親友の姿が見えた。
だが、火を消さぬように何か作業的に焚付を入れている様子と、考え深げにぼんやりと火を眺めているその姿は、どこか凄惨な神託を告げられた預言者の罪深い背中を連想させた。
「グレッグ、ここにいたんだ。…心配したんだよ、なかなかこっちに戻ってこないから」
敢えて晴れた調子で言ったヴィクターに対するグレッグの反応は、驚くほど鈍かった。
少しずつ、ほんの少しずつ視線を上げて左にずらし、ようやくヴィクターの姿を見つけると改めて顔を向ける。
その、表情にこそ、ヴィクターは瞠目した。
「グレッグ…、泣いてる、の…?」
「え、…?」
グレッグはゆっくりと指先を目元にもっていき、そこに拭い取った熱の込もる水気の付着を見て、そこで初めて、自分が、自分でも気付かないほど、いつの間にか涙していることに気付く。
「…あ、…。…ああ、泣いてたんだ、俺…。…もう、涙なんて流せないものだと思ってた…」
そう自嘲気味に苦笑する親友の孤独があまりに痛々しくて、ヴィクターはどうしても声をかけずにはいられなかった。
「グレッグ、どうしたの…? 何か、あった…?」
グレッグは、やはり眩しそうに目を眇めながら空を見上げた。
「俺は、生きることが素晴らしいものだって、ずっとそう思ってた。俺たちは確かに人を殺して生きてきたけど、その死を蔑ろにしたことは一度もなかった。それだけが俺の誇りだったからだ。…だけど、今はその誇りが俺の信念に異論を唱え始めてる」
遠い目をして、誰に聞かせるともなく言葉を落とすグレッグは、そのまま息をつく。
「平和ってさ、結局は誰かの死の犠牲の上に成り立つモノなんだよな。新しい時代がきたフリをして、その実、本質的な開化は何も変わらない。いつの時代でも貧しい人はいて、孤児がいて、背中の夜に怯えるんだ。―――ほら、世界は時代を経ても変わり映えしない。ほんの少し献金しても、世界が変わらないようにさ」
ヴィクターは、グレッグが何を言いたいのか分からなかった。
「どうしたのさ、グレッグ。いつもの君らしくないよ。…少し、落ち着いた方がいい」
「俺が、落ち着く…?」
そう言って、グレッグは苦笑した。
「俺はとっくに落ち着いてるさ。美名を背負って死んでいける奴は幸せだ。俺たちのように誰にも覚えてもらえないわけじゃない。…俺は新しい時代に夢を見すぎてた。運命のイタズラってのは、いつだって死神のように音もなく目の前にやってくる」
ヴィクターは眉を顰める。
「グレッグ。それ以上、自分を追い詰めるのは止めよう。諦めたら、そこで何もかもが終わってしまうんだ」
グレッグは嘲笑うかのように短く息をついた。
「終われないんだよ、ヴィクター。俺が諦めても世界は終わらない。―――なあ、ヴィクター」
唐突に、力なく顔を向き直したグレッグが問いかける。
「お前は、世界を救うために、一人を殺せるか?」
それは、誰しもが一度は考える、究極の選択。
「…い、いきなりどうしたんだよ、グレッグ…。本当に、何があったのさ…?」
グレッグは、深い溜息を落とした。
「…いや、ちょっと哲学に浸ってただけさ。誰だって一度は考えるだろ、こういうの。…俺だって、たまには頭ぐらい使うさ」
そう言って首を振り、らしくなかったよな、と呟いてグレッグは立ち上がる。
「いい、天気だな。ルナちゃんも無事にこの天気を眺めて―――って、そりゃ無理か。…ハハッ。…俺は何を言ってんだ…」
何か良くないモノに憑かれたような、ひどく憔悴しきった面持ちで一人ぐちるグレッグの様子に、ヴィクターはただ困惑するだけで言葉をかけることができなかった。
そんな彼の心中が顔に出ていたのだろう、グレッグはヴィクターの心配そうに自分を見つめる視線に気付き、わずかに微笑んだ。
「そんなに心配するなって。…俺はもう迷ったりはしない。…俺はもう、迷わないさ」
怪訝に顔を顰めるヴィクターの隣を、グレッグが足早に通り過ぎていく。
「さ、行こうぜ。―――王城まで、あともう少しだ」
「―――グレッグ!」
すぐにヴィクターが振り返る。
だが、グレッグの背中は遠ざかっていく。
「まずはルナちゃんを助けてからだ。…そうだろ、ヴィクター」
「…グレッグ…」
素っ気ない親友の口調に返す言葉が見つからず、結局ヴィクターはそのまま村を後にする。
道中、どれほど問い質してみてもグレッグがその言葉の真意を言うことはなかったが、しかしそれでも彼が何か、ひどく辛い決意を固めたのだということは何となく気配で察せられた。
―――それは、満足に覚悟もできない憑の夜。
胎動する悪夢に呑み込まれた、鮮やかな不吉の産声―――。
次回は3月23日を予定しております。
〇〇〇将軍のカリスマタイムが……げふんげふん。
それでは皆さん、また次話でお会いしましょう。
ありがとうございました。