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第十八話 〜“月” 前編〜

ウフ、ウフフフ……。


友Y「お、おい……? 大丈夫か?」


ウフフ、イイ感じに間に合わなくなってきたヨ……、期限が……。


友Y「そりゃあ、適当に決めてるからだろ。この無計画金メダリストめっ!」


昨日も朝の5時まで起きてました☆


友Y「はあ!? お前あたまオカシイだろ! 仕事に響きまくりじゃねぇか、このバカっ!」


もっと……、もっと強く……!


友Y「お、オワタが\(^o^)/」


友M「や、問題はこれだって」


あ、それは……!


友Y「ん? なにそれ……?」


み、見ちゃらめぇぇぇぇ!


友Y「えーっと、なになに……。無料でできるオンラインRPG……」


ざわざわ……ざわざわ……。


友M「や、ここはジ○ジョっぽく、ドドドドドで」


そ、そんな問題じゃないって!


友Y「オワタ……。ちょっと面ァ貸してもらおうか」


―――!?


ち、違うんです! ほんの出来心だったんです!


友Y「御託はいいから、ちょっとおいで♪」


……この物語を書き終えたら、次は学園モノを書くんだ……。


友M「では、オワタに代わりまして。……長くなりましたが、引き続き、本編をお楽しみください」


ギャァァァァアアアアアア!?



 ―――は夢を見る。


 誰よりも人を愛し、誰よりも自然を愛し、そして、誰よりも“生きている”ということの素晴らしさを感謝していたからこそ、この世の誰もが幸福であってほしいと祈りを込めていた、ある日常の記憶として。


 その村は当初、永い戦乱で故郷を失い、身寄りもなく彷徨っていた難民たちが寄り集まって、自分たちで生きていこうと始めた自給自足が発端となって成立した、言わば一時的な居住地に近い共同体のようなものだった。


 まだ集落と呼べるコミュニティにさえ発展していなかった二百年前、森林の中にぽっかりと開いた空白地帯で狩猟採集を主とする生計を立てることに成功したその集団は、その起源を男女二十人程度の小さな集まりから子を生し、やがて少しずつ、その規模を発展させていく。


 ―――ただし、これを惨劇の元凶と言うには、あまりにも無慈悲すぎた。


 ブリテン島南部、ウェセックス王国とドゥムニア王国との国境付近に鬱蒼と広がる森林地帯は、両国を繋ぐ主要街道から大きく外れているために交通の便が悪く、双方から辺境と見なされて放置されてきたことが、その集団の発展を外界から邪魔されぬ要因として、偶然にも助力したのかもしれない。


 彼らは予感に満たされていた。


 愛に祝福された子供たちが成長し、自分が老いて臨終の床に臥した時、孫が心配そうに顔を覗く様を虚ろな目で見やると、その健やかな成長に後世の豊かな発展を確信して何の心残りもなく、そっと、心配をかけまいと形作る精一杯の笑顔で安らかに瞳を閉じる。


 愛は人を強くする。


 死の哀しみが生命の尊さを子供たちに学ばせ、だからこそ助け合いを旨として生活することを“善”なる行為と、村に住むすべての人々が誇りを持ってそれを実行することができた。


 そのせいか、村は一つの巨大な結界として、すべてを内世界で完結する。


 森林を境界線として外界から孤立し、血縁的にも地縁的にも周囲の街や村との脈絡を持たず、部外者など訪れるはずのない土地で隔絶した“名もない村”は、自然の恵みのままに生活を成り立たせ、やがて誰もが迎える“死”を尊崇した。


 死とは、肌が触れ合った数の分だけ、心を通じ合わせた時間の分だけ哀しみを伴う絶対的な別れであり、ゆえに人は死者のために祭具を作り、亡骸を埋葬して自然に還す儀式に祈りを込める。


 ―――そうして、惨劇の種は人知れず芽吹いた。


 未熟児網膜症。


 人間の眼球は母胎時の第七週目ごろに完成を迎え、外部の視覚情報を電気信号に変換する“網膜”もまた、この時期に形成されていく。


 電気信号を脳中枢に伝達するのは視神経だ。


 十二対ある脳神経の一つであり、文字通り視覚を司る視神経は百万ほどの神経繊維を持っているため、これが微弱な電位変化を円滑に伝達する役目を担っている。


 この視神経と網膜とを繋ぐのが“視神経乳頭”と呼ばれる眼底周辺部の黄斑部であり、網膜を扶養する動脈と静脈も、この視神経乳頭から網膜の外側へと発達する。


 それが約十六週目から三十六週目ほどまでの時間をかけて形成していくのだが、未熟児網膜症とは、この期間内において血管に異常が起きた場合に発症する病のことだ。


 網膜血管が発達していない部分のことを“無血管帯”と言い、本来であれば自然に回復して眼底周辺部へと延ばしていく自己治癒能力が人間にはあるのだが、未熟児網膜症では、この修復過程において繊維血管と呼ばれる、酸素に非常に弱い新生血管が増殖し始め、やがてこれが瘢痕収縮すると、小さく萎んでいく血管に網膜が無理やり引っ張られていくために、最悪の場合は“網膜剥離”にまで重症化する。


 この修復過程はゆっくり進行する場合もあれば、不規則に活動して急激に進行する場合もあり、特に後者の場合をラッシュ型と呼ぶ。


 ラッシュ型の未熟児網膜症患者が特に失明しやすいとされる理由は、その急激な修復活動によって脆弱な繊維血管が不完全のまま損傷してしまうために収縮を始め、結果として網膜剥離を起こしやすいからなのだ。


 本人も、そして周囲の人間たちも気づくことができない“眼”の病―――母胎の中で発症するからこそ病識を自覚することができない事実そのものが、この未熟児網膜症と呼ばれる病の真の恐ろしさであるとも言えるだろう。


 人は、眼を通じて世界を確認する。


 太陽が眩しいという証明も、空が青いという証明も、星屑の夜空に映える美しい月の形が丸いのだという証明も。


 すべては視覚から脳へと記銘し、その情報を保持して、記憶から再生することで現実と再認するからこそ、人はあらゆる情報を具体的に思い浮かべることでそれを忘却することなく、確固たる事実として正しい情報を保存する。


 だが、未熟児網膜症によって牽引性網膜剥離を引き起こしていた彼女は、両目とも完全に失明した先天性視覚障害者として、愛する母の中で同じ時を過ごした弟とともにその産声を上げたのである。


 しかし、当然のことだが、全盲のみならず弱視を患う視覚障害者たちは、それに由来する種々の困難を、成長する過程において克服しなければならなかった。


 眼の障害は、生活する上で必要不可欠な行動を著しく制限するため、視空間認知の困難性から影響される行動制限が、身体の発達に大きな影響を及ぼす可能性がある。


 動作の緩慢から姿勢の悪化、身体の免疫力の低下によって虚弱体質や鈍感になりやすく、社会的関心や日常態度、他人の助力に依存することへの強烈な劣等感、不安定な情緒からくる家居性や自閉症への傾向を生み出しかねない。


 勿論、これらはあくまでも可能性の一つ一つではあったが、知識の重要な“窓”であり、外部情報の八割を“眼”から取り入れる人間にとって、視覚による知識と理解を失うということは即ち、明暗や色彩、距離感や物質の大きさという視空間認知を、独自にゼロから組み立てなければならないことを意味するのである。


 ただし、これは視覚障害の発生時期によって異なり、出生時から視力に障害を持つ先天性障害と、健康体から事故などで障害が発生した中途障害では、ほとんど違うと言ってもいい。


 なぜなら、最初から物や色、そして風景などのイメージを具体的に思い浮かべることが困難な先天性障害者は、成長過程から独自の歩行訓練や知識の学習を身につけていくため、必然的に視覚以外の五感を活性化させることで想像力を養い、自分の世界地図を独自の視点から作り上げていくからだ。


 だが、事故などで何の前触れもなく視覚を失った中途障害者は、その急激な生活環境の変化により、まず精神的に著しい負担を受ける。


 どんな病でもそうだが、自分の障害を受け入れるということは容易ではない。


 無論、一言に視覚障害と言っても“視力”“視野”“色覚”の三種類に分けられるのだが、そのどれもが生活に劇的な変化を与えるため、その一つ一つを軽視することはできない。


 特に彼女の場合、先天性視力障害に加えて身体が弱いという病弱児であったため、心肺機能が弱く、その体力は外出どころか、家の中を往来するだけでも息切れするほどだった。


 だが―――それでも彼女は、その日々の思い出から身に余る幸福を感じていた。


 彼女の傍には、いつも弟がいたからだ。


 歩く時には弟が常に彼女の手を引いて誘導し、最初の食事でも物の位置や用途を克明に伝え、体調が良好である日には積極的に家の外に出て、村の地図を繰り返し頭の中に形作っていく。


 小鳥の鳴き声に興味を覚えれば、弟はその小鳥を持ち帰り、可愛らしいさえずりを聞かせてくれる小さな生命を自分に触れさせてくれた。


 たまに遠出する時には森の中を散策し、所々に点在する清楚な野の花を一つ一つ確かめるように触れながら、葉風の心地よい静けさに耳を澄ませて世界の優しさを体感する。


 そして大地に根を張り、力強く天に伸びる樹木の幹に腰かけ、弟が不器用にも作ってくれた昼食を仲良く頬張ったことも一度や二度ではなかった。


 隣家の老夫婦には自慢の青春話を恥ずかしくも誇らしげに聞かせてくれたこともあったし、近所の子供たちと一緒に言葉遊びをしたことも、父と母の友人から二人の恋愛について意外な秘密を教えられ、つい苦笑したこともある。


 楽しかった。


 幸せだった。


 温かかった。


 嬉しかった。


 そして―――何よりも愛しかった。


 日常を過ごしていく中で彼女が思い描いていった世界地図は、その中心を弟にしてどんどんイメージ化されていったのである。


 弟の導き手があれば、彼女は盲目の暗闇の中で何の躊躇いもなく一歩を踏み出すことができた。


 弟が隣にいるだけで安心したし、弟が手を握ってくれるだけで幸せだったし、弟がこぼす微笑みの声だけで、彼女の人知れぬ哀しみを心から温かく癒してくれる。


 姉は弟を心から愛していたし、弟もまた、姉を心から愛していた。


 恐らく、二人はこの世界の誰よりも互いを愛し合っていたし、抑えようもなく惹かれ合う感情は、ある意味ではまさしく、恋と呼んでも差し支えなかっただろう。


 幼い姉弟は、この時まだ四歳。


 だが、弟がここまで姉に献身的であることには、ある一つの後ろめたい理由があったからだった。


 彼は、姉の病をこう考えた。


 姉が盲目なのは、母の中にいた頃に自分がその目を奪ったからではないか。


 双子として生を受けた自分はその実、姉から奪った目を宿して今も五体満足に生活できているのではないか。


 ならば、本当に目を失う定めにあったのは、他ならぬ自分なのではなかったのか。


 勿論、それを口に出したことは一度もなかったが、しかし強烈に抱いた使命感にも似る一つの決意が、結果として少年の微弱な精神を深奥から鍛え上げ、優しくも姉想いの強い男へと成長させたのかもしれない。


 誰よりも優しい心を共有する姉弟は、しかし誰よりも強く、この世界で互いを必要としていたのである。


 やがて迎える、運命の惨劇の日まで、あと一年。


 ゆえに―――もし、ここに不幸と呼ぶべき哀しみがあるのだとするならば。


 村の誰一人として、その幼い姉弟に課せられた世界を左右する呪いに気づく者はいなかったし、彼女が病臥に伏す理由が病であることを疑う者もいなければ、盲目の原因を知る術さえも当時の医療技術では持ち得なかったということだろう。


 なまじ、すべてが“村”という巨大な“善”の結界で完結するからこその無知に類する不可抗力。


 尤も、それに気づいたからといって改善する方法など、最初からなかった。


 ただ、それを知ることで事前に、この二人に心構えができていたのなら。


 あるいは、二人がまだ知らないからこその幸福にある今のうちに、誰かがそれを実行していたのなら。


 ―――しかし、すべてはもう、遅かった。


 この世にある“もしも”という過去は、ただ現実から逃避するためだけに捏造する夢物語だ。


 非力に嘆こうとも、差し延べられた手が頼りなくても、涙を拭う指先に縋ろうとも、忌まわしく呪われた弟を救うことができるのは、この世界で独りぼっち、彼女しかいないのだから。


 あの優しかった故郷には、もう、戻れない。


 二人は、あんなにも仲良く一緒だったのに。


 あの優しかった姉弟には、もう、戻れない。


 全てを知ってしまった、あの惨劇の日から。


 ―――、結末から言おう。


 二人の愛は、その強さゆえに、途轍もない“悪”を産み落とすこととなる。













「―――救済のない運命を背負う覚悟はあるか?」













 あの日、何の前触れもなく村に現れた人物は、たった一人の若い男だった。




 『セランの森 名もない村』



 高く茂る樹木の群れを、黒々とした闇が覆っていた。


 人も獣も眠る丑三つ時、静まった深い森の胎内には、ごく僅かな虫たちの鳴き声と葉風の音が物哀しげに潜めき合いながら、やがて大気に溶けるように消えていく。


 梢の隙間から見える空には、とてもじゃないが数え切れぬほどの星たちが漆黒の絨毯の上に散りばめられていて、清浄に映えた夜空を幻想的な円環の形に照り輝く月が彩っている。


 樹海と樹上では、まるで異なる時間と空気が流れているようにグレッグには思えた。


 この森に充満する濃密な暗黒に倣い、野生もかくやとする気配の消失。


 息を殺し、己という存在をも脳裏から除外することで、視覚的に姿を晦ますのではなく、生物的感覚から姿を消す技術。


 暗殺者としての必須技量である卓越した隠密性をもって茂みに身を隠すグレッグは、そこから自分たちと同じように闇に沈む村の外観を、現実に顕現された悪夢を見るような眼差しで見渡していく。


 広大に開かれた樹冠の穴から差し込む月光が、壊滅的な破壊の跡を今なお残すその村の恐るべき全貌を露わにしていた。


 どれほどの勢力を誇る台風が直撃すればそのような歪な作りへと変貌するのか、木造の家屋は力付くで絞られた雑巾のように縦に細く捩じ曲がり、見事に引き裂かれた家がその中心を走る亀裂をもって段差を作っているのは、そもそもの土台である地面が地層の断裂を想起させるほどに巨大な裂け目を刻んでいて、まるで未曾有の地殻変動が集中的に発生したかの如く隆起しているからだ。


 小さく開墾された耕地は完全に焼失しており、その凄まじい火災が燃え移ったのか、本来なら火勢に強い耐性を持っているはずの丸太を用いた木造家屋の一区画には、とうに炭化して瓦解している家や、ぐずぐずに溶けて爛れるように原形を殺された家も見受けられた。


 また、想像もできぬ速度で爆散したと思われる家屋の跡地には漆黒の焦げ跡を残したまま無数の木片を散逸させ、その一部は周囲の家屋や大地に深々と突き刺さっている。


 しかし、何よりもグレッグが違和感を覚えたのは、これほどの破壊が堂々と村を闊歩していながら、その周辺の―――今、自分たちがいる茂みも含めて―――健やかな自然が少しも損なわれていないという不可解な事実そのものにあった。


「はぁ…。いったい何をどうやったら、こんな風に物を壊せるんだ?」


 溜息とともに零れ落ちたその呟きに同意せざるを得ないほど、それはあまりにも非現実的すぎる惨害だった。


 しかし、これを人為的と見るには文字通りの圧倒的と言うべき次元違いの暴力による蹂躙であったし、かといって自然現象と考えるには、この尋常ならざる天変地異の爪痕とは比較もできぬ、人工物のみに限定されているという不釣り合いなまでの小規模性である。


「なあ、ヴィクター。俺、何か悪い物でも食ったかな?」


 特に卑屈な口振りには見えなかったが、いかに希代の魔術士イングラムの薫陶を受けた暗殺者グレッグといえども、この惨状を目の当たりにしては底知れぬ恐怖を抱いたようだった。


「ごめん。今日の夕食、口に合わなかった?」


 そんな彼の問いかけに真面目に応えて、同じように茂みに身を隠す隣の少年が顔を振り向かせた。


 グレッグはやんわりと微笑う。


「違う違う、お前の作ってくれた晩食はすごく旨かったさ。俺は豆スープとか、野鳥の丸焼きとかしか作れないからな。お前がいれば、とりあえず食事に不満を感じることはないだろうぜ」


「そう? そう言ってくれるなら嬉しいな。今日のはね、隠し味に香草を使った、鶏肉と山菜の炒め物だったんだ。実はこれ、僕の得意な料理の一つなんだよ」


「へえ、ハーブも料理に使えるのか。俺はてっきり、薬効にしか使えないと思ってたよ」


「勿論、暗殺する時には毒性の強いハーブを混ぜて使うと効果的だね。微調整が楽だからピンポイントで相手を狙えるし、そうじゃなくても兵士たちの食事に混ぜれば、下痢や嘔吐を併発させるだけで大多数を無力化できる」


「いや、暗殺といったらナイフだろ。誰にも知られずに無音かつ確実、闇から闇へと移動して目的を遂げる。これぞ、暗殺者としての腕の見せ所じゃないか。無関係の人間を巻き込むのは俺の流儀じゃないな」


 ヴィクターは少し困ったふうに微笑する。


「まあ、手段や方法は人それぞれかな。僕はこだわりの戦術がないから、視界にあって使える物は何でも使う。これは料理でも同じで、どんな素材も組み合わせ次第で繊細な味を引き立たせてくれるから、この発見が料理の醍醐味なのかもしれないね」


「俺にはさっぱり分からないなぁ。だいたい、どんな料理も食べてしまえば同じじゃないか。…そりゃあ、旨いに越したことはないけどさ。何でも器用にこなそうとするのは、少し欲張りすぎなんじゃないか?」


「料理は、僕の夢なんだ。いつか、みんなに僕の料理を食べてもらいたくて。…だからかな、僕は自分の夢を裏切りたくないと思ってる。その時に出した僕の料理が手抜きだったら、食べてもらった相手には一生、顔向けできないと思うから」


 ヴィクターがそう言うと、グレッグは思わず意地悪そうな笑みを浮かべた。


「とか何とか言ってさ。本当に料理を食べてほしいのは大好きなお姉ちゃんだって素直に言えばいいのに」


「勿論、それもあるよ。そもそも、僕が料理を始めたのは姉さんに食べてもらいたかったからだしね」


 へえ、と呟いて、グレッグは村の方へと軽く顎を動かした。


「じゃあ、アイツらにも自慢の料理を食べさせてやろうか。夜食の一つぐらい、喜んで食べてくれるだろうぜ」


 グレッグが促した視線の先、ちょうど真正面に見える村の中心に設えられた池を隔てた向こう側に、仄かな灯火の明かりを溢す小さな家屋があった。


 どの家屋も全壊している無残な有り様の中で唯一、不自然なほど当時の外観を維持し続けているそれは、今もなお利用する人の気配を横溢した生活感に満たされている。


 まばらに点る明かりが外に漏れているせいか、茂みから何気なく見やったその家は、この穢れた無明の中にあって一層の不吉な佇まいを臭わせた。


 人間も家畜も作物も死に絶え、流れを堰き止められた時間が朽ち果てて塵になるまで凍結した呪われた村。


 ならば、生き残りなどいるはずもないこの不毛の地に徘徊する者は、果たして夜の者か闇の者か、それとも死の者か。


 ―――その、いずれでもないと二人が確信しているのには理由があった。


 数百メートルは離れた闇夜のせいで、さすがに顔色までは判然と確かめることはできなかったが、それでも家の正面玄関を開けて池へと歩き、満足に用を足してから冷える夜風を避けるようにして足早に戻っていく複数の人影の存在は、どう都合よく考えたとしても村の生き残りであるとは思えない。


 無論、それらが人外である気配もなかった。


 まさか“死霊魔術”によって墓から起き上がった“屍鬼グール”が生理行動を取るはずもなく、ましてや自然界最凶幻想種である“咒魂鬼ヴォルクルス”の人型など聞いたこともない以上、彼らは間違いなく人間であり、しかも村とは無関係の集団であることが窺い知れる。


 ゆえに、その正体は山賊であると、二人は茂みから観察した彼らの様子から、そう結論付けたのだった。


 まさしく、ジッと息を潜めて獲物の隙を窺う狩人のような眼で、グレッグは言葉を繋げた。


「さ、どう料理してやろうかな。ここは専門家の意見も聞きたいね」


「まだ彼らが山賊だという証拠はないよ。僕の村を根城にして悪事を繰り返されるのは我慢ならないけど、もし彼らがたまたまここに行き着いた善良な人たちなら、むしろ僕たちが去るべきだと思う」


 グレッグは苦笑する。


「相変わらずのお人好しだな。…けど、お前のそういう所、悪くないぜ」


「なんだかんだ言っても手伝ってくれるグレッグには負けるよ」


「お、言ったな? …じゃあ、その素直な感謝の気持ちを、俺とルナちゃんの仲を取り持つということでチャラにしてやるよ」


「ごめん、それはムリ」


「…え、即答?」


 グレッグは、ちょっぴり哀しくなった。


「だって、僕が取り持つまでもないよ。姉さんはグレッグのことを好意的に見てるし、僕もグレッグになら安心して姉さんを任せられるからね」


 グレッグは、俄然やる気になった。


「よし。ここは未来の兄貴がビシッと決める所を義弟に見せてやるとするか!」


 呵々と笑いながら言い放つグレッグに対し、ヴィクターは笑顔で応える。


「うん。すっごく不安」


「なんで!?」


 ひょっとして俺は信用されてないのでわ、と少し不安になったグレッグであった。









 なかなか寝付けない苛立ちを抑え切れぬ様子で、男は杯になみなみと注がれた酒を一口で流し込んだ。


 静まり返った空気に、男が酒を嚥下する音が異様に響く。


 その家の中には、生活感を匂わせる家具のほとんどが見当たらなかった。


 十畳ほどの広さを持つ空間、仄か明るく照らす蝋燭は窓際に数本ほど飾られており、そこから肌を撫でる涼しげな夜気とともに虫の音が入り込んでくる。


 つい先ほど日付が変わったばかりの深夜にあっても、彼らが寝静まるリビングルームは明るかったが、それには頭である男が身体を横にしなければ部屋の明かりを消してはならないという、絶対の暗黙を忠実に堅持しているがゆえであった。


 もう一度、うんざりした表情ながら男は息を吐き、気怠げに酒を杯に注ぎ足して再び嚥下する。


 古びたリビングの中を改めて見渡すと、目の前には床で転寝する男衆が七人、鼾をかく者もいれば何度も寝返りを打つ者もおり、その暑苦しさときたら、こうして見ているだけでも不思議と室内の気温が上がっていくかのようだ。


 しかし、寝静まる彼らの横に置かれているのは、少しばかり痛んではいるが紛れもなく小剣であった。


 それはろくに油で手入れもされずに小汚い鞘に納められてはいるが、確かに過去に幾度となく通行人を襲っては斬り裂いてきた彼らの得物に相違ない。


 最初の酒を飲んでからすでに二時間半、浴びるように飲み尽くしてきたその量は常人なら急性アルコール中毒でも引き起こしそうなほどであったが、男は泥酔の残滓すら表情に出ぬまま一向に眠れる気配になかった。


 何の気紛れか、窓辺に目を向けると沁み入るように輝く星々と、凍りついたように冷たい輪郭を夜空に投げる青白い月が見て取れる。


 ―――そういえば、初めて人を殺した夜空もこんな満月をしていたな、と男は自らの過去を思い出す。


 男は、その一生を野盗団に身を置いて生きてきた。


 父はウェセックス王国に仕えてきた騎士であり、これまでにも多くの騎士たちの指南役として若い逸材を育成してきた人物だったが、上昇志向に疎く、出世に無縁だったことが逆に災いした。


 野心家だった好敵手から見れば、国王から絶大な信頼を寄せられている父の存在は、誰よりも不快極まるものだったのだろう。


 好敵手の策略によって国の重鎮が死んだ捏造の証拠を検分され、国外追放の汚名を着せられた父はその流浪の旅路の中で病に倒れた母を失い、自らも無念のうちに、当時まだ四歳だった男を残して死んでいった。


 独りで生きていくにはあまりに幼すぎた男はしかし、天涯孤独の身として戦乱の世に放り出され、その空腹と寒さから否が応にも弱肉強食の理を悟り、苛酷な世界を生き抜く術を、自分を拾い上げてくれた山賊から教わることで寝食を得たのである。


 手数が多く、堅牢な守りを見せる集落や村には決して手を出さず、あくまでも無防備な旅人や護衛のいない小規模の商隊だけを奇襲する、他人からすれば非道で怯懦に見えるであろう山賊の略奪行為を繰り返すうちに、男の中の“愛”と呼ばれる感情が人々の悲鳴と恐怖で擦り切れていったのかは分からない。


 ―――健全な精神は、健全な環境によって造られる。


 その人物が潜在的に優れた仁徳を有しているのだとしても、本人を取り巻く環境が病んでいれば、足をつける大地から侵食する毒に汚染されるように当人の精神も病んでいくのは必然である。


 自分が生きるために他人から奪い続ける生活を数十年間、繰り返してきた男は、そうして数え切れないほどの人間を殺し続け、純粋で優しかった幼い日々の思い出さえも殺すことで、もはや拭い切れぬ猜疑心と他者への憎悪に満ちた山賊の頭として自らを完成させた。


 殺すことに躊躇いはなかった。


 そうしなければ飢えるのは自分たちであるのだし、そもそも自分たちを山賊に追いやったのは他ならぬ人間たちであるのだから、その酬いを受けるのは当然であるべきだと彼は考えている。


 同時に、彼は理解する。


 人間とは即ち、他の人間をいかに裏切り、そのすべてを奪うことに知恵を絞ることで自らに幸福をもたらす、賎しい畜生と何ら変わらぬ怪物であることを。


 信頼とは猜疑の予防線。


 贈与とは略奪の前準備。


 親愛とは憎悪の同義語。


 そんな外道どもから物を奪って何が悪いのか。


 むしろ、世界の理を正しく実行しているにすぎない自分たちを彼らが助けてくれたことが、今まで一度でもあっただろうか。


 正しい行為をしてきたはずの父を助けることもしなければ、わずか四歳という年頃で世界に放り出された自分に手を差し延べてくれることもしなかった。


 そんな男を助けてくれたのが、人間たちが卑劣と罵る山賊だというのなら、彼にとってはこの野盗団こそが命の恩人であり、そして正義というつもりはないが、少なくとも間違ったことはしていないと自信を持って断言することができた。


 この世に善良な人間などいない。


 なぜなら、善良な人間は平等に弱者であり、そして弱者は弱者であるがゆえに自分たちの生活を維持するだけで精一杯なのだから、同じ弱者を助ける余裕は彼らにはないからである。


 勿論、それを仕方がない、と彼らは言うだろう。


 ならば、男もまた、こう言うのだ。


 ―――仕方ないだろう、生きるためなのだ、と。


「俺たちに行く場所なんて最初からない、か。…ふん。つくづく、俺たちは世界から嫌われているんだな」


 ここ流離の地に辿り着いた時、一時はここで生活するのも悪くはないと考えていた。


 だが、この村の非現実的な惨状は今もなお大地に根強く傷痕を残し、野生すら寄り付かぬ不毛の地と化して穢れてしまった光の下で育つ作物はなく、木の実を採集するだけでは満足な食事も得られない。


 ―――結局、自分たちはどこまでも、他者から略奪することで生きることを世界から義務付けられたようなものだ。


 人の温もりなどとうに忘れ、鬼火のような月を見上げるたびに、男はこの世の地獄を生きていくことを改めて決意するのであった。


「だが、なぜだ? なぜ俺たちをそこまで疎ましく遠ざける? 俺たちを否定する権利なんざ、お前にはないはずだ。

 …それとも、俺たちにはこの世で生きていく権利すらないって言うのか?」


 窓から見上げる星空は広大な夜に孤立し、漠然と見える過去を湛えてひたすら沈黙している。


 男に対する応えなど、あろうはずもない。


 凍てついた夜も、大量の酒を飲んで熱の込もる体温を下げることはできなかったのか、肌寒い静寂のリビングで男だけが明けぬ蟠りを孕んだ熱気に包まれている。


 心配するのは明日の食料だけだ。


 最初から奪うしか能のないこの掌では、どんな善人の慈愛も男には届かない。


 そして男たちが死ねば、彼らは地獄へ堕ちろと積年の思いを存分に吐き尽くして歓喜するのだろう。


 救い手など、この世に居る筈がない。


 神など、この世に居る筈がないのだ。


 ―――なぜならば。


 本当に助けてほしい弱者は、救い手の下にさえ、足を向けることはできないのだから。


「だが、今に見ていろ。俺は必ず復讐を成し遂げる。理不尽な理由で親を殺された者たちの恨みを、必ず奴らに突き渡してやる…!」


 山賊に身を置く男たちの原動力。


 すべてを奪われ、失った彼らにとって、その悲願こそが“泥水”を啜りながら生き抜いてきたこの昏い穢れに満ちた人生を貫き通す、恐るべき意志の力であるのだった。


 最後の一口を飲み干し、男は立ち上がる。


 急に催してきた小水を取るために池の方へと歩くと、玄関に手をついたところで男に驚いたのか、虫たちの音が唐突に止んだ。


「…ふん。どうやら俺は、虫どもにさえ嫌われているらしい」


 そう自嘲気味に吐き捨てながら、男はごく僅かに微笑う。


 満天の星、雲の一つもない夜空は暗黒に覆われた洞窟からでも、この呪われた村の中から見上げても変わらぬ様子だった。


「まあ、そんなことはどうでもいいか。俺も随分と焼きが回っているようだ」


 徹底された沈黙の夜を歩き、村の中心に設えられた池の前で立ち止まる。


 ―――ふと、わずかな違和感に振り返った。


 辺りは静寂。


 村の陰惨な様相は依然として変わらぬまま、憐憫の情さえ持てない死の包囲をもって外界を拒絶する。


 何者かに見られているような不快感、背中越しに佇む何者かの気配にふと怯えてしまう背筋の悪寒。


「チッ…。疲れてるのか、俺は。…少し飲みすぎたか」


 だがそれは、夜の世界にあっては誰もが体験する杞憂にすぎないことを男は知っている。


 あまりに悪夢じみた破壊の有り様を当時のまま残している村の空気が敏感にさせるのか、そこに在りもしない何者かの存在を不意に嗅ぎ取る行為は、人間が死者の起き上がりを常に恐怖している何よりの証拠である。


 どれほど人を斬ろうとも、こればかりは馴染めない。


 湧き上がる亡者の幻影に振り返る自分にこそ辟易としながら、男はようやく一息ついて用を足そうとする。


「ふう…。…俺は生き抜いてやるぞ。新時代などと夢を謳い、そのために虐げられた一方的な犠牲を無視する奴らに天罰を下す、その日までな」


 最後の言葉を言い終えて下半身を露わにするのとほぼ同時に、忍び寄る冷たい刃先が男の首筋に宛がわれた。


「そのために罪のない人たちを犠牲にするのは本末転倒です。…たとえ貴方がたの境遇に仮借の余地があっても、貴方がたがそれを放棄して人を殺し続ければ、僕は貴方がたを殺すしかない」


 化石したが如く強張る表情に緊張感を跳ね上げ、男は振り返ることもできぬまま、背後の驚くほど子供じみた声の持ち主に問いかける。


「…お前は何者だ?」


 しかし、背後の人間は応える気がないようだった。


「ここは僕の村です。…貴方がたの過去がどうであれ、思い出の土地を血塗られた行為の根城にされるのは許せません。…剣を捨て、大人しく投降してください。そして罪を償い、過去を反省してください」


 鋭利な刃の凍気が触れて、首筋に全神経が集中する。


 刺される方が痛いのか、斬り裂かれる方が痛いのか、文字通りに薄皮一枚を挟んで押し当てられた凶器は、男の脳裏に今まで殺してきた人間たちの死の間際に見やった何とも言えぬ表情を駆け巡らせた。


 だが、男はまるで他人事のように刃先を見つめながら、思わず苦笑して見せる。


「こういう時、物語の主人公なら誰かが助けにきてくれるんだろうな。不自然なほど都合の良い奇跡とやらを起こして、逆転の切り札に勝負を賭けるんだろう。最後まで希望を捨てないそいつのために、神様とやらが救済の手を差し延べるのかもしれない」


 咎めるような口調のまま、男は続けた。


「だが、俺たちには最初から救済なんてなかった。何もしていないはずの俺たちに、世界は見て見ぬふりをして悪人どもを放置してきたんだ。

 善人が俺たちのために一度でも助けにきてくれたのか? 山賊たちの方が人情に溢れていて優しかったのはなぜだ? …そうさ、俺たちに神はいない。救い手もいない。なぜなら、俺たちは人殺しだからだ」


 背中越しに、背後の人間が息を呑むのが男には分かった。


「俺たちだけが悪なのか? 山賊は誰が見ても悪者で、国の中枢にいながら堂々と国民に嘘をつく人間たちを喜ばせれば善人なのか? 俺たちが殺されれば大団円だとでも? 地獄に堕ちろと罵り、犠牲になった人間たちの冥福を祈りながら、俺たちの死体を見世物にでもするつもりか?」


「バカな…! そんなことは誰もしません。貴方がたが死んでも、その遺体は丁重に埋葬するのが王国の掟です。

 …貴方は国に絶望しすぎている。もう一度、人間を信じてください…! そして、今度こそ新しい人生を踏み出すべきです…!」


「…飢えて死にたくなかったことが罪なのか?」


「…え、…?」


「俺たちだって人間だ。食べる物と寝る場所がなければ生きていけない。お前たちだって、無数の動植物を食べて生きてるんだろう。その相手が人間だったからといって、それを絶対悪だと罵倒するのは人間たちが勝手に決め付けたヘリクツじゃないか」


 幽かな違和感を感じたのか、男に刃を突き付ける人間は応えようとはしない。


「自分たちが狙われないようにするために、法律という強迫観念で全面的に防御壁を張る。動植物は良くて人間はダメなのか? お前たちは良くて俺たちはダメなのか? …だったら、その“生殺与奪”はいったい誰が決めたんだ?」


「…少なくとも、それは貴方がたが決めることじゃない。それに、僕たちは必要以上に相手を殺さない…! 貴方がたのように、罪のない人々を何の意味もなく手にかけるようなことも絶対にしない…!」


「人間の命を奪う行為と、花を摘む行為にどんな違いがあると言うんだ? それに、俺たちだって必要以上に相手を襲うことはしない。今日一日分の食料が手に入れば、それだけで大収穫なんだ。…それに、今さら後戻りなどできるはずもない」


「誰にだって、生まれ変わるチャンスはあります。…人殺しだからこそ、僕たちは罪と罰をきちんと受け止めなければならない義務があるんです。…それが“人を殺す”という覚悟の代償なんですよ…!」


「…お前も、人殺しなのか?」


 背後の人物は応えない。


 だが、その声質から、少なく見積もっても十代半ばにある男だろうと推測することができた。


「返答はないか。…尤も、そうでなければ躊躇いもなく首に刃に突き付けて平然としていられる人種は、他にはいないだろうがな」


「…僕は、貴方とは違う」


「違わないさ。俺とお前は同じ人殺しだ。たとえお前が誰かの為にしていることなのだとしても、やっていることは俺と同じ人殺しにすぎない。…ああ、だからこそ俺には分かる。お前の末路は殺人鬼だ。そして、俺たちは互いを理解しているからこそ、互いのことが許せない哀れな咎人なんだ…ッ!」


 最後の一音と同時に向き直った男の剥き出しの下半身からの小水を、背後にいた少年は驚愕に目を見開きながら飛び退くことで躱してのける。


「くッ、貴方は―――ッ!?」


 そして、男もまた瞠目した様子だった。


 目の前にいる人間が、あろうことか本当に自分よりも遥かに年下に見える少年であることを確認し、腰の鞘から剣を抜き放ちながら不敵に微笑む。


「悪党には悪党なりの打開策があるというものだ。尤も、キレイに生きようとするお前には分からんだろうがな」


 言って、下半身を収めた男は目を細めた。


「ふん、本当に小僧だったとはな。…名前くらいは聞いておこうか。これから死合う者同士、地獄に送る相手の名前ぐらいは覚えてやろうというのが人情だろう?」


 相手の真意を計りかねている様子の少年は、男の動きを注意深く見つめながら口を開いた。


「…ヴィクター」


「ヴィクターか、良い名前だ。お前を生んだ両親も、これほど健康に育った姿を見てさぞかし歓喜しているんだろうな」


 多分に含みを持たせて笑う男に、ヴィクターは苦々しく唇を噛み締める。


「まあ、俺の名前はどうでもいいな。最初から教えるつもりはないし、教えたところで結末は変わらん。お前は子供だから幻想に夢を見ていられる。

 …言っていたな、ここはお前の故郷だと。ならば、そういう人種になった過程の悲劇は言われなくても多少の想像がつくというものだ」


 そう言ってから、男は惨劇の村を見渡した。


「…なるほど、お前は確かに被害者なのだろう。そして、そのために世界を生き抜く方法が、そうした選択しかなかったとしても俺はお前を責めたりはしない」


 だがそれだけだ、と男は続けた。


「俺たちは互いを共感できても、受け入れることはできない。一歩間違えれば俺たちの運命は逆転していたのかもしれないが、それは永遠にこない“もしも”の話だ。お前はもう一人の俺の姿であり、そして俺はもう一人のお前の姿だ。…それが分かってしまった以上、俺たちは互いを否定するしか自分の存在価値を見出せない」


「僕は…ッ! 貴方とは違う…ッ!」


「どこが違うッ!」


 唐突に、男が踏み込んで剣を振り下ろす。


 剣聖やアセルスの踏み込みとは比較にもならぬ、あまりにも遅い速度から繰り出された一撃をヴィクターは容易く防いで見せたが、しかし男の言葉に気圧された心が反撃を躊躇っている様子だった。


「クッ―――!」


「自分の怪物と向き合えッ! 俺たちが神に愛されることはない! 世界にも、人々からも愛されない忌むべき存在だ!」


 矢継ぎ早に繰り出す男の連剣。


 それらを全て防ぎ、反撃の隙を幾度も見つけていながらも、ヴィクターは今一歩、踏み込めない。


「俺たちは所詮、日陰者さ! 目映い光の下では生きられない! 白昼の下に晒されれば人々から断罪され、見せしめのために簡単に切り捨てられる“使い捨て”だ! 利用するだけ利用して、用が済めば俺たちから何もかもを奪っていく! …俺の親父のようになァ!」


「貴方の…、お父さん…!?」


「そうだ! 親父に罪はなかった! だが、親父の存在を疎ましく思っていた人間が親父の罪を捏造し、国から追い出したんだ! 母は病で死んだ! 後を追うように親父も病に倒れた! …その時、国も家族も失った四歳の子供に、いったい何ができると言うんだ!」


 鍔ぜり合いの拮抗に、二人が肉薄する。


「元凶はいつだって一方的にやってくる! 幸福を理不尽に奪われた人間が復讐を遂げようとするのは当たり前の心理だ! それを否定すると言うのなら、、まずはお前たちが家族を殺されてから言って見せろ!」


 日常セカイが壊された絶望。


 理由さえ知らされぬまま野に置き去りにされた人間ケダモノ


 目に見えるすべての現実モノに正しい善悪かちを見出だせないというのなら、目に見えるすべての孤独しかばねにこそ等しく架空ココロを問いかける。


「それでも…! ヒトとしての誇りを守っていくことはでき―――!?」


 背中まで貫こうとするほどの胸の痛み。


 ヴィクターの横隔膜に男の拳が飛び込んだ。


「が、ふ―――ッ!」


 惨劇の中心で二人、よろめく少年に男が追撃する。


「誇りでは空腹を満たすことはできないんだよッ! お前はそんなにも大義名分が欲しいのか!」


 左からの回し蹴り。


「くっ―――!」


 しかし、ヴィクターはそれを難なく躱し、充分に間合いをとってナイフを構える。


 剣術の扱いこそ低い水準にある男は、どうやら格闘術にこそ長けているらしかった。


「違う! 僕は、僕を必要としてくれる大切な人の期待に応えたいだけだ!」


「人殺しという行為に、自分の存在が“合法的”で在りたいと夢を見るのか! そんな幻想モノ、この世のどこにも在りはしないんだよッ!」


 迫りくる剣と拳の猛攻。


 だがそれは、あのサイクロプスと比べれば何と他愛のない子供だましか。


「だからと言って、無関係の人から物を奪うことは許されない! 彼らの生活を壊すことは許されないッ!」


「他人の為に人を殺すお前が言えた台詞コトかッ!」


 二人は追撃の剣と防御のナイフを絡み合わせて、再び鬩ぎ合う。


「都合の悪い真実から目を背けるなッ! “知ろうとしない”ことはそれだけで罪だ! 真っ当な人間なら人を殺す前に自殺する! それをしない俺たちは異常者そのものだ! 我が身が可愛いから自分を殺すことができず、他人を消すことで自分を納得させる臆病者だ! それを否定するお前は、自分を否定していることと同じなんだよッ!」


「僕は、護りたい人を守るために戦っている! 貴方とは違う!」


「過程が違っていても、結果が同じなら俺とお前は同類だ! 毎日のように食べ続ける肉や魚のために、一度でも感謝を込めて祈りを捧げたことがあったか! 俺たちは毎日しているさ! 一日を生きるために食材を襲い、その血と肉に感謝して貪ることで生きてきた人生だ! お前は人を殺して生きる! 俺は人を食べて生きる! 過程は違えど、どちらも同じ人殺しには違いないッ!」


 その瞬間、ヴィクターにかつてない戦慄が走った。


「貴方は…!? 人を食べたのか!?」


「家畜も人間も同じ生命だ! 牛や豚を解体してステーキにするのと、人間を解体してカルビにするのとどこが違う!」


「バカな!? 貴方は狂ってる!」


「狂っているのは社会の方だ! 世界は常に弱肉強食を謳っている! ならば、世界に反して自分勝手な“ルール”を作る人間たちが間違っているのは当然だろう! 俺を否定するということは、この世すべての生命が生まれつき不平等だと言っているのと同じ事! ならばこの世に神はいない! 救い手など居る筈がない! なぜならそれは、支配者を気取るお前たちが自分を守るために作り出した偉大な幻想だからだ!」


「違う! 貴方は間違っている!」


「いいかげんお前の戯れ事は聞き飽きた! 偽善を振りかざし、真実を受け入れない限り、俺たち山賊はいつの時代でも、名を変え姿を変えてお前たちの前に現れる! 俺たちは社会に対する反対命題アンチテーゼだ! それをこそ違うというなら、お前たちが押し付けたこの世の地獄に生きる俺たち全員を救って見せろ!」


 鋭い前蹴りが腹部に突き刺さり、ヴィクターはよろめく。


「グ―――ッ!」


 顔を上げた瞬間、男の飛び蹴りが顔面を貫いた。


 助走から体重を乗せた強烈な威力。


 爆ぜる視界。


 頭骨内で乱舞する脳。


 前庭神経の一時的な混乱による平衡感覚の崩壊。


 男は完全に無防備となったヴィクターの背後へ回り込むと、本来なら生け捕り用に使用する縄を少年の首に回し、そのまま全力で締め上げる。


「ガ―――ッ、ハ…!」


 首と縄との間に隙間を作ろうと両手を引っ掛け、ヴィクターは必死に抵抗する。


 しかし男の力は弛まない。


 左右に引かれていく縄はヴィクターの首をこそ引き千切らんと、更に強くぎちぎちと締め付ける。


 気道が細り、海老反りに夜空を仰ぐヴィクターの耳元で、男が厳かに言い放った。


「できはしまい! なぜなら俺たちは人殺しだからだ! 奪うことしかできない人種が人を救おうなどと思い上がりも甚だしい! 護るためにその手を血で穢し続けてきたお前が、いったい何を守る!? いったい誰を守るというんだ!? 

 …守れはしない! お前の朱い手では、誰一人として守れはしない! それがなぜ分からん!」


 頸動脈、頸静脈の圧迫。


 知識のない人間でも容易く人間を殺すことができる、原始的でありながら最も手早く確実な方法。


 だが、それでも閉塞できずに巡り続ける椎骨内の動脈が、ヴィクターの顔を徐々に朱に染めていく。


「それ、でも…! 護りたい人が、いるから…!」


「ならば言ってやる! お前は、その護りたい人間にこそ裏切られるとな! 奴らはお前の利用価値がなくなれば、すぐに掌を返して全力で潰しにくるぞ! 俺の親父と同じように、お前は尽くしてきた人間に絶望しながら死んでいくんだ!」


 ヴィクターの瞳が朱くなる。


 皮膚の薄い目蓋の裏側、その圧迫に耐えきれない毛細血管が破裂し始め、顔が鬱血していく。


 音もなく近づいてくる死が、すぐそこまで来ていた。


「見ろ! あの黒く冷たい空の彼方を!」


 無理やり引っ張られたヴィクターの視線が、もはやぼんやりとしか見えない空に固定される。


「俺たちは世界から見放された存在孤児だ! 誰からも認められず、何もない場所に放り出された俺たちは、他人から奪うことでしか生きられなかった! 狂わせたのは世界だ! あの優しかった思い出は懐かしむだけにしておけ! 俺たちには、もう二度と温かい家庭なんざ手に入らないんだからな!」


 遠ざかる意識に、少年は唇を噛み締める。


 朦朧とする痛みの中、泥濘るむ視界の奥に霞む月が、愛する姉の哀しむ顔と重なったような気がした。


「…、誰も、戻りたいとは、言ってない…!」


「…、なに…?」


 もう、とうに意識が断ち切れてもおかしくないはずの時間を縛り上げている。


 だが、この少年の常人ではありえぬ強い抵抗力に瞠目し、男は思わず聞き返していた。


 しかし応えはない。


「おおおおあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!」


 少年が渾身の力を振り絞って吼える。


 両手で掴む縄を、そのまま単純に、自らの膂力だけで引き裂いていく。


「バカな―――!?」


 絶対の捕縛を目的とし、だからこそ容易には裂けぬはずの強靭性を備えている道具が、自分より十数年以上も年下の少年によって鈍い音を立てながら、しかし確かに引き千切られていくのを男は見た。


 そして理解する。


 血塗れになった少年のボロボロの爪、それは縄を必死に引っ掻くことで“切れ目”を刻んだ跡なのだということを。


 …、しかしそんなことが…、そんなことがこの咄嗟の状況下で迷いなく実行してのけられるものなのか。


「なッ―――!?」


 何者だ、と呟く前に、男は後方に大きく吹き飛ばされてもんどりを打つ。


 その一撃だけで、男の膝が笑い始めていた。


 男の腹部に強烈な蹴りを入れたヴィクターはすでに死の顎から解放され、ようやく肺に酸素を取り入れるべく、息を乱しながら緩やかに立ち上がる。


「現実に負けることが、終わりじゃない…! 現実に諦めることが、終わりなんだ…! 貴方は、他人を憎悪するあまり、自分を見ていない…! 貴方は、他の誰よりも早く、貴方自身を助けることができたはずだ!」


 地面に吐血して息をつく男は対抗心を剥き出しに呼吸を荒げたまま、ほとんど気合いだけで立ち上がって見せた。


「何もかもを失った人間が最後に守ることができるのは、自分の命だけだ…! お前のように“他人”を持ち出して人殺しの免罪符にはしない…! 卑怯者のお前は、そうやって本当に断罪するべき人間を見誤るんだ!」


 息遣いの荒い二人が、五メートルの距離を置いて再び対峙する。


「人間には、生命よりも大切な“こころ”がある! それをさえ忘れてしまえば、僕たちはいったい何を受け継いでいくというんだ!」


「そんな物あるものかッ! 人は皆、自分の生命よくぼうの為に生きていくだけだ!」


「それだけが、人の全てじゃない!」


「だからお前は“餓鬼”なんだよ! 自分の存在を正当化する理由がなければ生きていけないくせに! すぐに壊れる仮初めの信念を必死に守ろうとするお前は、その心にこそ縛られた人間の出来損ないだ! そういう奴をなんて呼ぶか、お前は知ってるか!?」


 吐き気を催すその言葉の一つ一つが、否定することしかできない少年の心を深く抉っていく。


「止めろ…!」


「そういう奴をなァ―――」


 無理やり強くなるために力づくで閉じ込めてきたツギハギの信念を、容赦のない男が土足で暴いていく。


「止めろぉぉぉッッ!」


 ヴィクターが駆ける。


「―――“盲目的にんぎょう”って言うんだよォッ!」


 男が迎え討つ。


 だが、暗殺者として完成されたヴィクターの弾けるような接近に、男の動体視力では残像さえ映らなかった。


 両者の距離は五メートル。


 それを、わずか一秒という時間の中で男の間合いに飛び込み、得物である剣を握る右手首を切断して再び間合いを取る、思わず見惚れるほど鮮やかな一閃。


「ぐぅぅあァッ―――!?」


 男の右手、神経を駆け巡って脳髄に雪崩れ込む激痛。


 粘るような残響を立てて地面に落ちた剣が、その切断面から溢れる鮮血に濡れて朱を纏う。


 …、不気味なまでに沈黙する、二人。


 ただの体力の消耗だけではない傷によって息を乱す少年と、圧倒的な実力の差をまざまざと見せ付けられた男の消沈する息遣いが、幽かなハーモニーを奏でる。


 やがて、男の口から渇いた笑みが零れた。


「やはり、な…。俺たちに悪を押し付けるお前たち偽善者は結局、俺たちを殺すことでしか自分を正当化できない。…俺たちを平気な顔して谷底に突き落としていながら救おうともせず、犠牲を積み重ねてようやく這い上がってきてみれば全力で他人のフリだ。

 …くくく。お前たちは、本当にどこまでも救われない卑劣な生き物だよ…」


 そう言って、男は左手で剣を拾う。


「バカな…!? 降ふ―――」


「―――だが、タダでは死なん!」


 男はそのまま自分の剣を、自分の腹部に突き刺した。


「何を―――!?」


 困惑し、目を見開くヴィクターを、男は狂気に憑かれた瞳で直視する。


「ヴィクターと言ったな! お前の信じる心というヤツがどれほど簡単に人を裏切るか、その目でしっかりと焼き付けるがいい! その時、お前が人間に絶望しながら堕落していく様を地獄の底から見届けてやるぞ! お前が正しいか、俺が正しいか、厭でも痛感する現実にたっぷりと溺れながら理想と死ね! 世界は、最初から最後まで俺たちに救済の手を差し伸べることはしないのだとなァ!」


 ごふっ、と致命的な量の血を吐血しながらも嗤う男は、そうしてヴィクターに最期の呪いを残して絶命した。


 青褪めた顔、男を見つめる少年の眸は雑念のたゆたう闇色から純粋無比の病色へ、そこに壮大な渦を描く螺旋の腕が、事象の中心に穿孔する幻想の境界面で踊るように終焉を謳っている。


 ―――しかし、それは刹那に浮かび上がっては消えた、泡沫の投影にすぎない。


「…、僕はただ、姉さんを守りたい、だけだ…!」


 男の屍を前に立ち尽くすヴィクターは、奇妙な威圧感と戦いながらも力任せに掻き乱された心を落ち着かせ、無意識のうちに呟いた遁辞に苦悩する。


 それをこそ罪だと切り捨てた男。


 それをこそ罰だと受け入れた少年。


 大地に撒かれた男の血は月の光に触れて翳りを帯び、ヴィクターは慈悲も冒涜もなく目の前の死を凝視する。


「…グレッグ…。グレッグは、無事なのか…?」


 何気なく振り向いた視線の先、明かりの消えた家には、濃厚な闇が巣を張っていた。







 最後の一人もまた、くぐもる悲鳴に瞳孔を開かせたまま息絶えた。


 嗚咽を噛み殺すような、そうと知れなければ聞き取ることもできぬほど、ごくごく幽かな“虫の息”―――。


 それは天から伸びる蜘蛛の糸が細く解かれるように急速に弱まり、やがて空気でさえも凍結しそうな冷たい静寂に倣って沈黙する。


 光の絶えた暗赤色の処刑場。


 いつの間にか消えた蝋燭の光に代わって差し込む滑らかな月明かりが、ゾッとするほど薄暗い部屋にぽつりと佇む一人の輪郭を浮かび上がらせる。


「―――悪く思うなよ。これも因果応報ってヤツだ」


 不意に飛び込んでくるのは刃物のような音を奏でる風ばかり。


 罪の色をした黒い人影はそうした風を避けるように深く面伏せていて、前のめりに腰を折る彼の前には、これもまた黒く長い人型の影が床に投げかけられている。


 グレッグは喉に深々と沈み込ませたナイフを抜き、口を塞ぐ左手を離してから、べったりと刀身に付着した血糊を振り払う。


 巌のように硬く凍る床、しかしそこにムッとするような熱気を錯覚してしまうのは、音もなく彼が屠った七つの亡骸が今もなお、喉元から断続的に真新しい鮮血を垂れ流しているからだ。


 人の気配は、もう、とうにない。


 背後から光を受けているせいか、その表情を容易には読み取らせぬ陰りを顔に張り付かせたまま徐に立ち上がるグレッグは、もう一度だけ部屋の中を見回して生存者の有無を確認すると、忍び込む前に吹き消した蝋燭に再び火を灯す。


 幽かな陰影をつける頼りない炎を風に揺らめかせ、空疎な家の内部に凝り固まる闇を蝋燭の光が開いていく。


「…全滅、確認。…速やかに殺してやったんだ、起き上がらずにさっさと成仏しろよ。…でないと、万が一にも“咒魂鬼”に目をつけられたら、死ぬに死ねない煉獄に囚われちまうからな」


 山賊は、もはや人との接点を持たぬ死に孤立している。


 誰もが例外なく喉を切られ、脇にある小剣は鞘から抜かれることなく横たわり、あたかも墓標のように持ち主の傍に留まったままだ。


 彼らの素性など知る由もないが、知ったところで彼らの死に対する感情など何も湧くことはない。


「…そう、俺たちの世界は覚悟の世界だ。殺す殺されるという関係に身を置く俺たちは、いつだって死を覚悟しなきゃならない。…それができない奴は、二度と俺たちの世界に戻ってくるな。せめて何もかもを忘れた来世で、今度は真面目に生きろよな」


 わずかに眉を寄せて、今度は入口の方角へ目をやった。


 外はやはり相も変わらず村を押し包む闇、その向こうには、少しばかり拓けた村の中央部へと繋がっている。


「ヴィクターも上手くやったかな。…ま、あいつのことだから、見当違いの優しさを見せて追い詰められてなきゃいいけど」


 闇の奥で男と対峙しているはずの親友の姿を殊更のように透かし見ようとするのは、その万が一を笑い飛ばせない自分を安心させたかったからなのかもしれない。


 もし仮に、この村にいる山賊の討伐が暗殺者としての任務であったのなら、ヴィクターの能力を持ってすれば三分も必要とせずに全滅させることができるだろう。


 この数を相手にただ殺すだけなら一分もいらず、捕縛を目的とするなら二分もあれば、ヴィクターのみならずグレッグも容易に山賊たちを無力化させることができた。


 しかし今回、ヴィクターは任務としてではなく、あくまでも個人として山賊との対面を決意し、あろうことかその頭目に投降を促そうと後を追いかけたのである。


 この差異が意味するものは詰まる所、任務と無関係の殺しには干渉しない、という二人の信念に裏打ちされた行動の格差であることを雄弁に物語っていた。


 直属の上司たるイングラムの勅命が下ったなら、たとえ相手が善人であれ任務を遂行し、体得した用心深い隠密性を遺憾なく発揮することでその痕跡を残さない。


 暗殺者の特徴とも言える独特の装備―――全身を包み込む黒装束と、双眸だけを開かせて頭部に巻き付ける漆黒の布帯、そして光に反射しないよう、柄と刀身までもを黒に塗り染められたナイフと手甲を武器として、二人を含めた暗殺者らは任務の障害となる対象をすべて殺し尽くすのだ。


 ゆえに暗殺者とは即ち、他人の死を前提にして自分の生を維持させる罪深い存在に他ならない。


 …、しかし当然ながら、こうした暗殺者のすべてが殺人に愉悦しているわけではなかった。


 そもそも任務以外の行動で多くの人間を殺すということは、それはもう暗殺者として殺人を背負っているのではなく、個人の歪んだ価値観から殺人を容認している反社会的な殺戮者でしかない。


 確かに、二人は養成所を経て殺人者となったが、だからと言って当たり前のように殺人を肯定するほど、人間の生命を軽視することはない。


 むしろ、常に生死を左右する殺伐とした環境に身を置くことで、より生命の尊さを学び、たとえ相手が悪であろうとも殺人という行為で簡単に断罪することは間違っていると考えている。


 幼少時に孤児となって放浪していた過去、暗殺者として数多くの人間を殺し、そして自分も殺されるという立場にあるからこそ分かる、今を“生きている”という実感の素晴らしさ。


 ならば、生命とは簡単に奪ってよいはずがなく、罪を犯したのなら誰もが裁断の場をもって、正しい罰を受け入れるべきであるのだと。


 元々、そのために罪と罰を規定する法があり、そのために国家という枠組みの中で纏めているのではなかったか。


「…だが、それでもこいつらには、生かしてはおけない理由があった」


 そう小さく呟いたグレッグは向き直り、奥の壁面で長方形に細く仕切る隠し扉に手を引っ掛け、そのまま左にずらした。


 目を凝らしても判別がつかぬほど巧妙に隠されているその隠し扉の先、数々の修羅場を潜り抜けてきたグレッグでさえも最初は顔色を失いながら手で鼻を被うほどの瘴気を溢す、陰惨な惨殺空間が彼の目に飛び込んできた。


 ―――中は暗い。


 外部から完全に密閉された四畳ほどの狭い空間、勝手口に立つグレッグの背から流れ込む蝋燭の幽かな明かりだけが、意図的に閉ざされたこの部屋の様相を露わにする。


 恐らく、この部屋の本来の利用目的は食糧の保存だったのだろう、奥に置かれている木造の四段棚には、どれもよく似た形をしている壺が並んであるのがうっすらと見えた。


 長らく空けていたせいか四方の壁は少し朽ちていて、手入れなどするはずのない山賊たちは、グレッグの足元から続く床に充満する埃をたっぷりと踏み荒らした、夥しい足跡を残している。


 …だが、この足跡は、ある位置から完全に途絶えていた。


「…お前たちは越えちゃいけない一線を踏み越えた。生きるための一度きりではなく、何度も何度も人を殺して血肉を食ってきたお前たちは、とっくに人間をやめて“鬼”になっちまってたんだよ…、バカ野郎…!」


 天井から逆さ吊りにされている四つの人影、それは紛れもなく、死体だった。


 血を汲むための桶から、わずか十センチばかり上にある頭部のない首を地面に向け、肉の剥がれた白骨の両腕が投げ出されている。


 一糸まとわぬ姿でこちらを向いていたが、それはとうに人が思い描く胸部ではなかった。


 鎖骨から下腹部にかけて大きく無造作に切り開かれた胴体部には肋骨や筋肉もなければ、肺や心臓、胃や腸といったあらゆる臓器がすっぽりと抜け落ちていて、表面の皮の輪郭だけが申し訳程度にヒトガタを維持している。


 ―――、女、だった。


 その恥部から天井に伸びる骨の浮き出た両腿、唯一にして無傷な膝頭を辿ったのも束の間、細い脛の大部分の肉もやはり削がれており、さらに上方の両足首は一つに纏めるようにして縄が巻かれている。


 どうやら足先は逃亡を防ぐために潰されているらしく、その形状は指先を失って丸かった。


 …だが、暗闇に慣れた目を凝らして奥を見据えたなら分かるだろう。


 四段の棚に並べられた、闇に紛れて壷のような形に見えていた、肉質を失ったヒトの頭部だったモノを。


 ―――ゴトン。


 誰も触れていない首が、ひとりでに落ちる。


 目を失った眼窩と傷だらけの鼻、そして歯の抜けた口から零れるのは、どろりと流れる赤黒い―――ニィィ…。


 危険だ! と全力で駆け巡る本能の警告を忠実に受け取り、その光景を無防備にも直視していたグレッグは慌てて扉を閉めた。


 極限まで低い霊圧、歪んだ怨念が小さな密室を結界として悪夢を閉ざし、異常な村の中でなお現実を咀嚼する異状を作り上げている。


 あのまま首を直視していたなら、今頃は間違いなく怨念に憑かれ、生きながらにして亡者となっていたに違いない。


 もはやここは単なる隠し部屋ではなくなっていたが、とはいえ“咒魂鬼”までには程遠い、異端の祠のような肌寒い存在感を封緘しているだけのようだった。


 …、しかし、目にしただけでも込み上げてくる、吐き気。


 喉の奥に迫り上がってくるモノを、グレッグは歯を食いしばって飲み干した。


「…俺は、どんな罪にでも情状酌量の余地があるとは思わない。…もし、俺が彼女らと同じ被害を受けて奇跡的に助けられたなら、きっと皆殺しにしても飽き足りないだろうから」


 不遇な境遇から山賊に身を落とした男たちと、不幸な出合い頭から理不尽に食べられた女たち。


 社会の人柱となって捨てられた彼らは確かに運命に虐げられてきたのかもしれないが、だからといってそれが、この非道な屠殺場の言い訳になっていいはずがない。


 もし、この四人のうち、誰かが友人だったなら。


 もし、この四人のうち、誰かが仲間だったなら。


 もし、この四人のうち、誰かが母親だったなら。


 もし、この四人のうち、誰かがルナだったなら。


「…そう、これは生命の問題じゃない。感情の問題だ。お前らには何の感慨も浮かばないがな、さすがにこれは胸にくるものがある。…だからこれは制裁でも何でもない。彼女らに対する、俺なりの自己満足な哀悼表現だ」


 人間には、他の生命に対して様々な反応を示す“心”がある。


 それは確然としたカタチこそないものだが、誰であれ感情は“病”むこともあれば“痛”むこともしばしばだ。


 そしてそれは本人の成長過程における、内側からではなく外部からの環境刺激によって形成されていくものである。


 何も見えない、何も触れられない、何も聞こえない世界では働こうにも働けない“心”のメカニズムは、まさに人の数ほど存在する多様にして複雑な迷宮に近い。


 一つの問いに対して十の答えを導き出すことができる者、一つの答えを多角的な視点から観察することでさらに十の問いを発見することができる者。


 それが、偉大にして傲慢たる“知恵”という名の呪いを遺伝し続ける、人類の原罪であるのかもしれなかった。


「ああ、そうだ。俺たちは殺人者だ。…だからこそ、俺たちにしかできない怨みの晴らし方というものがある」


 ゆえに、グレッグはすでに覚悟している。


 山賊に対する自分の行動に多くの賛否があろうとも、人間にはどうしても“必要悪”がいるのだとする、確信ある自らのエゴを貫き通す血塗られた人生を歩み抜くことを。


「感情と法律は本質的に違うもんだ。…俺は、俺を裏切りたくない。これだけは誰にも譲れない」


 ―――そして、だからこそ彼は今もなお苦悩する。


 本当にそれで正しいのか。


 自分の決断に嘘や偽りがないと正しく言い切れるのか。


 お前はただ、人を殺すために被害者を免罪符に持ち出しただけしゃないのか。


 …、あまりに多くの人間を殺し続けると、自分の価値観が不意に分からなくなることがある。


 それが完全に崩壊した時、自分もまた、あの山賊と同じように人間をやめて“鬼”と化してしまうのだろうか。


 キャメロット城に近づくにつれて、彼の運命の決断も無情に迫る。


 ―――さあ、次はお前の番だ。


 国のために親友を裏切るのか。


 親友のために国を裏切るのか。


“善悪にはまるで無頓着な運命が嗤っている”


 だが、強要しないのが、運命が残酷たる所以でもあるのだ。


 選ぶのは、あくまでも本人の意志に委ねられている。


 悩む時間はない。


 しかし、考える猶予は、まだある。


 最善の選択。


 顔で笑い、心で泣く慟哭。


 国のためには仲間をも犠牲にする、この世で最も偽善的な卑しい人種。


 暗殺者は国のために、善悪に関係なく託された任務を完璧に遂行しなければならない。


 しかしそれは皮肉にも、今を“生きている”ということの素晴らしさを知っている自分が、同時に冷酷な死をもたらす黒い招き手であるという矛盾を生み出す元凶そのものにもなっている。


 ならば彼はとうに、“生命”を語る資格など持ち得ていないのかもしれない。


「…俺は救うぞ。あの二人を、必ず救ってみせる」


 そのためには、ブリテン最高との呼び声高い王宮魔術士長イングラムの目を欺く詐術に加えて、ジュリア王女の協力も必要になる。


 だが、いくらヴィクターに好意を持っているとはいえ、彼女が素直に手伝ってくれるとはどう都合よく考えたとしても難しく思えた。


 すでに敵国の王女に戻ってしまった彼女の責任ある立場からすれば、むしろその敵対国から派遣された暗殺者の言葉を鵜呑みにするわけがなく、そもそも彼女に会えるかどうかすら分からない。


 しかし、賽はすでに投げられている。


 ならばグレッグは、あの時の王女の言葉をこそ信じたいと思っていた。


“―――さようなら”


 あの時のジュリアの目は、ひどく哀しそうで。


“―――せっかく王都で人質を用意してあげていたのに、貴方たちが裏切ったせいで無駄になったわ”


 あの時のジュリアの唇は、ひどく震えていた。


 二人にしか分からない、秘密通信。


 ジュリアがどういった経緯でルナを連れ去ったのかは不明だが、それでもグレッグは、この言葉の意味を理解した瞬間から彼女を信じると決めた。


「―――ッグ…?」


 そうでなければ、あの時に不自然にも都合よく巨漢の騎士の剣を止め、ルナの所在を暗々裏に教えるような言葉を残すはずがない。


 それは少なくとも、ルナに対するジュリアの友情だけは本物だったと信じることができた。


「―――レッグ…!」


 だが問題は、協力してくれるか否かにある。


 ヴィクターをルナの確保に向かわせ、自分は王女の説得に当たればいいのだろうが、聖騎士スレインの率いる騎士団の戦況と城内の状況によって、それは刻一刻と悪化する危うい均衡の上にあるものだ。


 ゆえに、これはグレッグの人生を賭けた一世一代の大博打。

 こんな畜生の命一つで二人の命が助かるというのなら、代価として遠慮なく運命とやらに受け取ってほしかった。


 ―――だが、侮るなかれ。


「グレッグ!」


 不意に背後から呼びかけられた親友の声に瞠目し、ひとり思案していたグレッグは心臓の悪い思いをしながら振り返る。


「なんだ、ヴィクターか。…まったく、脅かすなよ」


 入口に立つヴィクターは少しぽかんとして、ややの間を考えて、ごめんと小さく頭を下げる。


 …、心なしか顔色が悪いようにも見えたが、それはこの夜陰に乗じる室内の仄明るい蝋燭のせいにも思えた。


「こっちは…、もう制圧したみたいだね」


「ああ。こいつらはもう、山賊ですらなくなってやがった。…このまま放置すれば、こいつらはずっと人間を喰らい続ける悪食に走ってたはずだ。…だったら、最後ぐらいはヒトとして殺してやった方が、こいつらの為ってもんだ」


 グレッグの言葉には、生返事が返ってきた。


「…どうした? お前、さっきから顔色が悪いように見えるけど…、どこかやられたか?」


 ヴィクターは首を振る。


「ううん、大丈夫。…ごめん。ちょっと、風に当たってきてもいいかな?」


「―――ああ、お前ん家で休もうと考えてたけど、さすがにコレじゃあ休めないよな。…いいぜ。あと、ついでに代わりの寝床を探してきてくれよ。この辺りなら、お前の方がよく知ってるからな」


 分かった、と応えたヴィクターは少し考え込むように面伏せて、しばしの逡巡のあと顔を上げた。


「ねえ、グレッグ…。僕たちは親友、だよね…? これから先、何があっても…、ずっと僕の親友でいてくれるよね…?」


 縋りつく手をこそ暗中模索するような、どこかひどく思い詰めた哀しい眼の色をグレッグは見た。


 きっと、任務以外で殺さざるをえなかった相手のことを思っているのだろう、弱音を見せまいと意地を張る子供の表情に、それは似ているのかもしれない。


「あ、当たり前じゃないか。…なんでそんな事を聞くんだよ、お前。何があったのか知らないけど、少しセンチになりすぎてやしないか…?」


 だが、もしかすると自分でも気づかないうちに心中を吐露していたのかもしれないと不安になり、グレッグはそうとは知れぬ程度にカマをかけてみる。


「…うん、そうかもしれない…」


「そうだって。確かにドゥムニアとの国境線も目の前だけどよ、あんまり気負いしすぎるのも良くないぜ?」


 どうやら秘計のそれを不安視している按配ではなさそうだったが、さりとて本心からの言葉でも、ヴィクターの沈鬱な表情を晴らすことはできなかったようだった。


 ただ、それが彼の内の何かを決意させたのか、もう一度グレッグを見やる瞳には危険な不幸の光があった。


「…グレッグ。君に一つ、頼みたいことがあるんだ」


 その言葉を聞く前に、グレッグには不穏な予兆めいた違和感をヴィクターから感じ取っていた。


 だが、それが具体的に何を意味するのかが分からず、畢竟、脳裏に絡まる漠然とした不安を振り払うように親友に背を向ける。


「な、何だよ改まって。…やめろよな、そんな今生の別れみたいなコト言うの」


 まさしく、油断ならない“夜”の眼差しを向けるヴィクターに気圧され、グレッグは胡乱ながらも話を逸らそうと無駄な足掻きをしてみる。


 ―――惜しむらくは、彼がこれから何を言わんとするのかが、何となく気配で察せられてしまったから。


「自分を安心させたいんだ。…僕がまだ“ヒト”であるうちに、君だけにしか頼めないことがある」


「やめろよ、そういうの…」


 言葉に含ませた苛立ちの余韻を知ってか知らずか、ヴィクターは洒落気のない真面目な顔つきで言葉を繋げようとする。


「もし僕が死んだら、姉さんを―――」


「―――やめろ!」


 もう我慢できずに一喝したグレッグの怒気に、ヴィクターはようやく我に返ったかのように狼狽した声を上げて言葉を止めた。


 胸の中に咲く紅蓮の花、床を睨んだまま拳を強く握り締め、グレッグはそれこそ祈るような口調で紡ぐ。


「そんな…、そんな縁起でもない台詞は絶対に口にするな! …なに、大丈夫さ! たとえ何があっても、俺が必ずお前たちを救ってみせる! そのためなら俺は人間をやめたって構わない! …だから、俺の前で“死ぬ”だなんて言葉を軽々しく使うのは止めてくれ…!」


 今にも泣きそうな、震えた声が響く。


「グレッグ…」


 今にも泣きそうに、震える瞳が見た。


「生きて帰る! それが俺たちの任務だ! ルナちゃんを助けて、皆で生きて帰るんだ! 俺を信じろ! そして戦争が終わったら、また二人でルナちゃんを笑わせてやろうぜ!」


 そう言いながら、ヴィクターの傍に歩んでやれない自分が、ひどく哀しかった。


 今こうして話している間にも、イングラムと親友とを天秤にかけて葛藤している自分が情けなく、これが本当に最善の選択なのかと絶えず自問自答していることに恥じている。


 結局は、自信がないのだ。


 イングラムを裏切ってまで二人を守り抜く覚悟はあっても、いざ明確に裏切りの言葉を連ねようとすると、まるで唐突に悪夢から目覚めたかのように汗ばむ冷静さを取り戻してしまう。


 それはちょうど、死ぬ覚悟と、死ぬということの違いに似ている。


 裏切り者には死の追っ手が待つばかり。


 たとえ今だけでも無事に脱出できたとしても、ルナを連れたままでの逃走には限界がある。


「…ごめん、グレッグ…。僕は、本当にどうかしてたみたいだ…」


 いっそ、親友に打ち明けてみるべきなのか。


 だが、打ち明けたところでどうする。


 ルナのことは自分に任せて、国のために死んでくれと言うのか。


 それとも、ルナを危険に晒しながらも、逃げ続けろと言うのか。


 それは、どちらが正しくてどちらが間違っているのか分からない答えを親友の判断に委ねて、思考を放棄することで楽になろうとしているだけじゃないのか。


 どちらも正しいのか。


 どちらも間違っているのか。


 ―――分からない。


 なぜ、暗殺者とはこうも卑しい人種なのだろう。


 なぜ、ヴィクターと出会ってしまったのだろう。


 出会わなければ、こんなにも苦しい決断を選ばずに済んだはずなのに…!


「そうだよね。やる前から悲観するのは間違ってるよね。…うん、ありがとうグレッグ…。僕は…、僕にできることをするだけだよね」


 違う…!


 違うんだ、ヴィクター!


 俺が本当に言いたいことは、そんなことじゃないんだ…!


 俺が本当に言いたいのは…!


「…ああ、そうさ。…ほら、元気になったら早く寝床を探してくれよ。このままじゃ夜風に冷えちまう」


「うん、分かった。…それじゃあ、行ってくる」


 ヴィクターは幾分ながら晴れた顔で、足早に去っていく。


 …結局、彼は最後まで上手く笑えなかった。


 笑い方を忘れてしまったのだろうか。


 それとも自分には、最初からソンナモノなどなかったのだろうか。


 …ああ、それすらも分からなくなってしまったほど、彼はどうしようもない愚か者にまで堕落してしまったのだろうか。


「…誰か、助けてくれ…」


 心から救いを求める声であっても、都合のいい応えなどあるはずもない。


「…クソ…。俺は、どうすればいいんだ…!」


 沈鬱な面持ちのまま顔を上げた、その瞬間。


 ―――ドクン。


 それを、見てしまった。


 運命は、逃げ道のある選択肢など用意しない。


 ―――ドクン。


 見つけてしまったのだ。


 世界が周到に仕組んだ罠は、真実無慈悲。


 ―――ドクン。


 床に流れる血痕の切れ目。


 知らなければ良かったか?


 ―――ドクン。


 ある地点から不自然にも途切れた、流血の痕跡。


 だがお前はそれを知ってしまった。


 ―――ドクン。


「あれは…、地下室、か…?」


 知るということは即ち、覚悟するということ。


 ―――ドクン。


 まさか、他にも誰かが隠れているというのか。


 そしてそれが、この物語の終わりの始まり。


 ―――ドクン。


 グレッグはナイフを床に突き立て、梃子の要領で持ち上げる。


 積み上げられた“善”があるならば、それに相応しい必要“悪”がいると言ったのはお前の方。


 ―――ドクン。


 扉を開けた先にはやはり、狭い階段が地下に向かって伸びている。


 だがもちろん強制はしない。


 ―――ドクン。


 その底は暗く、どこまで続いているのか判然としなかった。


 選ぶ権利は、あくまでもお前にある。


 ―――ドクン。


 蝋燭を片手に底を照らそうとしたが、どうやら少しばかり下りなければ光は届かないようだった。


 行くか、退くか、誰にでもできる簡単な二者択一だ。


 ―――ドクン。


「いったい、何があるんだ…?」


 用心深くナイフを構えて、ヴィクターから知らされていない地下に漂う瘴気を見やる。












“―――救済のない運命を背負う覚悟はあるか?”












 ―――ドクン…!


 グレッグは、その闇に向かって一歩を踏み出した。


次回の投稿予定日は、2月23日を予定しております。


ご愛読していただき、本当にありがとうございます。


では、また次話でお会いしましょう。


ありがとうございました。

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