第十七話 〜暴君vs黒騎士〜
友M「中の人などいないッ!」
はい、出オチ早々、オワタ式です。
皆様、新年、明けましておめでとうございます。
友Y「明けましておめでとうございます」
友M「おめでとうございます」
遅ればせながら、ようやく投稿することができました。
今話から、戦闘シーンが四話連続でありますので、読んでいくうちにすごく目が疲れると思います。
なので、適度に休憩を挟みながら読んでいただくことをオススメいたします。
また、もう一話が長すぎる、という方につきましては、申し訳ありませんと謝ることしかできません。
友Y「や、それはいいんだけどさ。俺たちが言いたいのはそっちじゃなくて」
ん?
友M「早く続きを上げろってコトだァァッッッ!」
どこの吸血鬼ですか、おまいは……。
でも、確かに言うとおりです。
投稿が遅いのは、単純にオワタの筆力がないからです。
重ね重ね、本当に申し訳ありません。
それでもオワタに付き合ってやるよ、というツンデレな読者がいらっしゃいましたら、どうか最後までお付き合いしてください。
それでは、長くなりましたが、引き続き本編をお楽しみ下さい。
そこはもはや、外界を遮断した“異界”と化していた。
洗練された白壁、そこに豪壮さを強調する照明が幾つも懸架されていて、規則的に飾られた数十個もの国旗と重厚感のある内装を華々しく照らしている。
しかし、塵や埃も一つたりとて許されぬと言わんばかりの、病的なまでに維持された清潔感にはむしろ、ある種の命懸けとも言える侍女たちの緊張感ある息遣いが聞こえてきそうな、そんな剣呑としたただならぬ気配があった。
その中央、強烈な個性を発散する赤に染め抜かれた豪奢な玉座が、その辺端を目映い黄金で装飾し、大樹のような不動の存在感を伴って設えられている。
そして―――。
唯一絶対の玉座に堂々と座る男は、その肘掛けを利用して頬杖を突きながら、しかし息詰まる圧迫感を宿す空気に目を踊らせていた。
ぎらつく双眸、豊潤な餐食に恵まれたやや肥えた体躯と、相手に無理やり威厳を押し付けるような虚飾を隠しきれない態度は、マーシア王国の頂点に君臨するベオルンウルフ王に相違なかったが、しかしそんな一国の主たる彼がそれほどまでに恐れる相手とは、いったいどのような人物であるのか。
その答えが、今まさに国王の目の前にいた。
抜けるように高く設計された天井を誇る玉座の間で、冷厳な姿勢で謁見に臨む超人と、国王の隣にて氷よりも冷たい笑みを湛えて腕を組む挑発的な魔人との、途轍もない緊張を孕んだ権謀の刃先が次々と交差する。
「実に素晴らしい働きでした、バールゼフォン卿…。副官を死地に送ってまで相手を生かす慈愛に満ちたその思いやりは、さすがの私も真似できそうにありません」
狂気を彩る紫紺の瞳が、深奥に秘められた熾火のような翡翠の眸子を注意深く観察する。
「それとも、愚昧な私の先入観が、あなたの大胆不敵な判断に及んでいないだけなのでしょうか」
老聖は意に介する風でもなく、魔性の青年を見上げたまま微動だにしない。
くく、と笑う魔人が続ける。
「私とあなたを例えるなら、見事に不調和な二音だ。その名を耳にしただけで絶息しそうな恐怖の体現者。
…けれど、その二つは静かに人を不安にさせ、鋭利な刃を前にしたように緊張感を高まらせるばかり。一見すれば似た者同士だが、刃と刃が交じ合えば、そこには反発しか生まれない。
…まさに、私たちそのものだとは思いませんか?」
「お前が刃だとは笑わせる」
バールゼフォンが、蠅を掃うように吐き捨てた。
「私が刃なら、お前は矢だ。誰にも制御できない狂犬。騎士が誇りをかけて刃を交じえている最中で平然と、お前が横から現れて戦場を掻き乱す。それはただの一方通行の悪意にすぎない。
…物影に隠れるのは、自分の悪業が白昼の下に曝されることを恐れ、人々から狙われるのを防ぐためだろう」
「不和をもたらすのは私の技能ですよ、バールゼフォン卿…。幸運なことに、私は裏切り者が一目で分かるものでしてね。どのような騎士の刃が翻り、いつ主に向けるのかを嗅ぎ取ることができる。
…その点で言えば、私は実に優秀な忠犬ですよ、ベオルンウルフ王」
魔人は、隣に座する国王に囁くように告げる。
「彼の言う通り、私が矢だとすると、それは放たれてしまえば目標まで一直線に突き進むことしかできない。目の前にいる騎士どのの“誇り高き刃”と違って、私は射手に裏切れない罪作りな矢なのです。…くっくっくっくっく」
途端、ベオルンウルフ王に明らかな狼狽の色が浮かぶ。
「ば、バールゼフォン卿が、私を裏切るというのか!?」
「いいえ、彼は裏切れません。…かつては“そうだった”のかもしれませんがねぇ…、バールゼフォン卿…?」
多分に含みを持たせた口調に、しかし剣聖は眉を顰めるだけに留めた。
「ふふ、そういえば、刃と矢もやはり相容れない存在でしたね。…くく、なるほど。それだけを言えば、私とあなたは同意しているのでしょうか」
「奇遇なことだ。私も裏切り者を一目で見抜くことができる。…お前の言う通り、私は王を裏切らない。最も危険な裏切り者が目の前にいるからな。
…お前の物語は最初から最後まで不義に満ちている。ワルプルギスの狭間に生まれたお前は、誰よりも世界が燃えるのを望んでいるはずだ」
ニタリ、と悪魔的に歪む魔人の表情に怖気が走り、王は反射的に目を背けた。
「あなたが私を理解してくれているなんて、実に光栄なことだ。…だが間違ってはいけない。私は最初から最後まで王に忠実だよ。…ただ、あなたと私とでは、少々やり方が違うだけさ」
「財に興味がなく、名誉にも、歴史に名を残すことにも無頓着なお前が忠実であるのは、際限のない欲望だけだろう。その成就のためなら、お前は躊躇いなく世界に火をつける」
「私が燃やすのは理性だけさ。自分に正直な者だけが、人々の憎悪を愉しみながら最後まで信念を貫くことができる。
…少しは私を見習ったらどうだ、バールゼフォン卿。予言してもいいが、あなたの行動が正しい信念に裏打ちされているとしても、誰もあなたを讃えはしないだろう」
「お前はまだ私を理解できていないようだな、ヴェンツェル…。私は英雄に興味はない。大切なことは信じることだ。自分の誇りと、生命の感謝をな」
ヴェンツェルと呼ばれた魔人が、肩を竦める。
「つくづく期待を裏切らない男だ。…あなたと違って、弱者は強者を前にすると、たちまち論理や道徳を振りかざしては自分が正義にあると比較したがるからね。…それにどんな意味がある? その論理や道徳さえも、強者が弱者に刷り込ませた固定観念だということに気づかないのだから喜劇だよ」
魔人が玉座前の階段を下りていく。
それを、剣聖は油断なく見据えた。
「…知ってるかい? 私とあなただけが怪物ではないことを。英雄が人々に生かされているのは、単に都合よく助けてくれるからさ。救済に縋る呼び声に応え、無償で人々を助けるのが英雄だと祭り上げる。…だからこそ人々から称賛され、その利用価値があるうちは無罪放免。何をしても“自分たちの為だから”と見逃してあげる。
だから面白い。英雄の行為によって自分たちが立たされている足元が脅かされれば、まるで捩じ曲げていた掌をこそ元に戻すように、恥じ知らずにも彼らを責め立てるのだから。
…私はね、そんな“平和的”な人々の内なる怪物を解き放ってやっているだけさ」
超人と魔人の肩が並ぶ。
「イースト・アングリアはまさにそうだった。たった一人の指揮官を失っただけで亀裂が走り、魔人だの悪魔だのと罵っていた男の言葉に忠実になる。
…国王サマは実に可哀相な人だったよ。信頼していた家臣たちにいきなり裏切られ、その見せしめに家族も皆殺しにされたんだから。
…ククククク。怪物とは、本当は何のことを指す言葉なんだろうね」
「善悪に固執している時点で、お前も小物であることに変わりはない。光と闇のある世界が正しい在り方だ。その一方だけを否定すれば、必然的に生まれる矛盾に破滅する」
魔人が密かに笑う。
「私を前に小物だと言ってくれるのは、もうあなたしかいなくなってしまったな。…他の人間たちは真っ当な口しか利いてくれないんだ。お前はクズだ、とか、この悪魔め、とかね。…あまりに聞き慣れすぎて、子守唄のように心地よく感じてしまうから相手は救われない。…そして、この世界も。
どうやら、永遠に救われないのがこの世界の在り方のようだ。…信じる者は掬われる。だが、こっちの言葉が正しく思えると、人間たちは悲劇的に暴走するだろうね」
「お前から世界を救うと聞かされるのは驚きだな。…影のない人間は“ヒト”とは呼ばれずに亡者となる。血を吸う人間が“吸血鬼”だと区別されるように、これらは人が闇を必要とする一つの証拠だ。…自分とは違うモノなのだと安心するためにな」
ああ、と魔人が苦笑した。
「吸血鬼は人間ではないのだが…、まあ今はそんなことはどうでもいいな。些細な勘違いを訂正するよりも、もっと大きな情勢の誤解を解くほうが先だ」
言って、ヴェンツェルは芝居じみた動作でバールゼフォンへと向き直る。
「…あなたは何者だ?」
耳元でそっと囁く魔人の問いかけに。
「私はバールゼフォンだ。それ以上でもそれ以下でもない」
老聖はわずかの逡巡もなく即答した。
しん、と静寂に沈む玉座の間に、高らかな魔人の哄笑が響き渡る。
「あなたならきっと、そう答えてくれると信じていた。…だが、あなたの切り札であるスレイン君はどうだろう。私が思うに…、きっと自分を“聖騎士”だと名乗るのではないかな?」
途端、細めて射抜く剣聖の眼光に、魔人が舌なめずりをして端正な口元を歪ませた。
「私はね、あくまでも善意で、あなたを南にと王に推挙してあげたんだよ。私が南の聖騎士クンと会えば、彼の精神は耐えられずに自壊する。私は演出してやればいいだけだ。そうすれば、自らの正義によって自分を断罪する彼は、聖騎士という能力の限界以上へと釣り上げてしまった自分を許すことができず、ついには“復讐者”へと堕落するからね。
…あなたも調べている通り、フィッチ王国の守護騎士がその代表例であり、彼を狂気へと導く前準備さ。…まったく、正義とはどうしてこうも脆いものなのか、私には格好の遊戯にしか見えないな」
魔人が超人を見返した。
「そんな光景を、あなたは見たくないだろう? まだ救えるなら、早く救ってあげた方がいいのではないかな? そう時間がないのは、あなたが一番よく知っているはずだ。…ククククク」
両手を空に広げて、魔人が言葉を続ける。
「さあ、聞かせてくれ。可愛い副官を殺してまで生き長らえさせたウェセックス王国に対する、今後の作戦方針を」
「うむ、それは私も聞きたいところだ」
意味不明な単語を並べる二人のやりとりと剣呑な空気に居た堪れない思いで玉座に座っていた王が、ここぞとばかりに身を乗り出して口を開いた。
「どうやってウェセックス王国を攻めるつもりだ? 奴らが衰弱しているドゥムニアを征服するのは時間の問題だろう。…ならば、その背後から王都を攻めるのか?」
いえ、とバールゼフォンが呟く。
「奴らがドゥムニアに気を取られている間に、私は東二国を攻略します」
言い終えると同時に、魔人の拍手が響いた。
「素晴らしい。あなたの本気を知ることができて、私は心の底からの痛快事を堪能することができます」
言って、魔人が振り返ると同時にバールゼフォンが眉を顰めた。
「お前はどうするつもりだ? 西のウェールズが動いたと聞いた。…これほど早期のタイミングで動けるほど、彼らの連携は容易くなかったはずだが…?」
「今回のポウィス奪還は、北のグウィネズ王国の独断ですよ。あそこの王サマが若くて野心家なのは知ってるだろう? …フフ、小娘の聖騎士には任せていられなかったんじゃないかな? …それとも、復興したポウィスを陰から支配するつもりなのかもしれないね」
尤も、それを快く思わない国から非難囂々だけど、と乾いた笑い声が魔人から零れた。
「大丈夫です。言ったはずですよ、マーシアには誰も入れないと。…あそこには私も建設に携わった“オファの防塁”がある。たった三千ぽっちの兵力でも、守るだけなら簡単だ。
…それに、向こうには私の新しい飼い犬が防衛に赴いていてね。今頃は王サマにでも挨拶してるんじゃないかな?」
バールゼフォンが怪訝な表情で魔人を見やる。
「…新しい飼い犬だと?」
「私からのささやかなサプライズさ。黒い戦友だとでも言えばいいのかな? …私には分からないが、友と戦うというのは、いったいどんな気持ちなんだろうね」
そう言って、ヴェンツェルは出口へと歩き始めた。
「せいぜい頑張ってください、バールゼフォン卿…。あなたの後ろ盾が壊されないうちに、ね」
「お前こそ、西の聖騎士を過小評価しているようだな。…アレは手強いぞ。少なくとも、南よりはな」
くっくっく、と澱んだ粘着質の苦笑が洩れた。
「あなたから見ればそうなのでしょう。…しかし私から見れば、アレは最弱の聖騎士だよ。哀しいかな、善人には失うモノが多すぎるからね」
途端、耳鳴りのするような笑い声を残して魔人ヴェンツェルの輪郭が黒に塗り潰された瞬間、その姿はどこにもなく消えていた。
「…だからこそだ。お前の慢心が、最弱を最も手強くする」
残された剣聖は魔性の青年が消え去った方角へと目をやったまま動かず、意味も分からず玉座で目を瞬かせる国王は魔人がいなくなって気持ちが軽くなったのか、軽く咳払いをしてバールゼフォンに声をかけた。
「それで、具体的にはどうするつもりなのだ、バールゼフォン卿。東の二国と言えば、エセックスとサセックスのことか?」
剣聖は振り返り、はい、と応えた。
「では、陛下のご心配を取り除くべく、まずは作戦の概略からご説明いたします―――」
バールゼフォンは、諄々と語り始めた。
『ウェールズ地域 ポウィス王国 王都ニュートン』
ウェールズは、二十一世紀現在も、二十以上もの州に分かれている。
これには、アングロ・サクソン人の船来によってブリテン島の西へと移動せざるをえなかったブリトン人たちが、それぞれが属する小部族の意向によって国家を群立させたからであり、それはまさに当時の小国家の影響がそのまま、後世にまで残ったからだと言えるだろう。
九世紀現在、ウェールズ一帯に数多く存在する小部族国家は後世の数とほぼ同数であったが、それらの多くはすでに一部の強国の属国となっている按配であり、ウェールズの代表国とも呼ぶべき国は、合わせて四つほど存在していた。
―――否、正確には四つだったと言うべきなのかもしれなかった。
ウェールズとマーシア王国との国境線に建設された難攻不落の長城“オファの防塁”のすぐ隣に建国していたポウィス王国は、その位置的にもマーシア王国軍の攻勢を真っ先に受け止めるため、一年前、聖騎士の誕生を脅威と危惧した剣聖との熾烈な戦いを繰り広げていた。
だが、ポウィスを失えばマーシア王国軍がウェールズ攻略への重要な足がかりを手に入れてしまうため、この国を死守することはウェールズに存在するすべての小国家の総意である。
一年間にも及ぶ激闘の末、惜しくもポウィスは陥落してしまったが、当時、まだ除け者扱いだった聖騎士の奮戦もあって被害を最小限に食い留めることに成功したウェールズ連合軍は、ポウィス国民を北のグウィネズ王国へと避難させ、その反撃の好機を密やかに窺っていたのであった。
しかし、ポウィスを失った反動もまた大きく、各国に波紋のような不安を拡大させ、自国の軍備増強と保身のための動きに余念がないウェールズ内の情勢から、その連携は必ずしも一枚岩などではない。
いつマーシアが自国に攻めてくるのか、ただそれだけを懸念する各小部族国家群は、同時に降りかかる責務の火の粉を回避するため、連合軍総司令官の地位に先の戦争で活躍した聖騎士を推挙させることを満場一致で決議し、半ば人柱の意味合いを持つ若き代表者はそうして、政治面と軍事面の両面から一方的に飛び交う矢面に立たされることとなったのである。
しかし今、ここポウィスに駐屯していたマーシア王国軍を撃退したのは、その聖騎士ですらなかった。
盛り上がった丘の上に、ポウィスの王都がある。
ポウィス王国は“オファの防塁”に沿うように広大な領土を保有しているため、各国家間の交易都市としても機能する王都の戦略的・経済的価値は非常に高く、ここを制圧するか阻止するかに序盤戦のすべてがかかっていると言っても過言ではない。
雑然とした家屋や商業施設が建ち並ぶ王都の東側、ウェールズの内寄りにある王城から少し離れた、小ぢんまりとした広場にその男はいた。
目の前に構える王都の入口を見据えたまま、その視線の先に映るのは果たして敵の姿か、それとも今後の青写真か。
誰よりも“炎”という言葉が似合う男であった。
鳩の血を想起させる紅い瞳、燃え立つような髪もまたほんのり輝く赤色で、男の凶暴な気配をさらに引き立たせている。
すらりと整う容貌の輪郭、大きな目と細く高い鼻筋、そして広く薄い唇を見れば男はまさに美青年であったが、そこに隠そうともしない情念が、不用意には近寄りがたい獰猛な雰囲気を完成させていた。
「ふん、他愛もない。…やはりあの男がいなければマーシアはこの程度か。魔人ならば愉しませてくれると期待していたんだが…、ここにいないのでは話にならんな」
「若様ァッ…!」
老翁とした男の呼び声に、青年が振り返る。
「どうした、ジイ。お前には民の移動を命じておいたはずだが…?」
息せき切りながら青年に駆け寄る老人は、しばらく呼吸を整えた後、言葉を繋げた。
「どうしたもこうしたもありません…! 若様のポウィス制圧を聞いて、各国から『独断での行動は横暴だ』との反感が相次いでいます」
そんなことか、と青年が一蹴する。
「安全地帯に入り浸る連中の戯言など、適当にあしらっておけばいい。程よく甘い汁を吸わせてやれば、奴らは喜んでモグモグと口を閉ざすさ。…人は皆、甘いモノに目がないからな」
「しかし、聖騎士殿はそうではないでしょう。…こちらに彼女が向かっているとの報告も上がっております」
途端、男が嬉しそうに破顔した。
「そうか、あいつが俺の下へ来るのか。…なら、俺もそれなりに正装して歓迎してやった方がいいかな?」
お気に入りの私服を着る自分の佇まいを見せて、しかし老人は肩を竦めるに留めた。
「そのままの方が、個性的でよろしいでしょう」
「そうか? ならば、このまま待とう」
言って、男は入口の門に向き直った。
「見ろ。自分で勝ち取る栄光は、やはり何物にも換えがたい快楽だとは思わないか? どんな幸福も、自分の力で勝ち取ってこそ意味がある。至上の喜びを存分に堪能することができる。
…他の連中は、こんな当たり前のことを知らないから保守的になるんだ。俺には到底、真似のできない生き方さ」
「どなたも若様の真似などできません。そんなことをすれば自らを滅ぼしますからね、彼らは利口なのです」
「消極的な賢者だな。国民のためではなく、自分たちの懐をぶくぶくと肥えさせるための“ルール”だと言えば、後世まで残す後ろめたい無知どもを作らずに済むというのに」
「堂々と敵を作るよりも、必要な嘘で装飾した握手のほうが遥かに平和的だからですよ。国民は、それとは気づかせずに掌で踊らせるのが効果的だということは、誰もが知っています」
青年は思わず苦笑した。
「いつにも増して毒舌だな、ジイ。俺よりもよっぽど腹黒い黒幕に見えるぞ?」
ジイ、と呼ばれた老人が微笑む。
「腹黒さで言えば、若様に敵う相手はおりますまい。…北のラインハルト王と言えば、誰もが震える暴君として有名でございますからね」
「そんなに誉めるなよ。大して褒美は出せんぞ?」
「最初から期待しておりません」
ラインハルト―――北の強国“グウィネズ王国”の王位に若くして戴冠した男であり、その大胆不敵な政策と傍若無人な振る舞いから、ウェールズ諸国に“暴君”として悪名を広めている青年である。
彼は四年前、病床にあった前王の急死から王位を継承したのだが、そこには陰謀説や暗殺説などの黒い噂が国内外を問わずに広まっており、何かと話題には事欠かない男であることはウェールズにいる者なら誰もが既知としている事実だった。
そして、そのラインハルトから愛敬をもってジイと呼ばれているこの老人は、名をルシアンと呼び、代々から王家たるラインハルトの一族に仕えてきた忠実なる片腕であり、五十に達する今でこそ衰えてきた印象があるが、槍の名手としても評価が高かった人物である。
ラインハルトは、口元に笑みを絶やさずに言った。
「自分に正直なのは良いことだ。上辺を嘘八百で塗り固めた連中の笑顔よりも信頼できる」
「逆に、若様を信用できない私はどうすればよろしいでしょう?」
「それはヒドイな。こんなにも長い付き合いなのに、そんなに俺が信用できないか?」
「若様に、人様からの信頼があるとでも?」
ふと、ラインハルトは考え込むように腕を組んでから、首を傾げた。
「俺は、約束は守る男さ」
「先月、私が選りすぐりの娘たちを集めたにも関わらず、若様はついに相手を選ばれませんでしたが?」
「まだ期限まで六ヶ月もあるじゃないか。…それに、俺が心に決めた相手は、後にも先にも一人だけだ」
呆れたように、ルシアンが言う。
「あの聖騎士殿ですか。この前もこっぴどくフラれたばかりだと言うのに、まるで懲りておりませんね」
「俺は諦めの悪い男でね。この世に二人といない極上の女は、必ず手に入れたいんだ。…あいつは、俺に愛でられるためにウェールズに舞い降りた白銀の天使さ」
「まさか…、ここに攻め込んだ本当の理由は、彼女の気を引くため?」
「名案だろ?」
そう言って目配せするラインハルトに、ルシアンは小さく溜息をついた。
「各国の連携を思うように纏められず、遅々として進まなかったポウィスの奪還がまさか、アセルス殿の気を引くためとは誰も思いませんでしょう。…他ならぬ暴君としての悪名を広めるに終わるだけですよ」
「少なくとも、お前が知っている。俺の理解者は、俺が何も言わずとも察してくれるから心強い」
「私でなければ、誰も若様の相手は務まりませんでしょう。…引退は、まだまだ先の話ですかな」
フッ、と男が微笑した。
「俺が生きているうちは引退などさせんぞ。俺とアセルスの晴れ姿をじっくりと目に焼き付けてから死ね」
「殺すまで傍に置いて下さるとは光栄です。…なに、私も若様が聖騎士殿に完全にフラれるのをしっかりとこの目で見届けるまで、どこまでもお供いたしますよ」
ラインハルトが笑う。
「そんなに期待してくれているとは予想外だったな。…なら、俺もその期待を完膚なきまでに裏切ってやるとするか」
途端、二人の表情が途轍もなく高純度の殺意に気付いて険しくなる。
「…無粋なお客様が、アポイントもなしに来られたようです」
王都入口の門前、周囲の大気を歪めるほどの呪詛を身に纏う、あまりにも禍々しい騎士の姿がそこにあった。
「ふん。殺意を纏いながら丸腰とは、随分と失礼なヤツだ」
それはあたかも、物質化した暗黒がたどたどしく人型を真似て、気紛れから思い付いたように邪悪の化身を模造した悪意の塊に違いなかった。
間違っても人間とは見えぬ面容は果たして本当に兜のせいか、歪な黒の鎧で全身を隙間なく固めた姿は、まさしく鬼を彷彿とさせる。
途端、その黒い騎士の脇から夥しい数の黒犬が疾走して王都に侵入していくのを見やり、ラインハルトは帯剣していた刃を抜いて、ルシアンに向かって顎を動かすことで無言の指示を出した。
「お気をつけください、若様…! アレは、常軌を逸した膨大な怨念に憑かれた、魔人の手先でございます…!」
「見れば分かる。あれほどの邪気を帯びる人間など、そうそう居るものじゃない。…どうやら、魔人も本格的に動き始めたようだな。西のダヴェッド王国を滅ぼして、次は何を企んでいる…?」
黒騎士は何も言わず、しかしいつの間にどこから取り出したのか、これもまた異様に黒く塗り染められた剣を握っている。
「ジイ、お前はさっさと小煩い犬どもを蹴散らしてこい。こんな悪趣味な鎧を人前で平気に着込む変態は、何の因果か俺に用があるらしいからな」
「類は友を呼ぶという言葉をご存知ないので?」
「言ってくれるじゃないか。…俺は、他人に媚び諂うように尻尾を振る犬が大嫌いなんだ。…野犬狩りは徹底的にしてくれ。クサイ臭いが移ると、街を消毒したくなる」
宣告もなく躍動する黒騎士が刹那に迫り、黒の一閃とラインハルトの銀閃がぶつかり合う。
音を立てて沈下する若き国王の足場が、その一撃に秘められた凄まじさを物語っていた。
「ジイ、行けッ!」
「お気をつけてッ!」
ルシアンが走り去っていくのを横目で確認し、ラインハルトは改めて黒騎士をまじまじと見る。
おぞましい異形の人面から蒸気のように荒々しい呼気が伝わるほどの接近で判然とするその容貌は、確かに兜にそのまま鬼の顔が彫り込まれたように見える。
漆黒の光沢を塗す硬質感はまさしく非人間的であり、それは正しく純粋な憎悪や殺意から創造された彫刻に相違ないように思えるが、しかしラインハルトは、どこか異質な違和感を覚えていた。
ただの彫刻ではありえない脈打つような生々しさには、今にもその人面の無機質な表情が動き出しそうな敵愾心が爛れるように満ち満ちている。
永遠に求めて止まぬ飢渇感と、決して癒されぬ殺戮への欲望、そして痛風の如く襲い続ける絶え間のない激痛をこそ湛えたような、そんな限りなく人間的な慟哭を刻むその表情。
―――これではまるで、この鎧そのものが本当に生きているようだ。
ならば、その内側に息づく人間は、いったいどのような責め苦に苛まれているというのか。
…、しかしラインハルトは同情しない。
「お前が何者かは大して興味はないがな。俺を前に剣を抜くヤツは全員、敵だと相場が決まってる」
互いに剣を弾いて瞬時に間合いを取ると、ラインハルトは黒騎士の底なし沼のような瞳の奥を見据えながら不敵な笑みを浮かべ、片手を挙げる。
「正々堂々とした騎士道精神は善人のすることだ。俺とお前には似合わない」
その瞬間、二人の位置からちょうど矢頃にある周囲の家屋の屋根に据え付けられた物干し台に、八名にも及ぶ弓兵が一斉に立ち上がって矢を構えた。
黒騎士が顔を上げ、その一瞬の隙に、片手を下ろしたラインハルトが一足飛びに後退する。
国王を護衛する精鋭の弓兵部隊。
張力の強い弦を引く強靭な膂力に加えて、一点に集めた貫通力を宿す矢を限界まで維持する握力、そして一撃必殺を前提に磨き抜かれる卓越した射術を兼ね備えた、恐るべき狙撃手たち。
空気を切り裂く音、が聞こえた瞬間には緊張に張り詰めた弓から解放された矢が黒騎士を標的に、ことごとく―――。
その、ことごとくが黒騎士の決して頑強とは見えぬ鎧に弾き飛ばされ、先端をひしゃげられた矢が地に落ちていくのを、若き国王は眉を顰めながら確かに見た。
何事もなかったように立ち尽くす黒騎士は、その鎧に傷一つなくラインハルトに視線を戻す。
信じられぬ強度であった。
通常、これほどの強力な加護を恒常的に発現している常時発動型の宝具には概ね、その性能の高さに比例する当然の代償を必要とする。
それは魔導の絶対法則である“大前提の原則”に該当する等価交換であり、その神秘を得るために世界に支払わなければならない不可欠な代価であるからだ。
大前提の原則とは、要約すると二つの決まり事に絞られる。
一つ、無から有は生み出せない。
一つ、神秘や奇蹟に残留する代価が尽きた時点で、発現するあらゆる効果は消滅する。
従って、それ自体が超自然的な神秘の具現である宝具の能力は、しかし勿論ながら万能ではなく、この原則に忠実に従い、その効果はあくまでも、無から有を生み出すことのない等価交換を前提として発動する。
そのため、放たれれば頭蓋骨をも容易に貫きかねない熟練者の矢を弾き返すほどの防御力を秘める黒鎧は、当然ながらその強力な保護を恒久的に維持するための代償として、世界が提示する魔力や生命力を支払い続けなければならない。
しかしながら、どのような人間であろうとも不死や不滅を前提に存在できぬ以上、半永久的に魔力や生命力を代償に消耗することは不可能であるため、この鎧を着装する人間の未来は必ず、破滅への一途を辿るのが常であった。
ゆえに、その強力な鎧の性質は多くの場合、呪われた宝具と認識され、結果として必然的に“負”を帯びる。
だが、この黒騎士はそれほどの強力な防御力を維持する宝具を身に着けていながらも、衰弱している気配が微塵も感じられなかった。
「どういうことだ…? 無限の生命力を持つ人間など、聞いたこともないぞ…?」
ラインハルトの呟きに反応する風でもなく、須臾も待たずに黒騎士が踏み込む。
ルシアンに鍛えられたラインハルトの剣技は、並の騎士たちとは比べるべくもない水準に研ぎ澄まされていたが、その遥か上をいく黒騎士の剣技を前にしては、辛うじて太刀を合わせるのが精一杯であった。
かち合う剣の鋭い悲鳴が繰り返し広間に響くたびに、ラインハルトはじりじりと後退して、その表情を苦々しく歪めていく。
体格で言えばラインハルトとそう大差ないように見える黒騎士は、しかし人間離れした膂力から幾度も鋭い剛剣を放ちながらも、まるで息切れすることなく踏み込み、その速度を緩めることなく襲いかかる。
防戦に徹するラインハルトに休息の時間も与えまいと、次々に黒い剣撃を閃かせては前進する黒騎士の猛攻に、家屋で待機する射手たちは両者の密着状態から援護射撃もできずに、きりきり、と神経を擦るように弦に圧力をかけ、敵の隙を虎視眈々と窺うことしかできなかった。
黒騎士の一刀を受け止めるたびにラインハルトの両腕が痺れ、筋肉を痛めながら骨が軋む。
横一閃の強烈な薙ぎ払いに剣を合わせるが、用心深く服の下に着込んでいた手甲を刀身に当てて体重をかけていなければ、相手の質量に耐えることもできずに吹き飛ばされていただろう。
だが、ラインハルトが苦戦を強いられている理由については、なにも黒騎士の膂力や速度ばかりではなかった。
彼の剣技が、その性格を反映するが如く剛剣を得意とするなら、黒騎士の剣技はまさしく河川のように様々な表情を見せては変化する流剣であった。
通常、物理法則とは魔導と同じく、一過性の現象に纏まるものである。
例えば、上段から下段に向けて剣を振り下ろす。
これは対象に最大の損失を与えるために、その最短距離を最大の加速と体重の移動をもって、初めて効率的な破壊をもたらすことができるからだ。
ゆえに、上段から下段にまで振り抜いた剣をそのまま、再び上段にまで斬り上げようとしても、その切れ味は著しく低下する。
物質の動きのほとんどは単純かつ明快で、それは一方通行の予測不可能なエネルギーの流動にすぎない。
―――ならば。
もし、この“力の流れ”をある程度ながら把握することができる天性の第六感覚に加えて、そのエネルギーの流れが変化する特異点に合わせることで自由自在に太刀筋を変化させることができたとしたら、どうだろう。
もし上段からの斬撃が途中でぴたりと止まり、その瞬間に刃が翻えるやいなや同質の速度をもって水平や鋭角に疾走させることができたなら。
もし一点に破壊力を束ねた突きが、目標を外してもなお同等の質量を秘めて水平に、あるいはそのまま上下に剣を滑らせることができたなら。
それが、黒騎士の恐るべき“技”の繚乱であった。
人間の肉体が潜在的に抑制する耐久力の限界を維持したまま繰り出される、ブリテン最強の代名詞たる聖騎士たちの技量をも上回るのではないかとさえ思える剣技の咆哮。
それを、どれも紙一重であるとはいえ防ぎ続けているラインハルトの実力もまた驚愕に値すべきことであったが、防戦だからこその善戦にある彼の心中は、決して穏やかではない緊張感にしかし畏縮することなく、むしろ喜々として昂ぶっていた。
「ハッ、もっとだ! もっと俺を愉しませろッ!」
―――そう、ラインハルトは己が窮地にあるこの状況をこそ、愉しんでいるのだった。
生死をかけた戦いとは言わば、相手を支配するために勝利を前提とする、個人対個人の戦争であると彼は思う。
その結果、自分が負けたとしてもその先に待つ死を享受するのみであったし、逆に自分が勝者であるならば、思う存分に相手を征服し尽くして欲望を満たし、また次なる獲物を夢想しながら愉悦に痴れる。
それが、勝者に与えられた褒美であるからだ。
逆に、彼がいまだに理解できないものが騎士道精神なるものであった。
そもそも、彼がこの世に生を受ける前から混沌とした戦乱にある今の時代において、なぜ、騎士道などという戯言をこそ正しい精神の在り方だと騎士たちが認識しているのかが分からない。
国を統べる王家の唯一の正統後継者として生まれたラインハルトは、そこから毒にも薬にもならない政治を議論し、猜疑に満ちた笑顔で頭を垂れる家臣たちの表情から、むしろ独善的な卑劣、狡猾な残虐性に類する悪辣さをこそ理解し、それを上回る暴虐を振る舞うことができた。
人も獣も本質的には平等に弱肉強食、ゆえに生命とは生まれ付き遺伝する難病のように不平等であり、神など居るはずもないこの世では、強者が弱者を支配するのは当然なのだと。
だからこそ、彼は嬉しかったのかもしれない。
恥も外聞もなく偽善を振りかざす騎士サマなどよりも、生命を奪うことに一切の躊躇もなく殺戮に泥酔する黒騎士の方が、より子供じみた人間的なワガママを見ているようで飽きないのだから。
「―――だが、残念だな」
二人の剣閃が幾度となく絡み合い、尋常ならざる殺気を互いに交差させながら再び激しい鍔ぜり合いに持ち込ませたラインハルトは、そのまま泥土のように混濁している黒騎士の双眸を真正面から見据えて口を開いた。
「元々がプライドの高い人間らしいな。お前の剣には、狂気を台無しにする美意識がある。永い訓練で技を刻んだ肉体がそう反復するのか? …もっと肩の力を抜けよ、俺が手品を見せてやる」
しかし、黒騎士は応えない。
ラインハルトの剣を強く弾いて後退させ、そのわずかな間合いを利用して、バネのように弾力的な躍動の接近から追撃の剣が振り抜かれる。
その、寸前。
黒騎士が何かに足を取られたように躓き、滑稽な動作で前のめりに倒れると、そのまま大地に両手をつく形で姿勢を崩した。
「王の前には跪く。当然の礼儀だな」
何が起きたのか分からずに困惑する黒騎士は突然、ラインハルトに顔を蹴られて無様にも地面に倒れた。
金属同士が強く衝突した鈍い音が響き、しかしラインハルトもまた激痛に顔を歪める。
脚部にも隠し装甲を身に着けていたために下肢骨にまでダメージが浸透することはなかったが、それでも物理的な反動が伝播して右足に痺れをもたらしていた。
対して、その身に受けた初めての屈辱に喉を鳴らす黒騎士はしきりに身体を震わせ、更なる憤怒を塗り固めるようにして呼気を荒げている。
だが、ラインハルトは構わずに街路の方へと歩くと、屋上で射撃姿勢のまま待機している弓兵たちに別種の合図を送ったあと、小さな樽を片手に持って、いまだ地面に顔を向けている黒騎士に近づいていく。
途端、怨敵の接近を察知した黒騎士が立ち上がったと同時にラインハルトが樽を投げ、しかしそもそも武器ですらないその道具は当然のように漆黒の鎧の前に砕け散る。
―――しかし、黒騎士はその奇妙な違和感の正体に気づけずに、そのまま立ち尽くしていた。
想像を絶する膨大な“負”に保護された鎧の表面に、何か粘液状のモノがぶちまけられている。
片手を挙げたラインハルトが、ニヤリ、と笑う。
「良い具合に“あぶら”が乗ったじゃないか。…そんなお前に、俺からのワンポイント・アドバイスだ」
そう言って、何の躊躇いもなく手を下ろす。
「そんな暗い恰好をしてるから陰気クサくなる。もっと明るくなれ」
その瞬間、弓兵たちの放った矢が不思議にも朱い軌跡を宙に残しながら、禍々しい漆黒の騎士に向かって滑空する。
だが、もちろん結果は変わらない。
黒騎士の鎧は目にも止まらぬ速度で迫る矢をすべて弾き、わずかな傷もなく堂々と存在して主を守り抜く。
―――否、守り抜く、はずだった。
「■■■■■■■■■■!」
怨嗟と赫怒が入り混じった黒騎士のおぞましい叫びが、唐突に広間に響き渡った。
あの、限界にまで引き絞られた弓の弦から解放された矢には、黒騎士の鎧の表面に大量に付着したオリーブ油を引火させるための火が用いられていたのである。
油を塗った鏃に火をつけただけの火矢。
無論、そのものの殺傷力こそは、やはりあの鎧の前に無力であったが、瞬間的に火勢を広めて全身を炎上させることで、結果的に致命的なダメージを黒騎士に与えたのである。
一息に燃え盛る炎に包まれた黒騎士は全身を炙る高熱を払うように暴れ回り、その光景を、火を放った張本人であるラインハルトがさも愉しげに見やった。
「これぞ、正真正銘の燃える展開ってヤツだ。今のお前なら、万人に喜んでもらえること請け合いさ」
見境なく身悶える黒騎士は無意識に後退っていき、広間の中央に設えた泉の外周に足を取られて水の中へと沈み込む。
垂直に高く跳ね上がった水柱が頂点まで昇り、細かい水飛沫が辺りに飛び散った。
…、余裕に見えていたラインハルトの表情が、少しずつ緊張の色を帯びていく。
「…さて、普通なら身動きできない重傷のはずだが…。いかに鎧が強固でも、中の人間が生身である以上、激痛だ、などという生易しい痛みじゃないはずだ」
静寂を取り戻した広間の不気味な静けさ。
まだ起き上がる気配のない敵が沈む泉を訝しげに見つめながら、ラインハルトは細心の注意を払って待機中の射手に追撃の矢の指示を出す。
猛烈な勢いで飛来する矢に、水中に没したままの黒騎士はまさしく格好の的である。
この泉の水深は、成人の膝ほどしかない。
ゆえにこの程度であれば、矢の威力をほとんど減衰させずに相手を威嚇することができたが、勿論、彼はこの射撃による直接的なダメージを最初から期待していない。
先の接近戦から、黒騎士の技量をある程度ながら把握することができたラインハルトは、まともに剣を受け合えば自分が圧倒的に不利であることを正しく理解している。
たとえ相手が水屑となって姿を見せぬとしても、不用意に泉に近づくのは無謀を通り越した自殺行為であり、逆に屋上から動かない目標を視認できる弓兵たちの狙撃の方が、相手との間合いを保ったうえで動きを牽制することができた。
それよりも問題となるのは、あの業火の直撃を受けてもなお、黒騎士が活動できるのか否かにあった。
全身を隈なく覆い尽くした灼熱の規模と高温から推測するに、普通はそのまま死亡しているか、最低でも敵が負った熱傷深度は重度でなければ不自然である。
当時の医療技術では知る由もないことであったが、水疱や発赤などから進行するショック状態は勿論のこと、皮膚の壊死や炭化もおかしくはないレベルによる脱水症状と大量の体液の喪失、さらには全身性炎症反応症候群と呼ばれる細菌感染をも引き起こす危険な可能性があるほどの重傷を覚悟しなければならない熱量が、油で引火したあの火焔にはあったのだ。
また、高温の気体を思わず吸い込んでしまうことで気道にすら熱傷を負うことがあり、全身を絶えず襲う疼痛にも耐えなければならない。
―――六十秒。
泉に沈んで偶然にも消火できたとはいえ、それだけの時間を灼熱に襲われ続けていた黒騎士は、しかしそれでも立ち上がって見せるのか。
「さあ、正体を見せろ、化け物」
その言葉が言い終わるのとほぼ同時に、巨大な水柱が緩やかに飛沫を上げて隆起した。
泉から起き上がるように屹立した水塊は、重力に従って人型の黒い輪郭を残しながら水煙を上げる。
その奥に、漆黒を具現する邪悪な騎士の姿を見やり、ラインハルトは心からうんざりした様子で舌打ちをした。
「クソッ、無傷か。…矢も火もダメときたら、いったいその種は何だ…?」
「■■■■■■■■■■!」
悪態をつく彼の言葉を、猛獣の咆哮にも似た黒騎士の絶叫が広間に響き渡って掻き消した。
鬼の人面の、歪に模る口元が禍々しく裂けて無数の牙を上下に開かせ、そこに覗く粘着質の唾液を細めながら、もはや人とは思えぬ獣じみた低い声質が暴走して大気を轟かせる。
あまりにも奇怪な声であり、そして鎧であった。
人面が動くことも奇怪であれば、あたかも人の言葉を忘れた亡霊の叫びのような咆哮に、ラインハルトは改めて、自分の目の前にいる相手が常軌を逸脱した存在であることを悟る。
「地獄のアケロンに溺れて幻想に酔ったか? だとしたら勿体ないことをしたな。そんな極上の体験は、なかなか味わえないものだぞ」
急激に膨張する黒騎士の猛り狂う殺気は、離れた家屋で待機する射手たちでさえもが恐怖に身を凍らせるほどの凄まじいものであった。
自分たちのいる狙撃地点が、悪魔を想起する容貌のおぞましい敵から相当に離れているにもかかわらず、油断すればすぐにでも眼前に迫り、その黒剣を閃かせるのではないか。
そんな、心の奥底に絶えず淀んでいる不安を無理やり揺さぶるような黒騎士の大音量に気圧され、最も精神力の弱かった射手は計らずも弦を引く矢を手放してしまい、唐突にも第二戦の幕を開ける。
「チッ、余計なことを…!」
だが時すでに遅し。
恐怖に緊張した一番手に続いて放たれた八本の矢は真っ直ぐに黒騎士へと降り注ぎ、しかしそのすべてがあまりに脆く弾かれる。
途端、天を仰いで叫ぶ黒騎士の口から誰もが戦慄する不気味な黒煙の塊が吐き出され、水槽の中で浮上を遂げようとする水泡のように舞い上がった。
それは、黒騎士に憑依する無数の怨念の一部であった。
醜悪に形を変え続ける黒煙は、時に人面を模っては時に獣面を模りながら歪に変形し続けて空高くに昇り、頂点で一時的に停止したかと思うと突然に爆発して、その勢いに加速する形で射手たちに襲いかかる。
黒煙から分裂したのは、射手と同数の黒犬だった。
赤々と輝く不吉な目、人間大の巨体に漆黒を纏い、鋭利な牙と爪が光の下で不気味に映える、忠実なる邪悪の尖兵。
「■■■■■■■■■■!」
八方から上がる悲鳴に部下の危難を感じとって顔を顰めるラインハルトだったが、振り返る間もなく爆発的な瞬発力で踏み込んでくる黒騎士の斬撃を防ぐのに全力を注がなければならなかった。
瞬時に間合いをゼロとした両者の睨み合い。
あからさまな憎悪を隠すことなく剥き出しにして呼気を荒げる黒騎士の呪われた眼光を、ラインハルトは臆することなく見返した。
「人間をやめて辿り着いた結果がそれか。…お前の行為は理解できそうにないが、手段を選ばないというお前には共感してやるよ…!」
「■■■■■■■■■!」
刹那、ラインハルトの剣を真っ向から弾き、邪悪を象徴する騎士は体勢の崩れた標的に向かって下段から黒剣を閃かせる。
「クッ、速い―――!?」
弾かれた衝撃をそのまま利用して側面に転がり、黒騎士の剣を非常に危ういタイミングで躱す。
頬にぱっくりと裂けた斬撃の傷痕から滴る血を舌で舐めとり、さらに接近する敵の剣に刃を合わせて間一髪、防ぐ。
「ぐ―――ッ!?」
しかし、先ほどまでの剣撃から更に威力を増した、途轍もない衝撃がラインハルトに襲いかかった。
剣を握る両手が今の衝撃で吹き飛んだのではないかとさえ錯覚するほど、両腕にはもう、この一撃だけで感覚がなくなってしまっていた。
しかし、戦慄する暇すら与えぬと襲いかかるは、もはや黒の閃光としか見えぬ速度の、しかし直角に軌道が変わる黒剣の不確定性斬撃。
ラインハルトは反撃しないのではなく、できないのだ。
たとえ黒騎士の剣撃が空を斬ったとしても、その速度を維持したまま跳ね上がる下段からの奇襲。
左右へと繰り返し流れてはいきなり上段下段へと切り替わり、その一瞬の隙を突く刃先を辛うじて躱すたびに、的確すぎる不意打ちに怖気が走る。
「こいつ…! これじゃあ、まるで―――ッ!?」
―――そう。まるで、こちらの動きをすべて観察し終えたとでも言わんばかりに。
「く―――、この…、ッ…!」
右腕に迫る横一閃を、剣を縦にして防ぐやいなや、すぐさま下段へと刃先が滑り、ラインハルトは右脚へと狙いを変えていることに気付いて慌てて左に飛ぶ。
空を斬った黒剣は、しかし次の瞬間に一点突破の突きへと変貌し、これを鼻先で躱すも、そのまま空中で加速する最中に胴体部への斬撃へと鋭角に切り込んでくる。
ラインハルトは、徐々にではあったが、しかし確実に押され始めていた。
元々が、双方の戦力差に大きな開きがあったのだ。
一撃に秘められた相手の膂力に筋肉の疲労が蓄積し続け、その速度にも目が追いつかなくなりつつある。
完全には防ぎきれなかった黒剣の軌跡は、すでに無数の創傷となって全身に浅く刻みつけられており、そしてそのどれもが、あと一歩の踏み込みというわずかな差で、致命傷となりうる部位に命中していることを瞭然とさせた。
だが、下手に動けばラインハルト本人も気づかないような微細で致命的な隙を相手に与えてしまいそうで躊躇してしまい、それが結局は防戦一方の不利な状況に自分を追い詰めてしまったことを彼は悟る。
先の小手先のトリックでは打開しようもない、そもそもトリックを使うほどの余裕さえ、とうに失せているラインハルトにとって、少しずつ王都入口の壁際に後退し続けている現状は、まさしく死へのカウントダウンに他ならない。
額に流れる大粒の汗の感触が欝陶しく、迎撃の動作によって激しく振り乱す髪の毛先が視界に入るたびに、仄かな怒りが込み上げる。
「■■■■■■■■■!」
人外の叫びを上げる黒騎士の渾身が、閃かせた剣ごとラインハルトを後方に吹き飛ばした。
「ぐぅあ、ッ、…!」
硬質の冷気と、彼の背中とが激突する。
「ごふッ…、…!」
端正な口元から一筋の紅が零れ落ち、重く響く鈍痛が背の筋肉を痛めて肋骨にヒビを入れたことを、ラインハルトは精確に分析した。
―――だが、それ以上に最小限の動作で節減してきたはずの体力の消耗も、同時に蓄積し続けてきた疲労感によってついに限界を迎えようとしていた。
呼吸さえも惜しむほどの連撃を繰り出す黒騎士の致命的な一撃一撃を防ぎ続ける、それ自体は危険を予測するラインハルトの動物的嗅覚が並外れて優れている証であったが、しかしその張り詰めた神経で実行し続ける回避の連続と敏捷性は、彼の体力を急速に奪い続けてもいた。
勿論、体力の消耗度で言えば、繰り出す攻撃のすべてを防御されている黒騎士の方が遥かに激しいはずであったが、まるで無尽蔵の体力を有しているとでも言わんばかりの佇まいは、息も乱れずに余裕綽々とした風である。
圧倒的優勢に立つ黒騎士を恨めしい眼差しで見やるラインハルトは、ここが生死を分かつ決定的な正念場であることを直感した。
悠然と歩を進める黒騎士が、死神そのもののような威圧感を携えて近づいてくる。
冷たい光を放つ黒剣が、視覚から脳髄を腐食させるかの如くに毒々しい。
判断を誤れば、直結する未来は死だ。
残り少ない体力を見積もっても、最後の反撃を飾るに相応しい終幕の場面である。
「…知ってるか?」
唐突に、ラインハルトは口を開く。
しかし、黒騎士は反応さえしない。
咥内は粘つく鉄の味が充満し、呼吸するたびに心肺機能が荒くなるのを自覚しながら、それでも構わずに言葉を繋げる。
「ジイから教えてもらってね、人生には三つの坂があるんだとよ。…一つは幸福の坂。もう一つは不幸の坂。…そして最後の一つは―――」
両手で強く剣を握りしめ、ラインハルトが決然と前を見据えた。
「―――“まさか”さ…ッ!」
最後の一音を言い終えると同時にラインハルトが大仰に剣を振りかぶったかと思うと、黒騎士はまたしても唐突に足を取られたように体勢を崩し、不可視の招き手に強く引きずり下ろされるが如くに背中を地面に激突させる。
しかし、視力が発達している者ならば、目を凝らせば見えるのかもしれない。
黒騎士の両足からラインハルトの剣柄に向かって、毛一筋ほどもない薄さをした極細の糸が伸びているのを。
それは黒騎士の両足に何重にも巻き付いており、ラインハルトが強く引っ張っても容易には千切れぬように完成されていることから、その見た目とは裏腹に意外な強靭性を備えていることが窺い知れる。
そしてこれが、ラインハルトの用いるトリックの正体であった。
ミステリーマジック―――魔力を操って神秘や奇跡を自在に行使する魔導ではなく、道具と技術を駆使して人為的な錯覚と先入観を相手に植え付け、人間という高度に発達した頭脳をこそ欺くことで神秘的に“魅せる”技法。
目と耳の刺激に騙されやすい人間の肉体機能に着眼し、手先の器用さを究極にまで突き詰める訓練をもって技を磨き抜く努力と知恵の結晶。
それは、詩想と探究の歴史である。
古代エジプト当時から存在したと言われ、ほんの少しの好奇心から神秘に興味を持ち、それを万人が愉しめるように魔術士たちとはまた違った視点から、安全に奇跡を実現せしめる方法にこそ類い稀なる叡智をこの聖域に集約させた先人たちの血と汗が息づいている。
人々は、それを“奇術”と呼ぶ。
奇術は神秘でなければ意味がなく、隠匿すること自体が本質であるがゆえに、人々はその謎をこそ愉しむことができるのだ。
だからこそ、正体が明かされた奇術はもはや神秘ではなく技法となり、その謎を愉しむことができずに感動が薄くなる。
魔術士ではないラインハルトは、この奇術に目をつけた。
勝利を飾るために必要な演出。
超自然的な力である魔術ですらない不可思議な現象を操り、謎めいたまま圧倒してみせることで“こいつはただ者ではない”と相手に思い込ませる戦闘技法。
ラインハルトの剣は独自の奇術知識を利用した特別製に誂えてあり、その柄には後世で“インビジブルスレッドリール”と呼ばれる、限りなく不可視に近い極細の鋼糸を伸縮自在に巻き取るための細工が施されていたのである。
黒騎士が気づかなかったのも無理はない。
それは目を欺くための叡智が結集した最高峰の道具であり、ただでさえ視認困難であるこれを、激戦さながらの戦闘中に見抜くことは不可能に近いのだ。
ましてや全身を鎧で覆っているのなら、蜘蛛糸ほどの感触すら感じない鋼糸の接触に気づくのは難しいだろう。
むしろ、あれほどの苦戦を強いられた状況下で、冷静に鋼糸を仕掛けたラインハルトの巧みな技術にこそ、舌を巻くべきであった。
姿勢を大きく崩した黒騎士の隙を突き、ラインハルトは敵の胴部に馬乗りするやいなや、反撃の思考も与えるものかとすぐさま剣を走らせる。
「おおおぉぉぉぉぉッッ!」
狙うはただ一点、あらゆる生命体の急所である心の臓。
全体重を乗せ、大地に剣を突き刺すように全力で黒騎士の胸を穿つ。
これを防ぐのは容易ではない。
たとえ黒騎士の方が身体能力に優れていようとも、倒れた瞬間に迎撃行動を取るのは言うに易く行うに難し。
顔を上げた、その時には胸を貫こうと奔る殺気の刀身を、黒騎士は虚ろな眼差しで確かに捉えた。
必殺を確信する若き国王と、その命をこそ奪いに現れた漆黒の死神が、その刀身の行く末を刹那に見る。
異様に響く金属の激突。
ラインハルトが見たのは、ある意味では、自分の予想通りの結末であった。
「くそッ…!」
剣の刀身が、黒鎧の前に敗れて砕けていた。
折れた切っ先、刀身には三分の二ほどの刃が残っていたが、あと数撃も振れば粉々に砕けてしまいそうなほどのヒビが入っている。
「こいつ…ッ! 本当に硬い…ッ!」
途端、黒の閃光が迫る予感に従って全力で後退したその瞬間に、黒騎士の逆襲が始まった。
前髪の毛先を切り裂いた黒剣を紙一重で躱しながら着地したラインハルトは、しかし剣が通じなかった動揺からか、それとも体力を消耗し尽くしてしまったのか、力の入らなくなった膝が唐突に折れて体勢を崩してしまう。
「■■■■■■■■■!」
下段から閃く黒騎士の剣。
それを見事、傷だらけの剣で防御に間に合わせたかに見えたラインハルトの迎撃はしかし、本来なら彼の予測通りに辿るはずだった黒騎士の斬撃軌道が何の前触れもなく変化し、あたかも稲光の如き不規則運動の軌跡を残す剣閃によって躱される。
「なッ―――!」
これには、さすがのラインハルトも瞠目した。
変幻自在にして縦横無尽。
それが、瞬間的な直感力をもって臨機応変に太刀筋を変化させる、黒騎士の“流剣”の本質。
事前に相手が迎撃するタイミングと返し手を予測し、多彩な攻撃を組み立てるのではなく。
相手が絶対の確信をもって迎撃行動を実行した“後”にこそ、この細緻な剣技の真価が発揮される唯一無二の瞬間がある。
「■■■■■■■■■!」
「クッ―――!」
吼える黒騎士が放つ、俯角からの黒雷。
もはや回避も防御も許されぬラインハルトは、その無防備な首を晒しながらも深淵より迫りくる死を淡々と見つめることしかできない。
しかし、それを未熟と俯瞰するのはあまりに酷だろう。
どのような超人でも、放つ剣の軌道は常に直線を描く。
蓄勢された強靭な脚力から前方に踏み出す躍動。
溜めた力を解放する腰の滑らかな旋回と加速の重心固定。
肩から肘へと伝達し、手首から指先へと加速する殺意の体重移動。
そして、血の滲むような鍛練を経て初めて体得できる、極限にまで洗練された斬撃動作。
そこにあらゆる例外は介在しない。
なぜなら、それらの“力の流れ”こそが、本人が生み出した最高にして最効率のパフォーマンスを発揮するために必要不可欠な反射神経であり、その結果、肉体に刻み付けた反復運動に他ならないからだ。
それは人間が剣技を修練するための絶対条件であり、だからこそ、その限界が覆されることはない。
だが、天賦の第六感覚を備える黒騎士は、ここに不可測の特異点を組み込むことで非常識な物理運動を完成させた。
あたかも鏡面に乱反射する閃光のように、本来であれば曲折するはずのない直線軌道が上下左右に何度も折れ曲がる、常識の壁を突破した無限の死角からの加速。
計算された偶発性から生み出される、圧倒的な理不尽をこそ実現するために容赦なく不変の法則を制圧し、その人体に許された極限の性能をもって不可能を可能にする。
ゆえに、その名を“流動する導き手の如く”(ライジング・ロード)
物理法則の特異点を神憑った第六感覚によって把握し、そこから派生する無限の力の分流を利用して、斬撃の加速と軌道の千変万化を実行する剣技の突然変異。
想像を絶する角度とタイミングからの奇襲を可能とする、この黒騎士にしか持ち得ない固有能力である。
これに反応できる人間は絶無だ。
喩えるなら、直球だと思って振り抜いたバットを躱すスライダーが、途端に鋭角に切り込むシュートとなって打者に加速するようなもの。
ゆえに、最高の踏み込みをもって迎撃の剣を放っているラインハルトに、漆黒の化身が放つ死を躱す手段などあろうはずもない。
それは、超人が生み出した必殺の王手である。
これに抗う術を、黒騎士と比べれば凡人でしかないラインハルトが持ち得るはずもなく。
その必殺に対抗できるのは、ウェールズにただ一人。
「―――そこまでだ」
漆黒の稲妻が、白銀の流星と激突する。
決定的な死をもたらすはずだった黒騎士と、絶望的な死を受け取るはずだったラインハルトの前に、それは忽然と姿を現した。
着地の微風にたなびく金色の髪。
陽の光を受けて輝く鎧は銀色で、あたかもそれ自体が淡く輝いているかの如くに煌めいている。
その、後ろ姿だけを見ても天性の麗質を備えていると分かる謎の騎士の思わぬ乱入に、ラインハルトは途端に肩の力が抜けると同時に安堵した。
「やれやれ、希望の星が空から降ってくるとはな。あんまりにタイミングが良すぎるんで、感動しそうになったぞ。アセルス」
目にしただけで混乱を強制する毒素を撒き散らしているかのような黒騎士の狂気に満ちた空気は、彼女が現れただけで清浄に洗われていくかのようだった。
それは一種の清涼剤のように、アセルスと呼ばれた騎士の豊饒な精気が、あの黒騎士の邪悪な気配を中和しているに違いなかった。
「下手に手を出せば怒るだろうから、黒犬に襲われていた兵士たちを助けたあと、様子を窺っていただけだ」
黒騎士の剣を弾き返した聖騎士は、振り返ることなくラインハルトに言葉を返す。
「私としては、限界まで待ったつもりだったんだ。…だが、それももう難しそうだったからな。お前には悪いが、これ以上は傍観できなかった」
ラインハルトは肩を竦めた。
「いや、これ以上ないぐらいの絶妙なタイミングだったさ。どうか、イマイチな俺に力を貸してくれ」
からかい気味に言ったラインハルトの言葉には反応せず、アセルスは初見となる眼前の敵を警戒したまま、柔らかい声音で静かに呟いた。
「蠱毒か。これもまた随分と悪趣味な咒法だな」
その、初めて耳にする言葉に、ラインハルトは怪訝な表情を浮かべて問いかける。
「コドクだと? なんだそれは? それがこいつの正体なのか?」
「そうだ。生きた人間を餌に“無念”を寄せ集め、人為的に造り上げた不浄の超人が、この黒騎士だ。
この世には、憎悪や悋気、殺意や復讐という強い感情を現世への未練として、肉体が滅んだあとも輪廻の輪へと昇華することを拒む魂の欠片たちが存在する。そういった負の残留思念を蒐集して肉体という檻に閉じ込め、その媒体となる人間を膨大な呪詛で改造するんだ。
だから、ある意味では人造人間だとでも言うべきなのかもしれないな」
「じゃあ、中の人間はまだ生きてるのか?」
大型の肉食獣が危険を察知して威嚇するような唸り声を発する黒騎士を油断なく見据えたまま、アセルスは応えた。
「生命体としては生きている。だが、人間としてはとうに死んでいる。…言ってしまえば、自分の頭の中に想像を絶する悪意に満ちた無数の“他人”がいると思えばいい。永遠の狂騒を頭の中で繰り返されれば、誰だって人格を捨て、楽になりたいと願うだろう」
「だったら、最初から死んでる人間を使えばいいじゃないか。わざわざ手間のかかる方法で生きてる人間を使うこともないだろうに」
じりじり、と黒騎士が後退する。
「アレに憑いているのは、俗に悪霊や怨念と呼ばれる魂の欠片だ。そして、その彼らがこの世界に留まっている理由は、生前に抱いた未練や復讐を源にした“生”への執着が、輪廻を拒むからに他ならない。
だから、すでに死んでいる肉体には無関心なんだ。現実に生きている人間に憑依し、自分が“生きて”目的を果たすことが、彼らの異常な思考を正常だと思い込む要因であるからな。
つまり、生きている人間を基にしなければ、この無念を術式に使う蠱毒は意味を成さず、黒騎士を造り出すこともできないというわけだ」
ラインハルトが鼻で笑う。
「まるで蟻塚だな。人間という棲処に有象無象の死霊どもを棲息させるなど、よほどの変態じゃなければ思いつかん」
しかし、ラインハルトは軽く眉を顰めて続けた。
「だが、こいつは油を使った炎にも耐えきって見せたぞ。いくら死霊どもが味方しているとはいえ、そこまで人間離れするものか?」
「ラインハルト王、お前の喩えには肝心な部分が抜けている。蟻塚を成立させているのは、その中心に女王蟻がいるからだ。二年前、ダヴェッド王国を滅ぼした時と同じように、寄生蟲を体内に埋め込んで肉体改造を施したんだろう」
「ああ、そういうことか」
それならば、あの業火の直撃を受けても無傷でいられた黒騎士の不可解な不死性にも説明がつく、とラインハルトは納得する。
黒騎士は、致命的な熱量を秘める灼熱に耐性があったのではなく、持続する圧倒的な高温のダメージを上回る細胞の再生速度をもって、肉体の損傷と修復を同時に繰り返していたのだ。
だからこその無傷。
ゆえに黒騎士を倒すためには、尋常ならざる防御力を持つ黒鎧を貫き、さらには恐るべき回復力を備えた身体に、即死を前提とした致命傷を与えなければならないことを意味していた。
あるいは、体内の寄生蟲をこそ標的にした特殊な攻撃手段をもって黒騎士の不死性を無力化させ、要の中枢を失った無数の怨念を暴走させることで、内側から崩壊させることも可能性の一つとして考慮できる。
だが、そのどちらもが実現するにおぞましい難易度を誇る行為を要求された方法であるのだった。
依然として険しい表情を崩さないラインハルトが、聖騎士を見やる。
「それで、勝算はありそうか」
「私が奴の前に立ってから、すでに数分が経つ。それなのに、奴は一度も仕掛けてこない」
それが何だ、と言いかけて、ラインハルトは黒騎士の方へと視線を流した。
苦痛と怨嗟を全身から溢れさせる黒騎士は、新たな敵の出現に踏み込みを躊躇い、凶暴な妖気の中に動揺の揺らめきを隠しているように見える。
少しずつ王都の入口へと後退する黒騎士の様子に注意しながら、ラインハルトは応えた。
「なるほどな。形勢の不利を感じとったというわけか」
「私が王都に着いた時には、すでにルシアン殿が軍を率いて黒犬を掃討していた最中だった。時間から演繹しても、そろそろの頃合いだろう」
入口前まで後退した黒騎士に対し、二人は敢えて仕掛けない。
充分な距離まで離れた黒騎士は即座に踵を返し、王都から急速に遠ざかっていったが、それでも二人は動かなかった。
剣を地に向けて構えを解いたアセルスが呟く。
「もっと言えば、王都そのものが魔人の仕掛けた巨大な罠だった。バールゼフォンの一年間の戦いを無駄にするような後退の背景には、その勝利の余韻に無防備となった軍の中心人物をこそ暗殺する狙いを隠すことにあったからだ。
黒犬によって王都内を撹乱させ、その混乱に乗じて奴が目的を遂げることで、ウェールズの気勢を削ごうという計画だったんだろう」
「だが、そこにお前が現れた。後一歩のところで邪魔をされ、形勢不利になった変態は尻尾を巻いて逃げる。実に分かりやすい勝敗じゃないか。…尤も、男の尻など追いかける気にもならんがな」
それは即ち、充分な手勢を揃えていない現状のまま追撃戦を仕掛けたところで、この先に待ち構えているかもしれない敵の伏兵と遭遇すれば、まさしく相手の思う壷であるからだと言っているに等しかった。
「問題は、こうした魔人の意図に気付いていながら独断で軍を動かし、あまつさえ王都の入口で敵の奇襲をこそ待ち構えていた、お前にある」
言って、アセルスは剣を鞘に納めて向き直った。
「なぜ軍を動かした? 無論、自分の国の兵であるのだから非難を受ける謂れはないのだろうが、今回ばかりはあまりに危険すぎた。自分の命を粗末にするような行動は、一国の王として相応しくないぞ」
「アセルス。王は言葉で民を動かすのではなく、行動で動かすものだ。ポウィス奪還はレヴィン王の悲願であったし、全ウェールズの民の総意でもある。…それに、今以上に王都を取り戻すタイミングはなかったはずだろう?」
言ってから、ラインハルトは唇の端を吊り上げる。
「魔人は東に向かい、剣聖は南にご執心だ。どこに王都を守る戦力がある? 敵側から見ればむしろ、多方面から侵攻され包囲され易いポウィスで防衛拠点を築くより、国境の防塁まで後退した方が遥かに守り易いさ。ならば…、と考えられる敵の策も大方が予想通りだった。何も畏れることはない」
「相手が、あの黒騎士だったことを除けばな。…本当に、あともう少しで死ぬところだった。あまりルシアン殿を哀しませるような行動はしない方がいい」
「安心しろ。ジイは出撃する前から俺を引き止めてたが、きちんと腹を割って話せばすぐに誤解は解けて快く引き受けてくれたよ。やはり人と人が理解し合うためには、対話というものが必要だな」
覗き込むようにして含みのある笑顔を見せるラインハルトに、アセルスはあきれたように息をついた。
「ならば、その姿勢を他国にも向けた方がいい。お前の意志がどうであれ、評議会を無視した独断行動に各国からの批判が集まっている。…特に、南からの圧力は激しい」
「ただの野次馬だ。カーディフ王国に追従している国が多いのはなぜか、お前なら分かってるだろう。都合のいい最高の避雷針が現れたおかげで、自分たちは悠々と内政に従事して“国策”に心血を注げるからだ。軍事方面での責任はすべて“希望の星”が被ってくれるからな。
…そうして、奴らは口先だけの指導で体制作りに専心し、何も気づかない無知どもは知らず知らず、効率的に金を上納し続けていくって寸法だ。その金が、賢者どもの贅沢な食い扶持になっているとは夢にも思わずにな」
「人間たちが自分たちの社会を変えていくのは、ごく自然的な流れだ。それがどのような未来に続くのかどうかは、他ならぬ人間たちの手で決めていく必要がある。
それに、私は政治に興味はない。この戦争の根源にいる魔人を倒したら、私はすぐにでもウェールズを去るつもりだ」
ラインハルトはうっすらと笑う。
「あの“掃き溜め”を見捨ててか?」
「勿論、見捨てはしない。あの村についてはカーマ王国に自立支援を頼むつもりだ。私がいなくても生きていけるように、彼らは自分たちの手で、自分たちの生活を支えていかなければならない。…そうしなければ、彼らを本当の意味で救うことはできなくなる」
「トーマス王か。元ダヴェッド王国の重鎮だった男だな。…確かに、あいつならお前に対する信望も厚く、村の面倒を見てくれるかもしれん」
しかし、ラインハルトは一拍の間を置いて言葉を繋ぐ。
「だが、一度でも依存することに慣れてしまった人間は、そう容易く抜け出すことはできないものだ。…曰く、人はそれを“魔力”と呼ぶ。特に聖騎士という光り輝く魔力は、誰もが憧れ敬う一種の信仰のようなもの。
お前があの“掃き溜め”のために働けば働くほど、そこに住む人間たちはお前に依存する。…アセルスなら、きっと自分たちを幸せにしてくれるに違いない、とな」
「そうした、最も弱い社会的立場に彼らを突き落としたのはいったい誰だ」
アセルスは、鋭く細めた怜悧な眼差しでラインハルトを見返した。
「永い戦争で村を焼かれ、生きるためにやむを得ず住み慣れた土地から流浪せざるをえなかった彼らを冷たく追い払ったのは、いったい誰だ」
誰も共倒れを望まなかっただけさ、とラインハルトが言った。
「死に損ないを受け入れて国家という枠組みに亀裂を走らせるよりも、労働力にもならない難民を切り捨てて国庫を蓄えた方がいいのは当然の判断だ。この戦乱の時代、いつ国庫を解放しなければならないほどにまで財政が消耗するのかは予測不可能だからな。
…それとも、他国の国民のために、自国民の生活水準を下げろとでも言うつもりか?」
「一国だけで彼らを賄うのではなく、多くの国々で支援すれば、その負担を抑えながら彼らを助けることができたはずだ。一国に強いるのではなく、皆で助け合えば、彼らを救うことはいつだってできたはずだ」
途端、ラインハルトの笑壺に入ったような哄笑が広間に響いた。
「それが自然とできるなら、最初から評議会なんて必要ないだろう。そもそも、なぜ評議会とやらがあるのか、お前ならとっくに理解しているはずだ。
賢者どもにとって、最も大切なのは我が身の可愛さだ。誰だって、自分の身体には傷をつけたくないと思ってる。…とりわけ、他人のために自分が傷つくのは、よっぽど人々から称賛されない限りバカらしくてやってられないってことだ」
ひどく哀しそうに視線をうつ伏せたアセルスの肩に手を回して、ラインハルトは続ける。
「気にするな。これは別にお前のせいじゃない。賢者はあくまでも平和的かつ合法的に、国民から金を巻き上げようと一生懸命に努力しているだけさ。そしてこれは、どんな革命をもってしても治らない。
人間は不死じゃないんだ。やがて訪れる世代交代を繰り返せば、流動する時代に対応できない弱者から脱落し、上手く利用できた強者から生き残るのは当たり前だろう? それが単に国家にも当て嵌まるだけのこと。人生“ルール”無視が賢い生き方なのさ」
「…ならばなぜ、彼らを敵に回してまでポウィスに侵攻した。他国からの不信を買ってまで、お前が自ら出撃する必要はなかったはずだ」
「それは簡単だ。単に、俺がお前に会いたかったからさ、アセルス。お前なら必ず、俺の危機に間に合わせてくれると信じていた」
今までとは打って変わって、子供じみた口調で破顔するラインハルトに、アセルスは辟易とした表情を浮かべる。
「冗談はよせ。私と会うために自分の身を最前線にさらす王がどこにいる。それに、私と会うのが目的なら呼び出すだけで都合がつくだろう」
「惚れた女が俺のために命をかけて戦う姿は、最高に美しいものだ。お前の愛を感じるためなら、俺は喜んで命を賭けるさ」
アセルスは溜息をついた。
「私には分からない。愛は他人を思いやる崇高な感情だ。それがなぜ、相手を困らせることに繋がるんだ?」
「心から愛してる女にはイジワルをしてみたいという、男の相反する心理が複雑に絡み合うものでね。これは覚えておいて損はないぞ。将来、俺の妻になった時には特に重宝する考えだろうからな」
そう言ってから笑うラインハルトに、アセルスは知らず知らず首を傾げていく。
「…お前が子供だということはよく分かった。信用はできないが、それでもウェールズのために動いてくれたことは事実だ。
ありがとう、ラインハルト王。きっとレヴィン王も喜ぶだろう。お前には感謝する」
言って、アセルスが踵を返して立ち去ろうとするのを、ラインハルトが制した。
「おいおい、どこに行くつもりだ? せっかくここまで来たんだ。もう少しくらい、ゆっくりしていってもバチは当たらないぜ?」
「すまないが、黒犬の巣穴を発見したとの報せを同時に受けていてな。危険因子は早めに切除しておくべきだ」
途端、ラインハルトが怪訝な表情を浮かべた。
「巣穴だと? どこだ?」
「ここから南東にあるマンモス王国だ。どうやら洞窟の一部が巣穴に変わっているらしく、一部の村にもすでに被害が出ている。これ以上、被害が拡大する前に潰しておきたい」
ほんのわずか、アセルスが振り返る。
「それでは、私はこれで失礼する。…お前が死ねば、ルシアン殿が哀しむ。私などよりも、身内に愛を向けてやれ」
そう言って立ち去っていくアセルスと入れ替わるように、ルシアンが戻ってきた。
「若様、野犬の駆除はあらかた終わりました。…、どうか、なされましたか?」
家屋を曲がり、街路の奥へと消えていったアセルスの方角へと目を向けたまま、ラインハルトがそっと呟く。
「なあ、ジイ。俺はそんなに信用できない男か?」
いつもと違い、やや真面目な口調で問いかけられた王の言葉に、ルシアンは少し逡巡してから口を開いた。
「若様。本当に信頼していない人物とは、誰も口を利かないものです」
そんなルシアンの言葉に、ラインハルトは、そうか、とだけ呟くと、そのまま倒れるように崩れ落ちた。
「若様…? 若様ァッ…!」
薄れゆく意識の中で、ラインハルトは思う。
こんな無様な姿をアセルスにでも見られていたら、格好がつかなかったなと。
次回投稿日は1月30日を予定しております。
そして、何と……!
皆様のおかげで、読者様は千人を越えました!
すごく……嬉しい……です!!
当初、オワタの作品なんて気づいてすらくれないだろうなぁと思っていたんですが、まさかここまでとは思いませんでした!
本当に!
本当にありがとうございます!
これからも頑張って最終話を目指しますので、どうか最後までお付き合いしていただければ光栄です。
ここまで読んでいただき、感謝の念が絶えません。
ありがとうございました。
それでは、また次回でお会いしましょう!